教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.32

宇田慧吾牧師

《ローマの信徒への手紙15章14-33節》

前回まででローマの信徒への手紙の主要な3つのテーマを終えました。

1.信仰義認:神への信頼によって救われる

2.神の計画:恵みは長い時間をかけて実現する

3.聖化:キリストに倣う者に自然と整えられていく

今回はメッセージを語り終えたパウロの個人的な心境がつづられています。

3点ピックアップします。

①「神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています」

パウロは神のために働くことを誇りとするようになりました。

かつては「自分を誇る」タイプの人でした。

働きの内容は、まだ神に出会ってない人に、福音を伝え届けることでした。

その取り組みの中でパウロは「キリストがわたしを通して働く」ことを経験しました。

②共にいる喜び

「共にいる喜びを味わって」

「援助することに喜んで同意した」

「祝福をあふれるほど持って、あなたがたのところに行く」

こういった言葉から、パウロが教会に集められた人たちと、共にいることを喜び、協力して目標に取り組み、その成果を分かち合い喜んでいたことが伝わってきます。

昨日、ひきこもり支援で連携している相談員の方が来た時に、「一人ではできない。チームでないとできない」という話がありました。

ひきこもり支援では、複数の人が居場所支援・家庭支援・就労支援など様々な角度から寄り添うことで状況が好転することが多くあります。

逆に、どんなに優れた支援者でも、複雑な課題の全部を一人で解決できてしまうということは稀なのだと思います。

「一人ではできない。チームでないとできない」

逆に言えば、

「みんなでならできる。チームならできる」

と言ったところでしょうか。

パウロは「みんなで、チームで」という点を大いに楽しんでいたようです。

私はこの教会に来る前、東北教区でお世話になっていた牧師に「新しい教会の皆さんと協力しながら、がんばってください」とメッセージをいただきました。

また私が伝道師だった頃、「教会での働きは充実している一方で、どこか虚しさもある」という相談をベテランの牧師にしたことがありました。するとその牧師は、自身も若いころに似たような虚しさを感じたことがあったこととその転機になった話をしてから、「教会の皆さんと一緒に協力して取り組んでください」とアドバイスをくれました。

どんなに目立った成果を挙げていても、もしその取り組みを「一人で」やっているとしたら、そこには虚しさが付きまとうのかもしれません。

教会も家庭も仕事も人生も、「一人で」ではなく、出会わされた人と協力しながら、また苦楽を共にしながら生きることが、喜びを受け取る秘訣であるようです。

③互いのために祈る

「わたしのために祈ってください」

「神があなたがた一同と共におられるように」

パウロは、自分のために祈ってくれるように頼み、またローマの教会の人たちのために祈っていました。

互いのために祈り合う関係でした。

そのような自分のために祈ってくれる他者の存在は、自分が一番苦しい時に支えになります。

皆さんには「祈りのバディ」がおられるでしょうか?

私は学生時代から互いに祈り合う関係の友に支えられてきました。

これもまた「一人」ではなく、「一緒に」生きる楽しみですね。

2020年8月23日

《説教要旨》「平和を追い求めよう」ローマの信徒への手紙14章10-23節

片岡広明牧師

 8月第1主日は平和聖日です。8月は戦争と平和について考え、祈る月です。1945年8月6日に広島原爆投下、続いて9日には長崎原爆投下、そして15日にはついに敗戦の日を迎えました。戦争はかけがえのない命を奪い、大切な財産を奪い、自然を破壊し、文化を破壊します。第二次世界大戦終結から75年が経過しました。75年とは四分の三世紀、ひとつの節目となります。もはやその時代を知らない人のほうが多くなりました。戦争の怖さ、恐ろしさ、愚かさを、聞いてわかっているつもりでも、実体験をもたないのです。あの時代を経験した人であればこそ、「二度とあんなことを繰り返してはならない」との思いを強くすることができるのです。語って下さる方々の声に耳を傾けて聞き、何があったのか、何が間違っていたのか、そしてその時代の教会はどうしていたのか、歴史を学んで、その学びの中から今に生かす知恵を学び取ることは大切なことだと思います。

 今日は平和聖日にあたり教団戦責告白を読みます。教団戦責告白は、正式には「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」と言います。教会も人の集まりですから、大勢の人々の知恵と力と祈りを合わせても時代の流れに抗しきれない限界があったのです。教会が戦争協力をした、そのことを重い罪として神様の前に素直に告白し、赦しを願い、心を入れ替えて回心し、新たな出発をしようとして戦責告白を表した方々の努力は大変な困難を極めたのです。戦責告白が出されるまでに戦後22年もかかったという事実がその葛藤の深さを表しています。話し合いを重ね、過去に自分たちが犯した戦争という重く大きな罪と真摯に向き合って、戦責告白が出されたのです。教会の押本年眞さんが『旧園部会堂と太平洋戦争』という文章を書いて下さいました。園部会堂は戦時中の一時期、軍に接収されていたのです。戦時中の教会の苦難がそこにもありました。その時代に教会を守って下さった信仰の先達者の方々のご苦労を思います。

 今日のローマ書のパウロの言葉に「平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。」とあります。私たちも平和のために祈り、神様が与えて下さる真の平和のために奉仕する者とならせていただきたいと思います。

2020年8月2日 平和聖日、亀岡会堂

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.31

宇田慧吾牧師

《ローマの信徒への手紙15章1-13節》

キリスト者としての生き方のお勧めが12章から語られてきました。

前提を復習しておきましょう。

ここでのお勧めは、神さまを信頼して生きていくうちに不思議とそのような生き方に変えられていくというものでした。

「~であってはならない」「~すべき」といった書き方がされていますが、新約聖書の原語であるギリシャ語には命令形の文法はないのでした。

例えば、「愛には偽りがあってはならない」(12章9節)の原典を直訳すると「愛には偽りがない」です。

文脈上「あってはならない」という意味で解釈されてきました。

もちろん間違った解釈ではないのですが、「あってはならない」と言われると、「自分はそうはあれない」とか「そうあってはならないと書いてある!」とか、自分や他者への裁きに変換しがちなので、そういう厳しい意味での掟ではないということを確認しておきましょう。

12章から15章までで語られているお勧めは、自分の力では成長が難しいことでも、信仰をもって生きていくうちに自然と変えられていくというものです。

前置きが長くなりましたが、今回のテーマは「他者との関わり」です。

二つのポイントで受け取りましょう。

① 忍耐と慰めの源である神
まずパウロは「強い者は、強くない者の弱さを担うべき」と勧めています。

ここでの「強さ」は人間的な能力の高さや精神的な強さのことではありません。

神への信頼の深さのことです。

神への信頼が深い人は、そうでない人の弱さを担いましょうと勧められています。

また、善を行い、互いの向上に努めることが勧められています。

私たちの模範であるキリストは、信仰の弱い人に仕えることについて身をもって示してくれました。

パウロはそのことについて「そしり」という言葉を選んでいます。

「そしり」は非難や罵倒のことですが、キリストは信仰の弱い人に仕えることで「そしり」を引き受けました。

成長の途上にある人に仕える時には「そしり」を始め、痛みを引き受けていくことが避けられないようです。

そのような痛みを引き受ける時に、聖書は忍耐と慰めの源となります。

聖書には、キリスト自身、信仰の弱い人に仕えることで、痛みを引き受けたことが記されています。

その一方で、そのような痛みの中に神の支えや慰めが与えられること、神の定めた時が来れば痛みを引き受ける愛によって他者が大きく変えられていくことも記されています。

他者との関わりの中で痛みを引き受ける時、「強くない者の弱さを担う」こと、「忍耐と慰めの源である神」のことを思い出したいと思います。

 

② 希望の源である神
パウロは神さまが「忍耐と慰めの源」であるのと同時に、「希望の源」でもあると語っています。

特に、互いに理解し合うことがほとんど不可能であるような者同士の関わりにおいては、神が希望の源になるという文脈で語られています。

パウロ自身の経験では、それはユダヤ人と異邦人との関わりの問題でした。

先週もお話ししたように、パウロのすごした時代の教会にはユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者がいました。

同じキリスト者と言っても、宗教的バックグラウンドが異なるために折衝の難しい問題が少なくありませんでした。

そのような難しい課題を抱えた教会に向けてパウロは次のように語りかけました。

「キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」

キリストは、ユダヤ人のためにも、異邦人のためにも仕えて、痛みを引き受ける愛を示してくださった方でした。

聖書においてユダヤ人と異邦人は4千年程の時間をかけて相容れない者同士とされた人たちでした。

そういう理解し合うことがほとんど不可能であるような者同士が、キリストに倣って互いに相手を受け入れ合う生き方へと変えられていったこと自体が、その後の教会の力強い証しであったことと思います。

もちろん言葉で言うほど一筋縄では行かなかったと思います。

ただ、その和解の途上で、神さまが希望の源であり続けたことは、確かなことであろうと思います。

「希望の源なる神」「忍耐と慰めの源なる神」が私たちの心を導いてくださいますように。

2020年8月16日

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.30

宇田慧吾牧師

《ローマの信徒への手紙14章1-23節》

今日は二つのポイントが語られています。

①<他者を批判しない>

一つ目に「他者を批判しない」ことが勧められています。

ただ、何でもかんでも受け入れなさいということではありません。

「各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきこと」については、互いを批判したり、裁いたりすることは控えましょうと語られています。

要は、「人それぞれ」の部分については受け入れ合いましょうということですね。

パウロが教会で過ごした時代には、「ユダヤ人であるキリスト者」と「異邦人であるキリスト者」が教会内に混在していました。

すると、偶像に備えられた肉を食べて良いか、安息日は厳守しなければならないか、など信仰のバックボーンの違いからくる意見の相違があったようです。

守っている人たちにとっては大切なルールですし、守っていない人たちからしたら意味のないルールです。

そういった共同体全体で一つの結論を出すことが難しい問題については、「互いを批判しない」ことをパウロは勧めました。

その理由として、神はその人を赦し受け入れていること、私たちを裁くのは神ご自身であることを挙げています。

心の確信に基づき、神への感謝として行っているのであれば、その人にとっては大切なことなのでしょう。

キーワードとして「主のため」という言葉があります。

他者が「主のため」にしていることについては、批判し合うのではなく、尊重し合えるようにありたいと思います。

②「互いのつまずきにならないように気をつける」

今度は先程と反対の話です。

「互いを批判すべきでない!」と主張して、何でもアリなわけではありません。

互いにつまずきとならないように気をつけましょうと勧められています。

仮に自分の確信に基づいていたとしても、その行いによって心を痛める人がいるなら、愛に従って歩んでいるとは言えません。

「主のため」と「他者への配慮」とのバランスが取れた時に、「神に喜ばれ、人々に信頼される」生き方になります。

この天秤に基づいて、心にやましさがないように決めてくださいと勧められています。

《おまけ》

牧師として教会ですごすようになって、教会には様々な価値観の人がいるということをしみじみ学びました。

率直に「違うと思う」という気持ちを話していただくことが時々あります。

そういったお気持ちをうかがう毎に、「なるほど、確かにそうだな」と気づかされます。

他者への配慮は、自分一人では学べず、他者との関わりの中で学んでいくことなのでしょう。

また、私はついつい他者を批判してしまう傾向が強く、反省しながらも完治できずにいます。

どうして他者を批判してしまうのかについて自分と向き合っていくうちに、その根っこには「自信の無さ」や「無条件に自分を愛せない気持ち」「他者と比較し、競争する気持ち」などがあることに気づいてきました。

まだまだ治療の途中ですが、だんだんと治癒されてきているのは、キリストの支えのおかげだと感謝しています。

2020年8月9日

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.29

宇田慧吾牧師

《ローマの信徒への手紙13章1-14節》

今日は三つのことが語られています。

① 権力者との向き合い方
「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」と勧められています。

聖書には「権力に従順であるべし」という言葉と「権力よりも神に従順であるべし」という言葉との両方があります。

それぞれ文脈を把握して理解することが大切です。

今回の「権威に従うべき」という言葉は「悪をいさめる勧め」「神の計画」といったこととの関連で語られています。

神の恵みを受け取った人は、神に応えて生きる者として社会の秩序を尊重することが望ましいです。

社会には必ず不完全な点がありますが、そういったことに悪をもって報いるべきではないと勧められています。

また、現在の権力者も神の意志のもとに立てられており、長期的には神の計画に服していることが語りかけられています。

 

② 「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約される
先程の「権威に従うべき」をはじめ「殺すな、盗むな、むさぼるな」等、聖書には様々な掟が書かれています。

そういった諸々の掟は「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。

どんな掟も相対的なものです。すべての場面に当てはまるわけではなく、場面ごとに正しい行動を選択しなければなりません。

ただ、その選択の根拠は「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉にいつも置くことができます。

 

③ 「救いは近づいている」
聖書が伝えている「救い」は着実に近づいてくる類のものです。

社会の問題や自分の問題に左右されることはありません。

神が定めている「時」があり、それは必ず来ます。

「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」を捨てましょうと勧められています。

これらは現実逃避や孤独、虚しさ、自分を無条件に愛することができない気持ち等から出てくるように思います。

私自身、そういった現実をやりすごす手段に頼って生き延びてきました。

けれども、「救いは近づいている」「その時は必ず来る」ということが腑に落ちた時、そういったものが必要なくなっていくことを経験しました。

以上が今日の3つのポイントです。

 

《おまけ》

14節に「主イエス・キリストを身にまといなさい」という言葉がありました。

この言葉はアウグスティヌスという神学者が回心体験をした時に読んだ聖書の言葉として有名です。

彼自身はこの言葉をどのように受け取ったのかについて詳細には書いていないのですが、少し黙想してみたいと思います。

「主イエス・キリストを身にまとう」ということには、キリストのように神に応えて生きるということと共に、その痛みを引き受けて生きるということが含まれているように思います。

キリスト自身、権力者への従順に生きることで最後は十字架にかけられました。
隣人を自分のように愛することで最後は人々に裏切られていきました。
救いは近づいているという神への信頼を持ちつつも十字架上では「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか」と叫びました。

神に応えて生きるキリストの生涯には痛みが伴いました。

アウグスティヌスもまた洗礼を受けてから十数年の間は「いつなのですか」と神に問いかけながらも、長い間、心の平安を得ることなくすごした人でした。

「主イエス・キリストを身にまといなさい」という言葉が心に深く示された時、アウグスティヌスの心にも痛みを引き受けて生きる覚悟が定まったのかもしれません。

2020年8月2日