〈同志社四中高宗教週間〉 「恋と福音」 イザヤ書46章3-4節

宇田慧吾牧師

 中学1年の6月、初めての彼女ができました。毎日、何時間も長電話をしましたが、何を話していたのかはおぼえていません。きっと何気ないことを話していたのでしょう。3ヶ月程で別れました。でも、その後も良い友達として関係は続き、時々そのような長電話をしていました。しばらくしてその子のお父さんが病気で亡くなりました。急なことでした。その時、電話しようと思う気持ちと、電話して何を話せばいいんだろうという気持ちがありました。結局、電話せずにその時は過ぎ、そのまま彼女とは疎遠になりました。今、思い返すと、「この人を励ましたい。元気づけたい」と思いながらも、どんな言葉をかければよいのか分からない。そんな気持ちを初めて経験した時だったように思います。

 その後は、似たような経験の繰り返しでした。中学3年の時、新潟県中越地震があり、仲間と一緒にボランティアに行きました。雪かきをしていると、「ありがとう」と声をかけてくれる人がいて、自分は人のために働いて「ありがとう」と言われた時に幸せを感じるのだと気づきました。一方、当時は震災支援が整っていない時代で、全国から送られてきた支援物資の多くは要らない物ばかりでした。そのような物を捨てるわけにもいかないので、それらを倉庫で整理するのもボランティアの仕事でした。送っている人たちは善意で送っているけれど、善意の空回りが起こっているのだと思いました。そう考えると、自分もまた、中学3年生で、車の免許があるわけでもなく、ボランティアのために用意されたような仕事をさせてもらっている。ただ、新潟の人たちを助けたいという気持ちで現地に来てしまった。そんな自分も善意の空回りを起こしている一人なのかなと思いました。その時から「人を助ける仕事がしたい。でも、自分には人を助ける力が無い」ということが自分の中の問題になりました。

 ちょうどその頃、一人の市議会議員と出会います。「八百屋が野菜のプロなら、政治家はまちづくりのプロだ」と言い、みんなが幸せに暮らせる町をつくりたいと語ります。それを聞いて、単純素朴な宇田少年は、「政治家になればみんなが幸せに暮らせる町をつくれるのか!」と思い、将来は政治家になろうと決めました。中学3年間は野球しかやっていませんでしたので、成績は各教科で下から1番を独占。政治家になるためには、どこそこ大学の政治経済学部に行けばいいだろうと勉強を始め、2年程で成績表がちょうど逆さまになりました。ところが、志望校に合格できるくらいの成績になった時、ふと思いました。「政治家って・・・どんな仕事するんだろう」。考えてみると、議会で制度をつくることももちろん人のための仕事ではありますが、自分が新潟で雪かきをしていて通りすがった人に「ありがとう」と言われて幸せを感じたこととは、ずいぶん次元が違うのではないかと思いました。そう思ったのは高校3年の夏。みんなが進路を決め受験勉強を始めたその頃、僕は進路の目標を失いました。

 それからは、学校に行ったり、学校に行かずに公園をふらふらしたり、図書館に行ったり、ぼんやりした日々を過ごしました。当時はボーイスカウトに所属していて、その隊長がBARを経営していたため、時々遊びに行っていました。そこにはいろんな大人がいて、その中でもひときわ怪しい大人がいました。ヤマダさんという人です。その人は高校を中退して大検で大学に入り、大学も中退してワーキングホリデーでオーストラリアに行き、そこからアジアを周遊してインドでインド仏教の修行者に出会い、そのまま7年間修行して帰ってきたという人です。怪しいでしょう。その人がある時言いました。「ケイゴ君、インド仏教の輪廻転生は質量保存の法則に基づくって知ってる?」「いえ、知らないです 」「46億年前に地球ができた時、大気も一緒にできたわけだけど、その後、隕石が入ってきたり、ロケットが出ていったり、多少の増減はあるけど、大気の中の物質量は基本的には変わらないんだ。つまり、今は自分の体になっているこの物質も、46億年前には海だったかもしれないし、土だったかもしれない。46億年後には空になっているかもしれないし、風になっているかもしれない」。彼のそんな話を聞いて18歳の僕は「なるほどこの世界にはそんな大きな命の流れがあるんだな」と感じ入りました。けれどもしばらく考えると、「じゃあ、そんな大きな流れの中で、『人を助ける仕事がしたい』『人のために働きたい』と自分が懸命生きることにどんな意味があるんだろう。・・・・・いや、意味無いな」。こうして高校3年生の僕は、生きる意味を失いました。

 それでも高校3年生、とにかく何か進路を決めなくちゃいけない。二つひねり出しました。一つは学校の先生。自分が小学生の頃、問題を抱えていた自分を受け入れ助けてくれた先生を思い出し、あの先生のようになって自分も悩んでいる生徒を助けることができたら、と。もう一つは牧師。子どもの頃教会に通っていた時期があって、教会の大人はみんな優しくて、人の繋がりが豊かな場所だった。自分も牧師になってそんな教会をつくれれば、と。でも、湖でカモにパンを投げながら思いました。「自分が学校の先生になったとして、かつての自分のような生徒を受け入れてあげられる心の広さがあるだろうか、いや無いな。自分が牧師になったとして、集まってきた人たちを受けとめることができる程の心の器があるだろうか、いや無いな。自分何にもできないな」。心底、途方に暮れました。

 そう思ったすぐ後、不思議な経験をしましたが、これは言葉では説明できないところです。子どもの頃に教会で聞いた「神さまはね、いつも君と一緒にいて、君を守っていてくれるんだよ」という牧師の言葉がふと心に浮かんできました。その時、救われたという実感があって、自分は人を助けることはできないけど、いま神さまが自分を救ってくれたように、あなたのことも神さまが救ってくれる、これを伝えることなら自分にもできるかもしれないと思いました。そして、牧師になろうと思いました。

 牧師になるため同志社大学神学部に進み、神学部の伝統に漏れることなくきちんと挫折して、卒業後、東京の会社で働き始めました。東京に来てしばらくした頃、彼女に再会しました。中1の6月にできたあの彼女です。今まで何してたのという話から、今何してるのというお互いの話をしました。彼女は薬剤師を目指して、薬学部にいました。お父さんだけでなく、他の親戚もその後、ご病気で亡くしたそうです。そんな経験から、彼女は病気の人を助ける薬剤師を目指したそうです。長い時間をかけて、彼女の人生に神さまが応えてくれたように感じました。

 最後に、聖書の言葉を一つ紹介します。「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザヤ書46章4節)。「わたし」は神さまです。聖書で神さまが「造った」という時には大前提があります。神さまは良いものとして、すべてのものを造りました。この世界も、すべての人も、すべての出来事も。でも、人生の時々には、「今この時」が良いものだと信じられない時があります。すなおには良いものと思えない出来事も起こります。そういう時について、この聖書の言葉は「信じろ」でも「乗り越えろ」でもなく、「わたしが担い、背負い、救い出す」と言っています。造った神さまの責任で、全部を背負い、救い出すと言っています。

 中1の6月にできた彼女、あの時から、彼女にこれといって気のきいた言葉を僕はかけられないままでしたが、ちゃんと彼女の人生の出来事にも神さまは応えてくれたように僕は感じています。皆さんも、どうぞいい恋できますように。

2019年6月6日同志社中学校