教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.23

宇田慧吾牧師

今日は、ローマの信徒への手紙10章14-21節を読みます。

10:14ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。 10:15遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。 10:16しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。 10:17実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。 10:18それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。 10:19それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、「わたしは、わたしの民でない者のことであなたがたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。 10:20イザヤも大胆に、「わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。 10:21しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。

①「聞くことによって始まる」

「読む」「探す」「求める」ももちろん良いことですが、能動的な気持ちが強い時には自分の関心の範囲内のものしか目に入らないこともあります。

力を抜いて、「聞く」、語りかけられるメッセージに耳を傾ける。受け取る。

「自分の外」から来るものに心を開いてみましょう。

②「伝える人」

教会に集まっている人たちの多くは、神さまのメッセージを「聞いた」人たちです。

メッセージを受け取ることで、それぞれに「救われた」という実感を持っています。

そういったキリストに救われた人たちを教会では「キリスト者」(Christian)と呼びます。

キリスト者は「私は救われました」という経験を伝える存在です。

その「伝え方」は様々です。

音楽で、福祉活動で、文筆で、農業で、チラシ配りで・・・etc

私が過ごしてきた教会では、「日頃の行い」「小さな言葉かけ」「生き方そのもの」で自分が受け取ったものを伝えている方が多かったです。

特技のある方は、大いにその才能を用いて伝えることはすばらしいと思います。

一方で、「私にはこれといった才能もない」という方も、自分が「聞いた」「救われた」という原点を大切にしながら生きていくことで、十分な神さまへのご奉仕だと思います。

ちなみに、聖書もキリスト者が「伝える」ために書いた書物です。

一言一句を理解することは難しいですが、書かれていることの急所は「私は救われた」ということです。

③「聞こえない時」

聞くには聞いたけど、聞こえない時もあります。

心に届かないということですね。

そういう時の神さまの気持ちが書かれていました。

「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」

届かない時にも、神さまは手を差し伸べて、待っていてくれます。

《おまけ》

私は両親が教会に通っていたこともあり、子どもの頃から教会に通っていました。

ですので、子どもの礼拝で聖書のお話を聞いていたはずなのですが、あまり記憶には残っていません。

小学校低学年で教会には行かなくなり、その後教会とのつながりは夏のキャンプやクリスマスといった季節のイベント程度でした。

中高生になった頃には、学校生活に夢中で、すっかり教会のことも忘れていました。

ところが不思議なことに、18歳で人生に一番悩んだ時に、「神さまはね、いつも君と一緒にいて、君を守ってくれているんだよ」という牧師の言葉がふと心によみがえってきました。

子どもの頃に聞いた言葉を心で受け取るまでに、十数年の歳月がありました。

その間、私は教会を忘れていましたが、教会の方たちや両親が、愛をもって見守り続けてくれていたことが今はよく分かります。

2020年6月21日

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.22

宇田慧吾牧師

今日は、ローマの信徒への手紙10章5-13節を読みます。

10:05モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。 10:06しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。 10:07また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。 10:08では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。

10:09口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。 10:10実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

10:11聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。 10:12ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。 10:13「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

①遠くに探しに行かなくていい

「自分探しの旅」という言葉は、一時ブームになりましたが、最近は揶揄されることも増えました。

旅に出たものの、帰還しない人も多いようだからでしょうか。

「救い」についても、遠くに探しに行く必要はないようです。

神さまのメッセージは「あなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」とのことです。

②「口 → 心?」「心 → 口?」

「口で…公に言い表し、心で…信じるなら、救われる」10:9

「心で信じて…、口で…公に言い表して救われる」10:10

順序が逆の言葉が並んでいます。

「どっちなの?」と思ってしまいますが、どっちとも言えないからこう書いているようです。

心の中で密かに思っているだけよりも、人前で話すことで、「自分はこう思っているんだな」と実感することがあります。

逆に、心の中で素直に思っているから、自然と言葉になるということもあります。

「救い」って何なんです?どういうことなんです?と質問されることがありますが、

こういう自然と言葉になる心持ちという風に言えるように思います。

要は、本当にそう思っている、心からそう思っているということです。

「救われた!」という分岐点になる経験を持っている人も持っていない人も教会にはいます。

ただ、共通しているのは、神への素直な感謝や信頼かと思います。

③だれでも救われる

聖書のメッセージはどんな人にでも届くものです。

「この人」には届くけど、「あの人」には届かないということはありません。

もちろん「こんな私」にも届きます。

「救い」を求める人は、どんな人でも聖書のメッセージを受け取ることができます。

2020年6月14日

《おまけ》

私は「遠くに探しに行く」「やたら決意する」「こんな自分ではいけない」というタイプの人間でした。

意図してそうしていたわけではないのですが。

だんだんと「大切なものはもうここにある」「素直な気持ちでOK」「こういう自分でOK」という私に変化してこれたのは、教会での出会いのおかげです。

一所懸命に道を探していた昔の自分には「がんばったね」と声をかけてあげたいです。そして、今の自分には「帰ってこれてよかったね」と言ってあげたいです。

《説教要旨》「沈黙して、神に向かう」詩編62編2節

宇田慧吾牧師

 「聖コロナ神学院」は卒業されましたか?新型コロナウィルスの経験によって何を学ぶことができましたか?私は日常への感謝を新たにすることができました。園部で3週間ぶりにみんなで集まって礼拝した時、こうして集まって礼拝できるのはありがたいことなんだなとしみじみ感じました。コロナの「せいで」ということももちろん多くありましたが、コロナの「おかげで」ということもあったことを忘れずに確認しましょう。

 本来なら5月17日は丹波新生教会の創立記念日で、記念礼拝がもたれるはずでした。50年間、神さまが導いてくれたという感謝と共に、教会に罪があり続けたことを反省しておきたいと思います。十数年前、丹波新生教会は「ややこしい教会」と噂されていたそうです。複数会堂で共同牧会という特殊さからくる競争心や人間的な選り好みが原因であったようです。競争ではなく共存を求めること、心情ではなく信仰によって受け入れ合うこと、これらが私たちの教会が祝福を受けるキーポイントであるようです。

 私もこの教会に来て3年が経ち、4年目は何を大切にすごそうかなと祈った時、「沈黙して、神に向かう」が示されました。詩編62編を詠んだダビデは王位を継承するという立場にあって、人間的なトラブルにたくさん巻き込まれました。そんなダビデは人の二面性からくる苦しみをなめつくすと共に、そういった人の争いは「空しいもの」「息よりも軽い」と言います。逆に、「沈黙して、神に向かう」ことには確かな支えがあることを詠っています。愛する兄弟姉妹の皆さん、「沈黙して、神に向かう」ぜひこの一年、一緒に実践しましょう。

2020年6月7日 亀岡会堂

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.21

宇田慧吾牧師

今日は、ローマの信徒への手紙10章1-4節を読みます。

10:01兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。 10:02わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。 10:03なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。 10:04キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。

 「よい」とはどういうことかが今回のテーマです。

 キーワードは「神の義と自分の義」です。

 まず、お話の背景として、パウロの経験をふりかえります。

 パウロはよく生きることにもともと熱心な人であったようです。有名な先生に師事したことや律法の実践に熱心であったと語っています。

 そのような熱心さの中でパウロには失敗経験がありました。それは、自分の正しさへの自負ゆえ自尊心を膨らませ、正しくないように見える他者を裁くという失敗でした。

 どんなに真剣に生きようとしていても、そのような「正しさ」は本当の「よい」生き方ではないとパウロは思うようになりました。

 逆に、本当の「よい」生き方は、自分に正しくない部分があることを受け入れ、他者を赦す生き方だと考えるようになりました。

 パウロがそのように変化したきっかけは、イエス・キリストに深く出会ったことでした。

 キリストは自分が「よい」と思う生き方をする人ではありませんでした。神が「よし」とする生き方を祈りながら求める人でした。

 キリストが示した神に「よし」とされる生き方は、自分の罪に気づき、神の赦しを知ることでした。

 「わたしにはその『罪』というものがよく分からない」

 「そんなに悪い生き方はしていない」

という方もおられるかと思います。それは自然な感じ方だと思います。

 「罪」の自覚は何かの出来事をきっかけに突発的に深まる場合もあれば、時間をかけて自分の罪深さを自覚していくという面もあります。

 私は、恥ずかしいことに洗礼を受けた頃には「罪」について無知でした。

 ただ、孤独感が深くなった時に「神さまはいつもそばにいてくれる」ということを実感し、このように自分を救ってくれた神さまのために生きていきたいと思って洗礼を受けたのでした。

 信仰を持ってから、自分の罪に向き合うようになりました。

 自分が簡単に孤独に戻り、人に頼って孤独を埋めようとすること。

 あの人のためにという無垢な気持ちと裏腹に自分の望む結果に固執すること。

 自分のプライドが壊れないように、てきとうな敵をつくって非難すること。

 ・・・

 思い起こせばいくつでも書けそうです。

 そういった自分のトンチンカンな部分には自分の内省では気づくことができませんでした。

 教会や生活の中で、成熟した人に出会うことで時間をかけて自分の罪に気づかされてきました。

 自分が経験している問題を、既にクリアしている人に出会うと、気づかされたり励まされたり見通しが立ったりします。

 信仰を持って生きるということは、イエス・キリストをその気づきの中心に置くということだと思います。

 聖書に記録されているキリストの生涯に向き合うと気づかされることが多いです。

 特に「罪」のこと、自分の罪を知り、その罪を神は赦していると知ると、不思議と励まされます。

2020年5月31日