一緒に祈る友

宇田慧吾牧師

新年度が始まります。年間聖句に「二人が地上で心を一つにして求めるなら、天の父はかなえてくださる」が選ばれました。互いのために祈る教会でありたいと思います。また、一緒に祈る友が増える一年であってほしいと願います。

〈随想〉受難節を迎えて

片岡広明牧師

 今年も受難節が始まりました。受難節はイースターの前日までの日曜日を除く40日の期間を受難節、または四旬節、大齋節と呼び、イエス・キリストがすべての人の罪を背負って十字架への道を歩まれ、苦難をお受けになったことを覚えて、克己節制に努める時とされています。英語ではレント(Lent)と言います。レントという言葉は「長くなる」という意味の言葉だとされ、春を迎えて日が長くなっていく季節にあたりますので、レントと呼ばれるようになったという説や、古ゲルマン語で「断食」を意味する言葉から来ていて、レントの期間中には断食を行うので、レントと呼ばれるようになったという説などがあるようです。

 レントの期間が40日とされているのは、イエスが伝道の生活に入られるにあたって、40日間の断食をなさって悪魔から試みをお受けになったことに基づいているとされています。今ではあまり断食を熱心に行うような教会は少なくなってきているように思いますが、レントの期間にはイエスの苦しみを覚えて一日に一食を抜く断食が行われたり、肉食を断ったり、お酒や甘いお菓子などを断ったりする習慣や、奉仕活動に励む習慣があります。

 レントの始まりの日を「灰の水曜日」と言います。カトリックや聖公会などでは、灰の水曜日の前の日曜日に棕梠の葉や枝を燃やしてできた灰を額に十字架の形に塗ってレントの始まりを覚える習慣があります。棕梠の葉は、棕梠の主日にエルサレム入城の際、イエスが「ホサナ、ホサナ」と歓呼の声をもって迎えられた時にイエスを迎えた人々が手にしていたものです。その歓呼の声はわずか数日のうちに「イエスを殺せ!」という罵りの声に変わっていくのです。その棕梠の葉を燃やして灰にするのです。人間の心は変わりやすく、人間の言葉は当てにならないものであることを自らのこととして自覚するために棕梠の葉を燃やし、灰を罪の悔い改めのしるしとしたのです。灰の式を行わない教会でも、その名残でレントの始まりの日を灰の水曜日と呼んでいるのです。日曜日をレントの期間に含めないのは、日曜日はイエスが復活された日だからです。ですから毎週の日曜日の礼拝は毎週イエスの復活を祝うものなのですが、特にイースターにはイエスの復活を覚えて感謝し、喜び祝います。 今年のイースターは4月21日です。ひとりでも多くの皆さんと共に、主イエスの復活を喜び祝うことができますように、イースターに向かって祈りをもって備えていきたいと思います。

牧師日記 3月5日

宇田慧吾牧師

 初めて教会に行った日「わたしの目にあなたは高価で貴い」の聖書の言葉を聞き、その日の夜は超が10回つくほど嬉しかった。亀岡朝祷会の証しでOさんがそのように話してくれました。彼はその後、箴言の「自分の土地を耕す人はパンに飽き足りる」の言葉に感じるところがあり、農家になることを決め、京都に移住しました。家庭のことや仕事のことで進むべき道に迷った時、聖書の言葉に励まされ、道を開かれてきた彼の人生の歩みが印象的でした。

 Oさんは今、京都市内の教会に通っているのですが、以前1年程、亀岡会堂に通っていた時期もあったそうです。亀岡朝祷会に向かう道中、車に一緒に乗っていた方が「今日証ししてくださる方は、亀岡会堂の礼拝に来て、一生懸命パソコンでメモ取りながら説教聴いてたけど、パタッと来なくなって、なにか躓きはったんやろうか」そんなご心配を話していましたが、本人の話を聞くと実際には逆のことでした。

 信仰が揺らぐ時期があり、いつもの教会ではなく亀岡会堂に通わせてもらっていた。そんな中で亀岡朝祷会に誘われた。来てみると通っていた教会のメンバーの知り合いがいて「〇〇さんがOさんは元気?と気にしてたよ」と言われ「これは戻らねば!」と思い、もとの教会に戻った。亀岡会堂と亀岡朝祷会が無ければ、今の自分はなかったと思います、と。

 教会に集まっているお互いのことは、案外知らないことも多いものですが、Oさんのように神さまとの絆を保ち深めるために教会が用いられると嬉しいですね。

説教要旨 「御心にふれる」ルカによる福音書5章12-26節

2月23日説教要旨【片岡広明牧師】
「御心にふれる」ルカによる福音書5章12-26節

 今日の聖書箇所にはふたつの出来事が伝えられていますが、共通しているのは、イエスによる病の癒しということです。人間が病に苦しむことは、聖書の時代の人も現代人も変わりません。時代が変わり、医学が進歩して、かつては不治の病であったものが克服されていくということもありますが、AIDSのように昔はなかった病気が新たに出現することもあります。病との闘いはいつの時代も人間にとって大きな課題です。

 イエスに出会い、イエスに癒しを求めた「重い皮膚病」の人は、イエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」と言いました。「御心ならば」とは、あなたがわたしのことを御心に留め、わたしの病が癒されることをあなたが心に望んでくださるならば、あなたの望みどおりに現実のものとなります、そのことをわたしは心から信じ、あなたに寄り頼みます、とイエスに心からの信頼を寄せる気持ちから出た言葉でしょう。イエスはその信頼に応えて、「よろしい」と言われ、この人を癒されたのでした。「中風」の人には、この人を床に載せて運び、屋根にまで上がってイエスにこの人の癒しを願い出た、寄り添う人々がいました。その熱い心のうちにイエスは彼らの信仰をご覧になり、この人を癒やされたのでした。

 人はいつかは死を迎えます。この癒された人々も、のちには皆、死にました。しかしこれらの人々は、イエスと出会い、イエスによって救われたことを生涯忘れることはなかったでしょう。そしてイエスの御心に留まり続けて、望みを持ち続け、生涯を全うしたことと思います。主の御心にふれて生きること、そのことをわたしたちも心に深く留め、病やどんな苦しみにも負けず、主の御心に生きるものでありたいと思います。

説教要旨「実を結ぶ人」ルカによる福音書8章4-15節

2月17日説教要旨 【胡麻会堂・宇田牧師】
「実を結ぶ人」 ルカによる福音書8章4-15節

 3万2千年前の種が発掘された話はご存知ですか?永久凍土から見つかって、ちゃんと花が咲いたそうです。種に秘められた生命力には驚かされます。わたしたちの心に蒔かれた種も、種自身の生命力でちゃんと実を結んでいきます。「実を結ぶ人になろう!」とか「心の畑を整えよう!」というよりは、神さまの蒔いてくれた種の生命力に信頼して、安心して待つ心を持ちたいと思います。

 昨日、昨年度に洗礼を受けたO君から嬉しい連絡がありました。しばらく東京で生活するので、東京の教会に転会したいとのこと。彼は大学生の時に自分で聖書を買って読み始め、大好きなおじいちゃんが亡くなった時に、礼拝に通い始めました。礼拝でなんとなく心が慰められる気持ちがして教会に通い続けました。洗礼を受けてすぐ引っ越しになりましたが、東京でちゃんと通う教会を見つけられたようでなによりです。彼のように、この教会に訪れた人の心に神さまの種が蒔かれて、芽を出していくと嬉しいですね。

 自分の信仰の歩みを振り返ると、種が成長するまでにはずいぶん時間がかかったなと思います。心が「道端」のようで芽が出ない時、心が「石地」のようで根を張れない時、心が「茨」に覆われて成長できない時、いろんな時期がありました。でも、神さまが耕してくれて、種自身の生命力でちゃんと実りを結んでくれました。今も「ちゃんと実りを結ぶだろうか?」と不安を感じることも時々ありますが、耕してくれる神さまと種自身の生命力を信じます。わたしたちは「実を結ぶ人」です。人生の実りをどうぞお楽しみに。

説教要旨「新しいぶどう酒は新しい革袋に」ルカ5章38節

2月3日説教要旨【亀岡会堂・片岡牧師】
「新しいぶどう酒は新しい革袋に」ルカ5章38節

 「新しいぶどう酒は新しい革袋に」とはイエスがお語りになった言葉の中でも最も知られている言葉のひとつですが、イエスの言葉であるということを知らずに使っている人もいるでしょう。社会の中に新しいものが生まれる時には、新しいものを受け入れる心構えと、古いものを思い切って捨てる覚悟とが必要だというような意味での用いられ方をされると思います。新しい社会の仕組みや新しい技術、たとえば、鉄道や自動車が世の中に現れた時、「わたしはこれからもずっと馬に乗る!」とか「わたしはかごに乗る」と言っても、そんなことはできません。戦争に敗れて新しい平和な民主主義の時代を迎えた時、「どこまでもわたしは武器を持って戦うのだ」と抵抗しようとしてもそんなことはできないのです。古いものを引きずっていては、新しい時代に生き残ることはできないのです。

 イエスがこの言葉をお語りになった背景には、古いユダヤ教からの脱却という動機が働いていたと思います。具体的には、断食をめぐる問答がイエスと人々との間で起こったのです。ユダヤでは悲しみの時、嘆きの時、罪を犯した時などに、欲を断ち、心を神に向けることに集中し、罪を悔い改めて祈りに専念するために断食が行なわれました。

 しかし罪の悔い改めと言っても、どこまで断食をして祈れば、人間が改まるのでしょう。まことの救い、完全な救いが実現されなければ、どこまで行っても悔いるばかりで、ちっとも改まることがありませんが、メシアであり神の子であるイエスは、どんな人でも真の悔い改めに至らせるまことの救いの道を開くためにこの世に来て下さったのです。イエスと弟子たちとの関係においては、師と弟子の関係を越え、メシアとその救いに与る者という新しい人間のありようがそこに実現されているのです。

説教要旨「聖霊と火」ルカによる福音書3章15-22節

1月8日説教要旨【須知会堂・宇田牧師】
「聖霊と火」ルカによる福音書3章15-22節

 Iさんのところは年末年始はいかがでしたか(^^) ・・・ご家族が集まられて忙しく、お疲れになった。それはお疲れさまでした。その気持ちぼくもよ~く分かります。ぼくも大晦日は教会の青年9名とスイス人の牧師で年越しして、元旦も同じメンバーでお節を食べたりしました。みんなで過ごす時間は楽しいですけど、お料理とかあれこれの準備とか、いつもと違う生活のリズムになって、やっぱり疲れ果てますよね(^_^;) また、身体や心が疲れている時は、人との関わりも感情の起伏を抑えるので精一杯だったりします。

 そんな中でも、よかったな~と思うこともあって、この前の日曜日なんかはいろんな方が気遣って助けてくれました。自分が弱っている時に支えてくれる人がいる、本当にありがたいことです。感情的には「ごめんもう無理」でしたけど、自分の心をのぞいてみると「感謝しなきゃな」という気持ちも、ちゃんと隅っこに座っている。心が弱っている時にも、そういう気持ちを持ち続けられるのは、神さまのおかげかなと思います。

 この一年も神さまとの心の繋がりを大切にすごしたいです。「聖霊と火」をキリストから受け取りましょう。聖霊は神さまとの心の絆です。わたしたちの心と神さまの心を結びつける力です。そして火はわたしたちを成長させてくれる力です。わたしたちの心には自分の力では克服することの難しい思い上がりやわがまま、かたくなさ、幼さもあります。そんなところも神さまがちゃんと整えて、成長させてくれます 。

年末年始の一コマ。紅白を見ながら…

説教要旨「不安と喜び」マタイによる福音書2章1-12節

12月30日説教要旨【亀岡会堂・片岡牧師】
「不安と喜び」マタイによる福音書2章1-12節

 2018年は豪雨や地震、台風などの災害が多かった一年でした。国内外の社会情勢も大きく揺れ動いた一年でした。多くの人々が不安を感じつつ過ごした一年であったと思います。そんな中でわたしたちは教会に集い、イエスにつながる者として日々、神様のみ言葉を心に留め、主を証しする歩みを心がけてきました。私たちの歩みを神様が守り導いて下さいました。教会の交わりを通じてわたしたちは出会いと交わりをもち、少しずつ深めてまいりました。

 先週のクリスマス礼拝と祝会の後、なかなか教会に来ることのできない高齢の会員の方をお訪ねできることになり、数名の有志の方とキャロリングに行くことができました。『きよしこの夜』を歌い、祈りをささげました。神様が用意して下さった出会いに感謝しました。共に主イエスを信じ仰ぐ者として心を寄せ合って祈りを共にすることがいかに深い喜びと慰めをわたしたちにもたらすことであるか、改めて教えられた思いがいたしました。

 クリスマスの降誕物語のひとつに、東方の博士たちの来訪があります。占星術をするこの人たちは、救い主の降誕を知らせる星を見て、はるばる旅をして来たのです。しかし救い主の誕生を喜ばない人たちもいました。権力者たちの殺意が燃え上がる中、救い主に望みをかけた三人の博士たちは星に導かれてついに幼子イエスとの出会いへと導かれていくのです。  危険を冒してもメシアを訪ねる旅を続けた博士たちの信仰は何と深く厚いものであったことでしょうか。主の恵みに望みを抱いて進んでいく者を、主なる神は喜びの出会いへと導いて下さるのです。間もなく一年が終わりますが、これまでの主の豊かな恵みを感謝し、望みをもって新しい年を迎えていきたいと思います。

説教要旨「恵みの約束を果たす日」エレミヤ書33章14-16節

12月2日説教要旨【亀岡会堂・宇田牧師】
「恵みの約束を果たす日」エレミヤ書33章14-16節

聞いてくださいよ(´・ω・`) わたしは先週、苦しい時間をすごしました。元気になりたいと思っても立ち直ることができず、神さまに心を向けても恵みを実感することができない、そういう苦しさの中をすごしました。

そういうわたしを、励ましてくれる人が何人もいました。ありがたいことです。さりげない形で励ましのメッセージを送ってくださる方、電話をくれて話を聞き寄り添ってくれる友。そんな周囲からの励ましをありがたく受け取りつつも、それでも立ち直ることのできない自分がいました。

土曜日の入門講座の時、その日は4名の青年が集まっていましたが、そこで「実はいま悩んでいるんだ」と話しました。いつもはとりとめもない話をしていることの多い入門講座ですが、その日はみんなで真剣にその課題について語り合い、最後に心を合わせてお祈りしました。なかなか元気になることができずにいたわたしも、さすがにそういう仲間の存在には励まされました。

うまく立ち直ることのできない時間、うまく元気になることのできない時間を過ごすのは、そんな自分に寄り添い、痛みを共にしてくれる友を得るためなのかもしれません。「恵みの約束を果たす日が来る」そう宣言した神さまは、ご自身が人の体と人の心を取ってこの世に生まれ、人の痛みを共にすることを選びました。それは神さまご自身が、わたしの痛みを共にする友となるためです。そんな神さまの想いを心に宿し、人の痛みを共にするキリスト者として、わたしたちは教会に集められています。

説教要旨「この一年もお世話になりました」ヨブ記38章1-18節

11月4日説教要旨【園部会堂・宇田牧師】
「この一年もお世話になりました」ヨブ記38章1-18節

◇今日は一年に一度の逝去者記念礼拝です。先に天に召された家族のことをあらためて思い起こそうという気持ちで集まられた方が多いかと思います。牧師として申し上げたいことはただ一つで、私たちが思い出す以前に、天にいる家族は私たちのことをいつも見守ってくれていますし、想ってくれています。必要な時には助けてくれています。私たちが忘れてしまっている時にもです。

◇この前、教会に遊びに来た子どもたちが「川をつくろう」って言ってるんです。なんだろ~と思っていたら、教会裏の駐車場の砂利を掘って、その溝にホースで水を流して川つくってるんです。しかも夕方になったら、つくった少年少女はいなくなって、川は残ってるんです。これ、片付けるかなどうかな~(^^;と思って待っていたら、戻って来て手にうまい棒10本持ってるんです。「牧師さん、いつもお世話になってるんで、これ、教会に来る子どもたちに食べさせてあげてください」って…( ;∀;) 感謝されたくてお世話してるわけじゃないですけど、たまにはそんな風に言ってもらえるとやはり嬉しいですよね。

◇また、わたしの妻がいま妊娠7か月目なんですけど、まだ産まれてないこの時点でも、親にはお世話になったんだなと思います。まだ産まれてなくても親の苦労にやや気づくわけで、これから産まれてきたらもっと、また歳をとっていけばいくほど、いろんな人にお世話になったことにも気づいていくんでしょうね。天に召されていった家族にもお世話になったこと、まだ気づいてないことの方が多いと思います。これから人生の中で気づいていくんでしょうね。

◇今日聖書からの大切な言葉は「知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは」。よく分かってもいないのに、自分は救われないとか、自分は不幸だとか、勝手に決めるなって神さまが言ってる言葉です。神さまの方ではみんなちゃんと幸せになれるように道を整えていて、その途中には人間から見ればいろんな出来事がありますけど、そういうことも含めてちゃんと神さまが整えてくれている道があるんだ、ということを今日の聖書は言っています。

◇家族にも、たくさんの人にも、神さまにも、この世界にも、いろんなものに私たち支えられています。天に召された家族を思い起こす今日、「この一年もお世話になりました」という感謝を心に持ちたいと思います。