《説教要旨》「偽りのない愛」ローマの信徒への手紙12章9-21節

宇田慧吾牧師

 先々週までは、どうして神さまに見捨てられたと感じるような経験をするのかが語られていました。それは次の三つを知るためとパウロは答えました。

①他者に支えられていることを知るため

②神に支えられていることを知るため

③神の計画・神の道を知るため(短期的にはマイナスに思えるような出来事も長い時間をかけて恵みに変えられる)

 先週からはテーマが変わり、神の恵みへの応え方が示されていました。まず「神に自分を献げて生きる」ことが勧められていました。また、自分を献げるうちに不思議と自分が変えられていくことが語られていました。

 実際にどのように変えられていくかが今日からしばらく続くテーマです。今日は「偽りのない愛」に生きられるように変えられていきますよと語られていました。偽りのない愛の例として、見返りを求めず、敵を赦し、他者に共感する愛が挙げられていました。そういった愛を心から実践することの難しさは自明です。自分の力でそのような真実の愛に生きることは難しいことですが、キリストにつながって生きるうちに自ずから変えていただくことができます。それは、そのような偽りのない愛をキリストから受け取ることができるからです。

2020年7月26日 園部会堂

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.27

宇田慧吾牧師

今日は、ローマの信徒への手紙12章1-8節を読みます。

12:01こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 12:02あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。 12:03わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。 12:04というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、 12:05わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。 12:06わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、 12:07奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、 12:08勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。

《メッセージ》

先週までは「なぜ人は神に見放されているような経験をするのか」が語られていました。

パウロはその答えとして、「人に支えられていること」を知るため。

「神に支えられていること」を知るため。

また、短期的には残念に思えるような経験でも、長い時間の中でその経験の意味が明らかになってくることがあって、そのような「神の大きな計画」に信頼することを勧めていました。

今回からは、そういった神の配慮を知った人として、「神にどう応えるか」というお勧めが語られています。

次の一言が今日のメッセージの急所です。

「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」

自分の存在そのものを、人生全体を、神さまに献げて生きていきましょうとパウロは誘っています。

「これこそ、あなたがたがなすべき礼拝です」

礼拝とは、神さまに自分を献げることです。

私の失敗経験ですが、教会に通い始めた頃、初めは全てが新鮮で感動ばかりでした。

ところが、1年程経つと、人間関係の問題や「教会なのにどうして?」といった疑問が増えてきて、教会に通うことに虚しさや疲れを感じるようになりました。

教会に行って「疲れている」「癒されない」これはどういうことだろうと悩みました。

今思うと、「神さまに自分を献げること」を知らなかったために必要以上に悩んだ経験でした。

教会には現実の社会と同じように、人間関係のトラブルや集団としての矛盾があります。

ただ、世の中の人の集まりと違うのは、教会は神さまに自分を献げる人の集まりという点です。

「私は自分を神さまに献げて生きる」という決意は、信仰生活の柱です。

パウロは「世に倣ってはなりません」とも勧めました。

世の中には様々なものに自分を捧げて生きる生き方があります。

名誉欲、競争心、貪欲、色欲など、自分の人生を捧げても虚しいことが明らかなものもあります。

一方、家族のため、子どものため、国のため、地域のため、仕事のためといった、決して間違ってはいないけれども、バランスを間違えると依存的になったり痛い目を見たりする対象もあります。

教会ですごされてきた信仰の先輩方の葬儀に参列すると、「神さまに自分を献げる生き方」が、人生の最期まで失われることのない確かな拠り所であることを教えられます。

パウロは「神さまに自分を献げる」中で、「心を新たにし、自分を変えていただくこと」を勧めています。

自分で自分を改めようとしてもうまくいかないことも多いのですが、不思議なことに、神さまに自分を献げて生きていく中で自ずから変えていただけることがあります。

「神さまに自分を献げて生きる」という姿勢は、神に応えて生きる人生の柱です。

ここまでが、今回のメッセージの本丸です。

パウロは注意深く、次の補足をしました。

「自分を過大に評価してはなりません」
「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています」

「神に自分を献げる」「神に自分を変えていただく」という話は、「あなたはもっと献げないとだめだ」「あなたのそこを変えないとだめだ」という話に変換されがちです。

体に様々な部分があって、それぞれの部分が異なる役割を担っているように、私たちお互いも様々な部分で異なる役割を担っているんですよとパウロは語りかけています。

パウロはこの話を他の教会に宛てた手紙にも書いています。

どの教会にも必要な諭しだったのでしょう。

私も「そうだな」と素直に受け取りつつ、自分の身近に関わっている人たちのことを思い浮かべると、体の一部として尊重しいたわることができるように、自分を変えていただきたいと思わされます。

「神さまに自分を献げて生きる」

今日はこの言葉を心に受け取りましょう。

2020年7月19日

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.26

宇田慧吾牧師

今日は、ローマの信徒への手紙11章25-36節を読みます。

11:25兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、 11:26こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。「救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。 11:27これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶわたしの契約である。」 11:28福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。 11:29神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。 11:30あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。 11:31それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。 11:32神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。 11:33ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。 11:34「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。 11:35だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。」 11:36すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。

《メッセージ》

助けたいと思っても助けてあげられない時というのは、何とも寂しい気持ちになります。

そういう時、パウロは神さまの「計画」「道」を信じていました。

神の配慮からこぼれ落ちているように見える時があっても、ちゃんと神の用意した道を歩いている。

その道は、人の知識では究め難い。

かたくなや不信人、罪、敵対、不従順さえも織り込み済みの道。

むしろ、そういったマイナスの経験を通して、神の憐れみに気づかせる。

神の「計画」「道」は不思議です。

「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」

 

《おまけ》

最近、ちょっと元気すぎる少年をどう注意するかについてボランティアの青年と相談していました。

「この子はどうなっていっちゃうんだろう」とか「自分もそういう子だったなぁ」とかいろんな思いが浮かんできます。

愛情をもって叱ったり、許容したり、さじ加減を調整していこうと思いますが、根本的には神さまが彼に用意してくれている道を信頼しようと思いました。

人が成長するきっかけや出会いは、人智では計り知れないものですものね。

2020年7月12日

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.25

宇田慧吾牧師

今日は、ローマの信徒への手紙11章11-24節を読みます。

11:11では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。11:12彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。

11:13では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。 11:14何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。 11:15もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。 11:16麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。

11:17しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、 11:18折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。 11:19すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。 11:20そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。 11:21神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。 11:22だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。 11:23彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。 11:24もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。

《メッセージ》

①神は人の失敗や悪事も善に用いる

パウロは、ユダヤ人が信仰を離れてしまったのはどうしてだろうかと問います。

そして、それは異邦人に救いがもたらされ、もう一度ユダヤ人が奮起させられるためだったと答えます。

「ユダヤ人が信仰から離れてしまった」という部分だけ見れば、残念な出来事でしかないのですが、その出来事から「異邦人に救いがもたらされる」「ユダヤ人が奮起させられる」という明るい結果が生じています。

聖書の神さまは、人の不信仰や失敗、悪事さえも、良い結果に結びつくように利用されます。

②初穂が聖なら、全体も聖

「麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり」という言葉がありました。

「初穂」は、収穫の際に、まず神さまにささげるものです。

日本にもそういった習慣がありますが、旧約聖書にもそのきまりが細かく書かれています。(レビ記23:10-14)

初穂を捧げる目的は明確には書かれていませんが、おそらくは神への感謝でしょう。

作物が天の恵みであることへの感謝ですよね。

初穂を捧げるということは、もちろん初穂だけでなく、作物全部を天の恵みとして感謝しているわけです。

ということは、私たちが初穂と同じ田畑に植わっていれば、初穂ほど上等の出来ではなかったとしても、同じ神の恵みとして感謝するということになります。

聖書における初穂である「イエス・キリスト」や「イスラエルの民」は、信仰の模範を示してくれるありがたい神の恵みです。

同じように私たちも、初穂ほど上等でなかったとしても、互いにありがたい神の恵みです。

③根があなたを支えている

私の地元は茨城県の水戸市なのですが、偕楽園という庭園があります。

日本三大庭園の一つで、梅の花が美しいです。

梅の木は接ぎ木をすることが多いそうです。

丈夫な種類の梅に、咲かせたい種類の梅を接ぐのですね。

パウロは私たちのことを「接ぎ木された枝」と表現しています。

もともと自分で生えてきたのではなくて、良い木に接いでもらったのですね。

「あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えている」

根そのものが丈夫で良いものなのですから、私たちは根につながっていて、栄養を受け取ることが肝心ですね。

《おまけ》

教会の中庭に高校生や青年たちと畑をつくりました。

ネギ、ハト麦、さつまいも、ハブ茶、オリーブ、イチジクが植わっています。

「畑らしくなったな~」と思っていたのですが、

農家さんが見て一言「飢餓状態ですね」とのこと。

土の栄養が足りず、本当はもっと背が伸びるのに低いままだったり、もう伸びられないから早くに花をつけてしまったりしているそうです。

なるほど。

当たり前のことですが、よく知った人に見てもらうというのは大切ですね!

2020年7月5日

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.24

宇田慧吾牧師

 今日は、ローマの信徒への手紙11章1-10節を読みます。

11:01では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。 11:02神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。 11:03「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。」 11:04しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。 11:05同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。 11:06もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。 11:07では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。 11:08「神は、彼らに鈍い心、見えない目、聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」と書いてあるとおりです。 11:09ダビデもまた言っています。「彼らの食卓は、自分たちの罠となり、網となるように。つまずきとなり、罰となるように。 11:10彼らの目はくらんで見えなくなるように。彼らの背をいつも曲げておいてください。」

 

《メッセージ》

 信仰を持って生きる時には、深い孤独を感じることがあります。

 そういった時は霊的に成長するチャンスです。

 三つ、今日の聖書のポイントを見てみましょう。

 

① なぜ寂しさを経験するのか

 「神は御自分の民を退けられたのであろうか」という問いから話が始まります。

 昔、函館ラ・サール高校で修道士のブラザーに出会ったことをきっかけに、上智大学の神学部を受験した青年がいました。

 シスターは女性の修道士、ブラザーは男性の修道士ですね。

 彼にとって、ブラザーとの出会いは重要なもので、その出会いからキリスト教に関心を持ったそうです。

 神学部を志しましたが、結果は不合格でした。

 1年間、浪人生活をしました。その間、「神さまは自分を見てくれていないのだろうか」と感じたと話してくれました。

 彼は後に、別の大学の神学部に進むことになり、今も信仰を持って生きています。

 「神さまは自分を見てくれていないのだろうか」

 その寂しい気持ちのこもった言葉は印象深く私の心に残りました。

 「神は自分の民を退けたのか」という問いに対して、パウロは「決してそうではない」と答えています。

 では、そういう寂しさの経験はなんのためにあるのかということが11章全体のテーマになっています。

 

② ひとりぼっちにしない

 旧約聖書の登場人物、預言者エリヤは逆境に追い込まれた時、「わたしはひとりぼっちです」と神に訴えました。

 神の返答は「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」でした。

 孤独を感じているエリヤに対して、神は残された仲間の存在を示唆しました。

 パウロは「同じように、現に今も」と言っています。

 現に今も、神さまは私たちに支え合う仲間を与えてくれています。

 「寂しさ」や「孤独」は、私たちが支え合う土台です。

 どんな人でも、人生の中で寂しさや孤独を経験するかと思いますが、マザー・テレサが亡くなられた後に公開された手紙の中で、彼女もまた孤独を抱えながら生きていたことは大きな話題となりました。

 「あなたはイエスの愛を受けている。わたしはといえば、むなしさと沈黙にさいなまれている。見ようとしても何も見えず、聞こうとしても何も聞こえない」

 「わたしの信仰はどこへ消えたのか。心の奥底には何もなく、むなしさと闇しか見あたらない。神よ、このえたいの知れない痛みがどれだけつらいことか」

 こういった心の声をマザー・テレサは親しい友人に手紙で書き送っていました。

 弱い部分も含めて、自分の心の内を分かち合える仲間の存在は尊いものです。

 

③ 神の最善の選択の内にある

 パウロは信仰に導かれたのは、自分の選択ではなく、神の選択によるという実感を持っていました。

 そのことから、信仰的に充実している時も、そうでない時も、すべての時が神の最善の選択の内にあることを信じていました。

 寂しさが支え合いにつながっているように、自分の目には良さが分からない出来事や状態もちゃんと良いことにつながっています。

 

《おまけ》

 お互いのどこが好きかという話になった時、「悩んでるところ」と言ってもらったことがありました。

 私はいつも悩んでいる人でした。

 大学時代には「宇田くんはいつも全世界の悩みを背負ったような顔をしているね」と言われたこともありました。

 そして、自分も自分のそんなところが嫌いではありません。

 同じように悩みがちな仲間とたくさん出会えましたので。

2020年6月28日