《説教要旨》「信頼はだんだんと深まる」ローマの信徒への手紙4章1-12節

宇田慧吾牧師

 先日、予期せぬ困難な出来事に立ち合うことがありました。その時、神さまの御手の内にあることを信じつつも、心の中には不安や疑いもありました。そういった気持ちが今回の聖書箇所を読む中で変えられていく経験をしました。

 今回の聖書箇所では、パウロが「信じることによって救われる」ということをアブラハムとダビデを例に挙げて語っています。

アブラハムは「信仰の父」と呼ばれ、神に従順に従った姿が多く描かれています。そんなアブラハムでも恐れからか神に委ねきれず、自分の策を巡らして、愚かしい行動をしたこともありました(創12:10-20)。結局その時にも、神に助けられることで、神への信頼を深めたようです。その後の場面では、平気で損な選択を受け入れたり、危険な出来事にも勇敢に立ち向かったりしています。

 また、ダビデも敬虔な人物であり一国の王でもありましたが、ひどく恥ずかしい失敗も経験しました(サム下11:1-27)。それでもダビデが誠実であったのは、自分の非を素直に認め、神に罪を打ち明け、赦しを求めたことでした。ダビデによる詩編32編には「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は」とあります。

 アブラハムやダビデは、神に助けられる経験や赦される経験を重ねることで、神への信頼を養ったようです。パウロもまた時間をかけてキリストに出会いました。私も支えられる経験や赦される経験を重ねることで、神への信頼を深めていきたいと思わされました。

2020年2月23日 園部会堂

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.8

宇田慧吾牧師

今日は、ローマの信徒への手紙4章1-12節を読みます。

04:01では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。 04:02もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。 04:03聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。 04:04ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。 04:05しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。 04:06同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。 

 04:07「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。

 04:08  主から罪があると見なされない人は、幸いである。」

04:09では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。 04:10どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。 04:11アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。 04:12更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。

 前回までは自分の『罪』とどう向き合うかが大きなテーマでしたが、今回からは『信仰義認』がテーマになります。

 信仰義認とは、「信じることによって義とされる・救われる」という意味です。対義語は行為義認で、「行いによって義とされる・救われる」です。

 パウロはかつて律法を正しく実践することによって救われるという考えを強く持っていましたが、イエス・キリストによる救いを経験してからは、「人は行いによってではなく、信じることによって救われる」という考えに変わりました。

 「報酬ではなく恵み」という風にも表現されています。報酬は働いた対価として獲得するものですが、恵みは無償で与えられるものです。

 パウロは自分の経験から「救いは報酬ではなく恵みだったのです!」と熱意をもって語っています。

 報酬ではなく恵みとして救いを経験した人物が二人紹介されています。アブラハムとダビデという人たちです。

 アブラハムはある時、神に語りかけられました。「あなたの受ける報いは非常に大きい。あなたから生まれる者が跡を継ぐ。天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」(創世記15章1-5節)。

 たいへんありがたい語りかけではありましたが、現実は真逆でした。アブラハムには子どもがなく、既に年老いていました。普通ならとても子孫が繁栄するという朗報を信じる気持ちになれるような状況ではありませんでした。

 ところが、「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と続きます。そして、神の語りかけは言葉通りに実現していきました。

 パウロがここで言いたいのは神との関係における信じることの大切さです。アブラハムは「ただ信じた」、神はアブラハムのその素朴な信頼を「よし」としました。

 また、ダビデという人も神への信頼に生きた人でした。ダビデは一国の王でしたが、人生の中で大きな失敗を経験したこともありました。旧約聖書のサムエル記下というところに以下のように書かれています。

11:02ある日の夕暮れに、ダビデは午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していた。彼は屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた。女は大層美しかった。 11:03ダビデは人をやって女のことを尋ねさせた。それはエリアムの娘バト・シェバで、ヘト人ウリヤの妻だということであった。 11:04ダビデは使いの者をやって彼女を召し入れ、彼女が彼のもとに来ると、床を共にした。彼女は汚れから身を清めたところであった。女は家に帰ったが、 11:05子を宿したので、ダビデに使いを送り、「子を宿しました」と知らせた。

 この後、ダビデはこの出来事を隠そうとして最悪の結果に陥ります。

 まず、夫であるウリヤを戦地から呼び戻して妻と床を共にさせようとしますが、きまじめな夫は「戦場で皆が野営している時に、自分だけ家に宿ることはできません」と言って家に泊まろうとしません。

 そこでダビデは指揮官に宛てて書状を書き「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」と指示します。この指令は指示通りに実行され、ウリヤは命を落とし、その後ダビデは身ごもったバト・シェバを妻とします。

 ダビデの画策は成功し、自分の過ちを隠せたかと思いきや、結局この出来事を指摘する人が現れ、その過ちは白日のもとにさらされてしまいます。

 「王は情欲から人を殺し、他人の妻を奪った」そうささやかれる結末になり、ダビデ自身、苦しい心情であったことでしょう。

 ダビデのやってしまったことは決して帳消しにできるようなことではありませんが、一方で、この出来事の直後、ダビデは断食し、床に伏して祈り、心から神の赦しを求めました。

 七日後にダビデは起き上がって、身を洗って、着替え、礼拝をして元の生活に戻りました。この切り替わり様に周囲も驚くのですが、ダビデには自分なりの根拠があったようです。

 このエピソードから分かるように、ダビデは普通の人間として過ちを犯してしまう人物でしたが、同時に、自分の罪を率直に認め正面から神の赦しを求める人でもありました。

 「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである」という詩をダビデは詠みました。

 ダビデは他の場面でも、自分を支え続けて来てくれた神を忘れ、自分の力に頼って失敗したり、心の隙をつかれるような失敗を経験したりしますが、その度に自分の過ちを認め、率直に神の赦しを求める人でした。

 行いにおいては失敗しても、神の憐れみと赦しに信頼し続けるダビデの生き方には教えられるものがあります。

☆☆☆

 パウロが今回の箇所で語っているのは「行いではなく信頼によって救われる」ということですが、そういったことを語るうえでパウロには言及せずにいられないことがありました。

 それは「割礼」についてでした。

割礼はユダヤ人にとってはマストなことでした。もちろんパウロも受けていました。

 けれども、だんだんとユダヤ人キリスト教徒だけでなく、ユダヤ人以外の異邦人キリスト教徒が増えてきた時に、彼らは割礼を受ける必要があるか否かという点が問題になりました。

 パウロは結論として、割礼は「救われた証し・印」であって、救われる条件ではないと語りかけます。

 「割礼を受けなければ救われない」とか、「〇〇しなければ救われない」といった救われるために必要な行いや条件というものはない。ただ神の愛を信頼すればいい。

 そのような信頼を神は「よし」とされる。

 パウロはそのような考えに変えられたようです。

2020年2月23日

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.7

宇田慧吾牧師

03:21ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。 03:22すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 03:23人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 03:24ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 03:25神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。 03:26このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。 03:27では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。 03:28なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。 03:29それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。 03:30実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。 03:31それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。

 前回は「律法によっては罪の自覚しか生じない」という考えに至ったところまで読みました。

 これまでは律法を忠実に実行している者としての自負を持ち、律法で他者を裁いてきたパウロにとってそのような気づきは大きな転換でした。

 さらにパウロは、自分の罪を自覚することで、もう一つのことにも気づきました。

 それは「神の義」と表現されています。

 シンプルに言えば「神の正しさ」ですが、その中身は場面によって多義的です。約束を守る誠実さ、公正さ、時には寛容さや慈しみも意味します。

 パウロが「神の義」と言う時には、「神と人との正しい関係」、端的に言えば「神は人を救う」ということを意味します。

 やさしく言い換えれば、人間の側からは正しい関わり方をできなくても、神の側から正しい関係を持ち続けてくれることです。

 罪ゆえに、自分の側からは神さまとの正しい関係を続けられなかったり、壊してしまったり、裏切ってしまったり、逸脱してしまうのに、その度ごとに神さまの側から関係を修復し、繋がり続けてくれるといったところでしょうか。

 そういう手厚い配慮を受けることについて、パウロは「何の差別」もないと言っています。神の側からそのような関わり方をするのは、その人が優れているとか、報酬に値するとか、そういった何らかの条件を満たしているからではなく、神の側からの「恵み」であり、「無償」で与えられるものなのだと言っています。

 ここでもう一つ重要なポイントが出てきます。

 このような関わり方をするうえで、神は痛みを引き受けているということです。「イエス・キリストによる贖い」とパウロは表現していますが、神は人と正しい関わりを保つために罪の代価を引き受けることを選びました。

 具体的には、イエス・キリストが十字架にかかったという出来事についてパウロは話しています。パウロはこの出来事を次のように受けとめました。

 「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです」。

 少し難しい言葉使いですが、要するに、人は罪ゆえに神との正しい関係を続けられずにいますが、神が全部尻拭いをして人とも正しい関係を回復してくれたということです。

 パウロの経験に即して言えば、パウロは律法を忠実に実践し、神に対して正しく生きてきたつもりでしたが、実際にはそうではありませんでした。熱心さのあまり償いようのない罪も犯してしまいました。そんなパウロのためにキリストは十字架にかかって、罪の償いを担ってくれました。パウロは神に対して正しく生きることができませんでしたが、そういうパウロに対しても神は正しい関係を保ってくれました。

 かつてパウロが目指した「正しい関係」は律法を忠実に守り実践することでしたが、神がパウロに示した「正しい関係」は赦すこと、相手のために痛むこと、関係を絶ち切らずにつながり続けることでした。

 そんな「神の義」に出会ってパウロの価値観が変化したことが二つ書かれています。

 一つは、「人の誇り」が必要なくなったこと。

 かつてはパウロのイメージする「正しさ」を自分は実践しているという自負をもって生きていましたが、そういう「人の誇り」は必要がなくなったようです。

 もう一つは「律法を確立する・全うする」ということがどういうことであるかについて考えが変化しました。

 かつては律法を忠実に実践することが「律法を確立・全うする」ことだと考えていました。けれども今は、律法によって自分の罪を知り、その罪を神が赦してくれいていることを知ることが「律法を確立・全うする」ことだと考えるようになりました。

2020年2月16日

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.6

宇田慧吾牧師

 さて今日は、ローマの信徒への手紙3章1-20節を読みます。

03:01では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。 03:02それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。 03:03それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。 03:04決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。 03:05しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。 03:06決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。 03:07またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。 03:08それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。 03:09では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。 03:10次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。 03:11悟る者もなく、神を探し求める者もいない。 03:12皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。 03:13彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。 03:14口は、呪いと苦味で満ち、 03:15足は血を流すのに速く、 03:16その道には破壊と悲惨がある。 03:17彼らは平和の道を知らない。 03:18彼らの目には神への畏れがない。」 03:19さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。 03:20なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

 前回までは、律法の役割について確認してきました。

 律法は、他者を裁くためではなく、自分の罪を自覚するためにある、というのが一番のポイントでした。

 また、律法を神からいただきながらもその実践を伴わないユダヤ人より、律法を知らなくても律法に適う生き方をしている異邦人の方が優れている。律法に従い割礼を受けているにもかかわらず律法を実践していないユダヤ人よりも、割礼を受けていなくても律法に適う生き方をしている異邦人の方が優れているということが語られてきました。

 では、律法をいただいたこと、割礼を受けたことには意味がなかったのでしょうか。それらは無駄なことだったのかというと、パウロはそうは言いません。

 律法を受け取ったことの意味は、「神の言葉をゆだねられた」ことにあるのだと言います。

 たとえ人がゆだねられた神の言葉で無益な議論を始めてしまう程に不誠実であったとしても、人を信頼して語りかけた「神の誠実」「神の真実」は変わらない。

 そのような神に出会ったこと、メッセージを託されたこと、その出来事自体に意味があるとパウロは語ります。

 先日、教会外で親しくしている方とお話していた時に、「信仰をお持ちの方が、えてして、人格的問題を持ってたりしますよね」という話がありました。

 実際、教会の中には自分の人格的な課題に真摯に悩み、向き合って生きてきている方が少なくないように思います。

 パウロはそんな風に、自分の持っている問題を素直に認め、自分の弱さや至らなさを受け入れることを勧めています。

 そういった自分を正面から受けとめることが「罪の自覚」の第一歩であり、そこに導くことこそが律法の役割だったのだとパウロは自分の経験から語っています。

 「正しい者はいない。一人もいない。」
 「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない。」
 「律法によっては罪の自覚しか生じない。」

 これまで律法の実践者としての自負を持ち、他者を正しくない者として裁いてきたパウロが、『自分の罪』を深く受けとめるようになったことは大きな転換です。

 落語家の立川談志さんは「あたしゃ正しい人間ですよ!自分が正しくないって知ってますからね!正しいってそういうことでしょ」と仰っていたそうです。

 当たり前のことではありますが、完全な人はいません。なる必要もありません。みんな自分の不完全さを抱えて生きてます。

 教会は長い時間をかけて『罪の自覚』という言葉に「暗い」「怖い」イメージをつけてきてしまったかもしれません。でも、ホントは怖くないことです。むしろ、すがすがしいことです。

 『罪の自覚』は、「そういう自分でいいんだよ」「完璧じゃなくていいんだよ」という神さまからの優しい語りかけでもあります。

2020年2月2日

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.5

宇田慧吾牧師

 娘が1歳の誕生日を迎えました。

 今日まで健康が守られたことに感謝しています。

 昨日は1歳の娘と一緒にご高齢の方を訪ねました。お医者さんから「いついつまでです」と言われ、心の備えをしてすごしてこられた方です。

 ところが、言われた期日から1年程が過ぎようとしています。

朝毎に「おや、また目が覚めた。どないしよ~」と思われたりもするそうです。

 お訪ねすると、おもしろおかしい笑い話をしてくださり、また、娘をかわいがってくれます。

 命の終わりが「いつ」かは人間には分かりませんが、人生の最後まで笑顔ですごせたら幸せなことですね。

 さて今日は、ローマの信徒への手紙2章17-29節を読みます。

02:17ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、 02:18その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。 02:19-20 また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。 02:20 02:21それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。 02:22「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。 02:23あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。 02:24「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。 02:25あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。 02:26だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。 02:27そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。 02:28外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。 02:29内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。

 前回読んだ2章1-16節と重なるテーマです。

 前回はパウロが言っている3つポイントに着目しました。

  1. 律法は、他者を裁くためではなく、自分の罪を自覚するためにある。
  2. 「ユダヤ人とギリシア人」といった立場の線引きではなく「行いが善か悪か」が重要。
  3. 一般論としての福音ではなく、「わたしの福音」という確信。

 今回もトピックは同じです。

  1. 律法を「知ってる」「教える」けど、自分は実践できていますか?
  2. 割礼を受けているか否かという外見的な印ではなく「心に施された割礼」という内面的な印が重要。
  3. 真の誉れは人からではなく、神から来る。

先日、教会員でご逝去された方がいて、その方の人生をふりかえる機会を持ちました。

 最後の数年は認知症もあり施設ですごされました。若いころから達筆な方で、本を三冊出版されました。本のまえがきに人生の中で経験された労苦が書かれています。

 ご家族が病床に伏されることを度々経験され、本業と内職をしながらお子さんたちを育てられました。人生には「歯をくいしばらなければならないことが何度も起こります」と書かれています。

 ただ、この方は試練を経験することで教会に導かれたこと、信仰によって支えられてきたことを書き残されています。特に、人生の最も苦しい時期についてこのように書いています。

 「そんな時、私を支え励まし冷静に判断させてくれたのは、聖書の神でした。人を怖れず、神を怖れました。」

 たくさんの労苦を背負いながらも、信仰に支えられて生きてきたことが伝わってきます。

 この方の葬儀は仏式で行われました。ご家族の中でクリスチャンとなったのが故人だけであったことやご遺族がお寺とのつながりが深いこと等からそのようになったようです。ご遺族が様々な事情の中で選択なさったことと尊重し、私も葬儀に列席させていただきました。

 葬儀の中では故人がクリスチャンであったことには触れられませんでしたので、列席された方たちのほとんどがそのことを知らないままお見送りをしたのだと思います。

 そういったことに寂しさも感じないわけではありませんが、故人が人生の辛い時期に神さまに出会い支えられて生きたことは事実ですし、その心の真実をむしろ印象的に感じました。

2020年2月2日

2/22(土)南丹まちゼミ「教会葬セミナー」@園部会堂のお知らせ

第2回 『南丹 まちゼミナール』 に丹波新生教会も参加します!

◆教会葬セミナー◆
日 時:2月22日(土)14:00~15:00
会 場:丹波新生教会 園部会堂
申込先:0771-63-0165
教会員でない方もキリスト教式の葬儀ができます。具体的な葬儀の準備、流れ、費用などについてご案内します。

クリスチャンでなくてOK!既に問い合わせを多数いただいています。お早めにどうぞ♪

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.4

宇田慧吾牧師

 この前の水曜日に南丹市の保健福祉課主催の研修会があり参加してきました。生活困窮者への支援に関する研修だったのですが、講師はNPO法人「抱樸」の専務理事で(元)牧師の方でした。

 NPO法人「抱樸」は今、日本の福祉界では最も有名な団体の一つかと思います。創設者は北九州にある東八幡キリスト教会の牧師の奥田知志さんです。NHKの「プロフェッショナル」や「心の時代」にも出演され、だいぶ有名になられました。

 今回講師に来てくださったのは奥田牧師ではなく、抱樸スタッフの別の(元)牧師だったのですが、講演の中で聖書の話もしていました。

 簡単にまとめると、
 聖書には「時間」について複数の言い方がある。
 ①「クロノス」:「5分」とか「いつからいつまで」といった流れる時間。
 ②「カイロス」:「生まれる時・花が咲く時」といった定まった時。

 カイロスを経験したこんな事例を紹介してくれました。

 ホームレス支援で夜回りをする時に「お弁当持ってきました。アパートあるけど入りますか?・・・入らないですね。はい、お弁当どうぞ」というやり取りをするそうですが、入居を拒み続け、20年程このやり取りを続けた相手がいたそうです。

 ところが、ある日「入る!」と返事が返ってきました。関わり続けてきたスタッフ一同が歓喜に沸いたそうですが、なぜその日、その人が「入る」と答えたのか、その理由は未だに分からないそうです。

 支援はもちろん、人との関わりは、種を蒔いてもなかなか芽が出ない時もあります。けれども、神が定めてくれている「時」を信じることで、関わり続ける力が与えられるとメッセージをいただきました。

(これは宇田まとめであり、講師の先生はもっと上手にお話されてます!!(^^;)

 パウロももちろん、「時」を経験した人です。

 今回はローマの信徒への手紙2章1-16節を読みます。
 ここには「時」を経験する前と後でパウロが変化したことが書かれています。

 02:01だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。 02:02神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。 02:03このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。 02:04あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。 02:05あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。 02:06神はおのおのの行いに従ってお報いになります。 02:07すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、 02:08反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。 02:09すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、 02:10すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。 02:11神は人を分け隔てなさいません。 02:12律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。 02:13律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。 02:14たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。 02:15こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。 02:16そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

変化1
 「他者を裁く生き方」から「自分の罪を自覚する生き方」へ

 パウロは「時」を経ることで、律法の役割について考え方が変わりました。

 「時」の前には律法によって他者の罪を裁いていましたが、「時」を経てからは律法によって自分の罪を自覚するようになりました。

 それも、ただ罪を自覚するだけではなく、そういう罪ある自分を神が「慈愛と寛容と忍耐」をもって受けとめてくれていることに気づきました。

 すなわち、律法によって自分の罪と神の慈愛を知るようになりました。

 

変化2
 「人を立場(属性)によって判断する生き方」から「人の行い(人格)を見る生き方」へ

 「ユダヤ人かギリシア人か」という違いは、「時」を経る前のパウロにとって重要な事柄でした。

 パウロだけでなく、ユダヤ人にとっては、神の民である自分たちと、それ以外の異邦人という「線引き」は当然の世界観だったそうです。

 そういう「線引き」をして、自分を特別視したり、相手を格下に位置づけたりする物の見方は今の時代にも少なくないかと思います。

 逆に、線を引くことで、自分には価値がないと自己嫌悪することもあるかと思います。

 パウロはかつて「ユダヤ人かギリシア人か」という線引きで人を判断していましたが、「時」を経てからは物の見方が次のように変わりました。

 「すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、
すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。」

 人の分かれ目はユダヤ人かギリシア人かという『立場』ではなく、悪を行うか善を行うかという『行い』にある。

 当たり前のことではありますが、その人の価値は国籍や社会的立場やマイノリティ-マジョリティといった属性によって決まるものではありません。

 神が見るのはその人の『行い』です。

 

☆「わたしの福音」

 パウロは人生の途中で「時」を経験しました。
「時」を経験することでパウロの人生は大きく転換しましたが、その経験について「わたしの福音」と表現しています。

 「福音」は「ふくいん」と読みますが、聖書のキーワードです。「良い知らせ」という意味の言葉です。

 聖書の多くの箇所では「神の福音」とか「イエス・キリストの福音」と使われますが、パウロは時折「わたしの福音」という言い方をします。

 一般論としての福音ではなく、確かに自分を変化させた、自分がこの手で受け取った福音。あの「時」があったから今の自分がいる。そんなパウロの実感がこめられた表現であるように思います。

 「わたしの福音」という経験が皆さんの心にもあるでしょうか。 

2020年1月26日