教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.20

宇田慧吾牧師

 今日は、ローマの信徒への手紙9章19-33節を読みます。

09:19ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。 09:20人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。 09:21焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。 09:22神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、 09:23それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。 09:24神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。 09:25ホセアの書にも、次のように述べられています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。 09:26『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」 09:27また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。 09:28主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」 09:29それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう。」
09:30では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。 09:31しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。 09:32なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。 09:33「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。

 

 前回、人の意志や努力では動かし得ない出来事については、神の意志のもとにあることを信頼しましょうというお勧めがなされていました。

 このようなお勧めに対して、一つの問いが投げかけられます。

 「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか」

 時に、理不尽に思われる出来事を経験することがあります。

 なぜ神はそのような出来事を与えるのか、止めないのかという疑問が投げかけられています。

 私も牧師として奉仕するようになってから、様々な方の人生のお話をうかがうようになりました。

 中には、どうして神さまはこのような苦しみを与えるのだろうと感じる時もあります。

 このような「神に対する『なぜ』の問い」に今回の聖書箇所は次のことを勧めています。

 「『なぜ』の問いを手放し、信じて待つこと」

 パウロは「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か」と少々厳しい言い方をしていますが、これは聖書の「ヨブ記」を背景とした言葉です。

 ヨブ記はある日突然、財産・家族・健康を奪われてしまった人が、苦しみについての問答を経て、神の救いを確認する物語です。

 大切なポイントは、神の用意してくれている救いの道のりについて人は無知であるということです。

 物語の最後に登場する神さまは開口一番こう語りかけます。

 「知識もないまま言葉を重ね、主の計画を暗くするこの者は誰か」(ヨブ38:2)

 神さまからしたら、最良の計画を用意しているのに、『なぜ』とばかり問われるのは心外なのでしょう。

 苦しい時に『なぜ』と問うのは自然な気持ちですが、聖書は『なぜ』の問いに縛られすぎないことを勧めています。

 そして、信じて待つことを勧めています。

2020年5月24日

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.19

宇田慧吾牧師

 今日は、ローマの信徒への手紙9章1-18節を読みます。

09:01わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、 09:02わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。 09:03わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。 09:04彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。 09:05先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。

09:06ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、 09:07また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」 09:08すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。 09:09約束の言葉は、「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。 09:10それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。 09:11-12 その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。09:13「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。

09:14では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。 09:15神はモーセに、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。 09:16従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。 09:17聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。 09:18このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。

 意志の強さや努力が人生を切り拓く力であることは間違いないですが、同時に、人の意志や努力では動かすことのできない物事も少なくないことを忘れずにおきたいものです。

 最近私は介護に関する本を読むことが増えたのですが、老いていく親の姿を目の当たりにして人生観が変化する事例が紹介されていました。

 しっかりしていた親が老い、当たり前にできていたことができなくなっていく様子を見て、ショックを受けるのと同時に、「自分もいつかこういう時がくるのだ」と考え始めるそうです。

 人生の前半は自分の意志や努力で「上っていく」「積み上げていく」時期ですが、人生の後半は「下っていく」「手放していく」ことが増えていきます。

 そのような時、自分の「意志」や「努力」の他にも、頼れる拠り所がある人は本当の意味でたくましいのかなと思いました。

 今日の聖書にはこんな言葉がありました。

 「人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです」

 パウロは人の意志や努力で動かすことのできない物事は、神の意志のもとにあると信頼していました。

 その神の意志は、「自由な選び」「計画」と表現されています。

 人の視点で見ると、神の選びの自由さは時に不公平に見えます。また、悪人が栄えることもあり公正さに欠けて見えることもあります。

 けれども、長い経過を見てみると、不和から和解が生まれたり、圧政から解放が生まれたり、神さまの計画には人智を超えた配慮が行き届いています。

 パウロはそのような神さまの配慮に信頼していました。

 なにもパウロが苦労知らずだったから、そういう気長な信頼を持てたというわけではなく、パウロの心にも「深い悲しみ」や「絶え間ない痛み」がありました。

 そのような痛みがありつつも、人の意志や努力では動かせない部分について、パウロは神さまにお任せすることを選びました。

 人生の途中にも晩年にも、人の力ではどうにもできないことがありますが、そういう部分については神さまがちゃんと良い計画を準備してくれていると信頼できたら、ちょっと安心できそうですね。

2020年5月17日

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.18

宇田慧吾牧師

 今日は、ローマの信徒への手紙8章31-39節を読みます。

08:31では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。 08:32わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。 08:33だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。 08:34だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。 08:35だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
08:36「わたしたちは、あなたのために
   一日中死にさらされ、
   屠られる羊のように見られている」
と書いてあるとおりです。 08:37しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。 08:38わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 08:39高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

 前回はパウロがうめくような苦しみを感じていたこと、その中で神さまの支えを受け取っていたことが語られていました。

 今回もその「支え」についてのお話です。

 キーワードは「味方」です。

 神さまはいつも味方でいてくれるという実感がパウロにはありました。

 いつも味方でいてくれる誰かの存在は支えになります。逆に、敵対し、和解できないでいる他者の存在は人の心を弱らせます。

 敵対関係についてパウロは三つの言葉を挙げています。

「訴える」「罪に定める」「愛から引き離す」

 どんな人にも欠点がありますが、そのウィークポイントを他者から指摘されたり、責められたりするのは苦しいものです。

 一方、神さまはそういった私たちの欠点を全て受けとめ、痛みを引き受けたうえで、味方でい続けてくれる方です。

 皆さんには「いつも味方でいてくれる誰か」がいるでしょうか?

 私は両親がそのような存在であったことに感謝しています。

 他にもたくさんの方に「いつも味方でいるお手本」を見せていただきました。

 そういった周囲の人たちの支えに感謝しています。

 それと同時に、心の中の全てを打ち明けることができる神さまが、いつも味方でいてくれることは大きな支えです。

2020年5月10日

行政書士事務所の開業について

宇田慧吾牧師

 この3年間、教会とNPO法人そのべるの活動で様々な境遇の方との出会いをいただきました。難しい課題があるケースの多くは、頼れる家族や親族がいない場合でした。そういった場合、精神的な寄り添いだけでなく、法的なサポートを併用することで具体的な解決につながることを経験しました。

 そんな頃、他教区で牧師が行政書士事務所を開業した事例を聞きました。頼れる親族のいない高齢者のサポートをされていました。また、小さな教会であるため牧師が自活する必要があるとのことでした。そういった取り組みを聞き、自分がこれまで与えられてきた出会いや丹波新生教会の財政状況に照らして考えました。教職2名体制を続けていくための経済的工夫として、地域の方に出会い証しをする接点として、取り組む意義があると思うに至りました。他のいくつかの導きも重なり、半年ほど準備して、資格を取得しました。

 役員会では園部会堂を事務所として使用し、表札を掲示することをお願いし承認いただきました。また、業務は現状の教会奉仕に差し障りのない範囲とし、健康を損なわないよう十分気をつけることを確認しました。

 皆さまのお支えにより、5月1日に開業手続きを完了することができました。「終活」サポートを専門業務として、ご高齢の方やそのご家族のサポートに取り組みます。主を証しする働きとなるようどうかお祈りください。また、遺言書、相続手続き、成年後見制度、墓じまい、死後事務委任などについてお困りのことがあればお気軽にご相談ください。 

2020年5月10日

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.17

宇田慧吾牧師

 今日は、ローマの信徒への手紙8章18-30節を読みます。

08:18現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。 08:19被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。 08:20被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。 08:21つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。 08:22被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 08:23被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。08:24わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 08:25わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

08:26同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 08:27人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。 08:28神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。 08:29神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。 08:30神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。

 前回はパウロの抱えていたジレンマがどのように解決されたかが語られていました。

 ポイントは「罪の赦し」「霊的な支え」「幼子のように神に頼る」でした。

今回は「苦しみの意味」がテーマです。

パウロはキリストの救いを経験した後にも、苦しみが消えたわけではありませんでした。

むしろ、苦しみの意味に目が開かれました。

パウロは苦しみの先にとても良いものがあると信じていました。

また、今ある苦しみも神の意志のもとにあると信じていました。

一般に苦しみはマイナスに捉えられますが、パウロはそうは捉えなかったようです。

逆に、忍耐や希望を生み出す源と捉えています。

聖書には次のような言葉があります。

「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる」詩編126:5
「悲しみは喜びに変わる」ヨハネ福音書16:20
「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」ルカ6:21
「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」ロマ5:3-4

苦しみや涙はそのままでは終わらず、喜びや希望につながっているというのが聖書の基本的な捉え方です。

また、パウロは「聖霊の助け」についても語っています。

「霊が弱い私を助けてくれる」
「どう祈るべきか分からない時にも、言葉にならないうめきを執り成してくれる」

一般に、困難は助け合いや支え合いを生みます。

信仰を持って生きる人の場合、困難な時、神さまが助け、支えてくれます。

「万事が益となる」とパウロが言っている通り、すべての苦しみは苦しみのままで終わらず、希望や忍耐や助け合いを生みます。

2020年5月3日

子どもの日・花の日

片岡広明牧師

 教会では「子どもの日・花の日」を設けて教会につながる子どもたちの信仰と心身の成長を覚えて神様の祝福を祈ることが行われてきました。教会の子どもの日・花の日は、1856年、アメリカ合衆国マサチューセッツ州チェルシーのアメリカ・ユニバーサリスト教会のチャールズ・H・レナード牧師が提唱して始まったと伝えられています。その年の6月にレナード牧師は子どものための特別礼拝をもち、礼拝の中で献児式、幼児祝福式が行われました。教会の「子どもの日」は、1866年にアメリカ・メソジスト教会でも取り入れられ、その後、会衆派教会や長老教会にも広まり、やがてこの習慣が全世界に広まっていったのでした。6月は夏休みに向かっていく時であり、9月から始まる一年間の学年の終わりを締めくくる意味がありました。また、この頃から夏の花が咲き始める花の季節でもあり、会堂を花でいっぱいに飾って礼拝が行われるようになり、「子どもの日・花の日」として礼拝が守られるようになりました。

 日本基督教団の教会暦・行事暦では従来からの習慣に倣い、6月第2日曜日を「子どもの日・花の日」としていますが、日本ではアメリカと異なり、6月は4月から始まる学年の途中であって締めくくりの意味がないこと、そして6月は日本では花が少ない時期でもあり、教会によっては子どもの日・花の日を5月の端午の節句の子どもの日に合わせて教会の「子どもの日・花の日」を行うようにしているところもあります。丹波新生教会でもこの数年、5月の子どもの日に近い日曜日を「子どもの日・花の日」としてきました。この日には礼拝に子どもを招き、花を持ち寄り、子どものための祈りを献げて礼拝を行います。今年は新型コロナウイルス感染拡大のため、子どもたちを教会に招くことができませんが、子どもたちの健やかな成長を神様が守り導いて下さいますように、祈りを合わせたいと思います。

5月2日礼拝メッセージ@園部会堂 「人生を見守ってくれている他者」

宇田慧吾牧師

 3週間、高校生たちと太宰治の『人間失格』を読んできました。読み終えると、どーんと大きなものが心にもたれかかってくるようで、やはり名作です。

 主人公の葉蔵には嘘をついてしまう癖がありました。本人は性癖と言っていますが、悪意でもなく、何かのためにということでもなく、とにかく自然と嘘を言ってしまうのでした。自分の本心を言えない人なのでした。

 本人も自分の問題を自覚していて、「もし神さまが、自分のような者の祈りでも聞いてくれるなら、いちどだけ、生涯にいちどだけでいい、祈る」と切実に問題の解決を願ってもいました。けれども結局、自分を偽って生きる癖は改まることなく、彼の弱さに惹かれて支えようとする女性たちを不幸にしていくのでした。

 葉蔵自身の生涯は最後まで希望を見出すことなく、ただ無常を悟ることだけが描かれています。一方、物語の最後はバーのマダムの印象的な言葉でしめくくられます。

「私たちの知ってる葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、…神さまみたいないい子でした」

 葉蔵は自分の人生を「人間失格」と見なしていました。一方、葉蔵に出会った周囲の人たちは弱く苦しんでいる彼を案外素直に愛していたようです。

 人生は自分一人の視点で完結するものではありません。自分では解決できない弱さや癖や苦しみが、出会いの中で愛や慈しみを生み出すことがあります。自分視点の良し悪しに囚われすぎず、時折、私を見守ってくれている他者の存在に心を向けたいものです。

 私を見守ってくれている他者は、身近には家族や人生の中で出会わされた人たちかと思います。聖書はそういった人間同士の支え合いを勧めると共に、神さまもまた私たちを見守ってくれている他者なのだということを語りかけています。神さまを信じて生きている人にとって、自分では自分を肯定できないような時にも、神さまが深い愛をもってそばにいてくれることはありがたいことです。

 今日の聖書箇所にはパウロが神さまからどのように見守ってもらっていたかが書かれています。パウロは救われてからも、「うめく」ような苦しみを持っていました。そのようなうめきの中で、パウロは神さまの支えを受け取っていました。

「同時に希望を持っています」
「忍耐して待ち望むのです」
「霊も弱いわたしたちを助けてくださいます」
「万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」

 パウロはうめくような苦しみも神さまのご計画の内にあって、希望につながっていると信じていました。このように自分の視点では苦しい出来事や状況を、神の視点、大きな視点、長い時間の中では「万事が益となる」と信じることを教会では「導きを信じる」と言います。

 導きを信じて生きてきた信仰の先達者たちは、人生の困難の中で希望を持ち、人を愛し、信じ続ける生き方の美しさを証ししてくれています。人生を支えてくれている他者の存在に心を向け、しなやかに粘り強く生きていきたいものです。

2020年5月3日の週報

●コロナウイルス感染拡大を防止するため、教会に集うことができません。礼拝の式次第を掲載いたしますので、各ご家庭で共に祈り、賛美しましょう!●

〇礼拝式次第 復活節第4主日
亀岡礼拝(亀岡会堂) 午前10時30分
司会:片岡広明牧師 奏楽:HymnPlayer      

前  奏          
招  き  詩編 143:8
頌  栄  24(たたえよ、主の民)
主の祈り  (讃美歌93-5A)
使徒信条  (讃美歌93-4A)
聖  書  ヨハネによる福音書
      21章15-25節 (新P.211)              
祈  祷         
讃  美  327(すべての民よ、よろこべ)
説  教   「行きたいところ、行きたくないところ」   
祈  祷        片岡広明牧師
讃  美  97(羊飼いの羊飼いよ)
献  金  
頌  栄  27(父・子・聖霊の)
祝  福        片岡広明牧師
報  告

船南礼拝(園部会堂) 午前10時30分
司会:宇田慧吾牧師 奏楽:今井恵一兄         

前  奏  奏 楽 者
招  き    ヨハネ21:18   司 会 者
頌  栄  24(たたえよ、主の民)
主の祈り  (讃美歌93-5A)
使徒信条  (讃美歌93-4A)
聖  書  ローマの信徒への手紙
      8章18-30節 (新P. 284)
祈  祷  司 会 者
讃  美  46(すべての人よ) 2回繰り返し
説  教  「私を見守ってくれている他者」
祈  祷        宇田慧吾牧師
讃  美  528 (あなたの道を)
献  金  感謝祈祷   当  番
頌  栄  27(父・子・聖霊の)
祝  福        宇田慧吾牧師
後  奏  奏 楽 者
報  告

○次週予告

●お知らせ

◇亀岡礼拝は5月10日以降も会堂での礼拝は牧師と牧師家族のみで行い、他の方々には非公開とします。船南礼拝は公開の礼拝に戻ります。但し礼拝順序の一部を省いて時間短縮することは継続します。

◇定例役員会   13:00   園部会堂
 昼食は用意しません。

◇船南朝夕合同礼拝のため、胡麻夕礼拝はありません。

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.16

宇田慧吾牧師

 今日は、ローマの信徒への手紙8章1-17節を読みます。

08:01従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 08:02キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。 08:03肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。 08:04それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。 08:05肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。 08:06肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。 08:07なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。 08:08肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。 08:09神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。 08:10キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。 08:11もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
08:12それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。 08:13肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。 08:14神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 08:15あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 08:16この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。 08:17もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

 

 前回は罪のジレンマについて語られていました。その内容は以下のようなものでした。

「善をなそうという意志はありますが、それを実行できない」
「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」

 パウロはそのようなジレンマを深く嘆きながらも、そこに解決の道を開いてくれる神への感謝を告白していました。

 今回はその解決の部分について語ります。

 パウロが語る解決は「罪の赦し」です。

「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」

 キリストに結ばれることで、パウロの生き方は大きく変わりました。

 かつてのパウロは誠実に神に従って生きようと願い、律法や割礼という言葉に顕れているように、倫理的高潔さや身分に重きを置いていました。

 その代償として、誇大な自尊心や行き過ぎた他者に対する裁きに陥ってしまっていました。

 けれどもキリストに出会ったパウロは、自分にも倫理的欠陥があることに気づかされました。また、身分に重きを置くことによって生じる差別にも気づかされました。

 そして、パウロは自分自身に根深い善悪のジレンマ、つまりは罪の問題があることを自覚しました。その時、同時に神の根本的な赦しを受け取りました。

 

 今回の箇所で興味深いと思うのは、罪の赦しについて語るときに、パウロが「霊」と「親子関係」に言及することです。

 霊についてパウロは、「霊に従って歩む」「神の霊によって導かれる」と表現しています。

 信仰を持って生きている人にとっては共感が容易かと思います。神の願いから離れがちな自分の弱さを自覚したうえで、祈りの中で神の思いを求め、それに従う生き方です。それでも、自分の選択が的外れな結果となることもありますが、最終的には全てが神の導きの内にあると信頼することができます。

 パウロはかつて、「律法に従って歩む」人でしたが、今は「霊に従って歩む」人に変えられました。

 

 またパウロは「神の子とする霊を受けた」「この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」とも表現しました。

 パウロの中での神さまとの関係が、主従関係から親子関係に変えられたようです。

 かつてのパウロは正しさにやや偏りがありました。自分を律する厳しい生活をし、同時に他者を厳しく裁き、ある時には正しさを守るために人を殺めました。

 そういうパウロが自らの拠り所である正しさを手放した時に、新たな拠り所となったのが神さまとの親子関係でした。

 パウロの中で神さまの顔が変わったことが伝わってきます。

 僕(しもべ)を規律する主人ではなく、わが子を愛する親の顔に変わったようです。

 「アッバ、父よ」という呼び方は、キリストが好んだ神の呼び方です。アッバはヘブライ語で「パパ、おとうちゃん」という意味です。

 神に向かって「おとうちゃん」と馴れ馴れしく呼びかけるキリストをパウロの属するファリサイ派の人たちは批判していました。

 一方でキリストは、十字架で亡くなる前夜の一番辛いときにも「アッバ」と呼びかけ、祈っていました。

 キリストにとってそうであったように、パウロにとっても神さまが包んでくれている存在に変わったようです。

2020年4月26日