見て、近づく

私たちは、目の前にいる人を見ても、関わらずに通り過ぎることがあります。

しかし、ある人は傷ついた人を「見て、近づき」、その人を助けました。

 

大切なのは、「誰が私の隣人なのか」と線を引くことではありません。

目の前の人に心を開き、その人の隣に立つことです。

 

イエス・キリストは私たちに語ります。

「行って、あなたも同じようにしなさい」。

誰かを選んで愛するのではなく、出会った人の隣人になる。

その一歩を、今日も踏み出してみませんか。

神の選択に戸惑うとき

 

私たちは、自分の願いとは異なる神の選択に戸惑うことがあります。なぜ神はこのようにされるのか。答えが分からず、心にジレンマが残ることもあります。

 

ヨナもまた、神の選択に怒りました。しかし神は、ニネベの人々を憐れむご自身の思いを語られました。

 

神の視点は、私たちには見えないことがあります。それでも、神の御心を尋ねながら歩む中で、少しずつその思いを知っていくことができます。今は分からないことも、神と共に歩む中で、やがて意味を見いだせるのかもしれません。

これは私の問題です

私たちは、自分の問題ほど気づきにくいものです。他人の間違いは見えても、自分自身の姿は見えないことがあります。


だからこそ、私たちには、率直に語りかけてくれる他者が必要です。その言葉を通して、自分自身と向き合わされることがあります。


自分の弱さや過ちを認めるのは、決して簡単ではありません。しかし、「これが私の問題です」と認めるところから、新しい歩みが始まります。神は、ありのままの私たちを憐れみ、受け止めてくださいます。

「神はあなたの名を呼ばれる」

モーセは、過去の失敗から逃れ、異国の地で静かな生活を送っていました。しかし、神は燃える柴の中から「モーセ、モーセ」とその名を呼ばれます。


神が与えられた使命は、かつてモーセが自分の力で果たそうとして失敗したものでした。神はその使命を果たすために、能力ではなく、「わたしはあなたと共にいる」という約束を与えました。その臨在はにモーセを支え続けました。


私たちもまた、過去の失敗や不安によって人生から逃げていく時があるかもしれません。しかし神は私たちに呼びかけます。そして「わたしはあなたと共にいる」と約束します。


モーセは神からの呼びかけに対して「はい、わたしはここにおります」と応えました。人生の重要な転換は、自分の強さではなく、神の呼びかけに「はい」と応えるところから始まります。

祝福が見えない夜にも

人生には、神さまの祝福が見えなくなる夜があります。
将来への不安や、大切な人との別れ、思いがけない出来事の中で、「神さまは本当に共にいてくださるのだろうか」と感じることがあるかもしれません。

創世記32章には、そのような夜を過ごしたヤコブの姿が描かれています。
兄エサウとの再会を前に恐れに包まれたヤコブは、神と格闘し、「祝福してくださるまで離しません」と訴えました。

神はすぐに恐れを取り去られたわけではありません。
ヤコブは足を引きずる体となり、なお兄のもとへ向かいます。
しかし、その歩みは以前とは違いました。
自分の力ではなく、神に信頼して歩む者へと変えられていたのです。

主イエスも十字架の上で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。
それでも神は復活という、人の想像を超えた仕方で応えてくださいました。

私たちにも、祝福が見えない夜があります。
しかし、そのような時にも神は私たちに向き合い、共に歩み、前へ進む力を与えてくださいます。

ヤコブのように、「祝福してくださるまで離しません」と祈りながら、神を信頼して歩んでいきたいと思います。

《弱さの中で見えてくる力》

私たちは力があると安心します。

知識があること、健康であること、お金があること、誰かに認められること。

そうした力に支えられて生きています。

けれども聖書は、不思議なことに、十字架につけられたキリストの無力な姿の中に「神の力」が現れていると言います。

私達にも自分の力ではどうにもならない無力な時があるかもしれません。

その時に初めて見えてくる力があります。

神の力とは、人が無力な時に、人を支え、生かし、救う愛の力です。

《説教要旨》「帰るかもしれない」エレミヤ書36章1節-10節

片岡広明牧師

 アドベントの小さな光がふたつ輝いています。ろうそくの光はほんの小さな光ですが、闇の中では小さな光も豊かな輝きを放ちます。先週は久しぶりに聖餐に与りました。小さなひとかけらのパンと小さな杯によって、何にも換えがたい大きな生きる力を与えられるとは不思議なことです。

 エレミヤは古代イスラエルの歴史の中でも南ユダ王国の末期からバビロン捕囚へと至る激動の時代を主の預言者として生きた人でした。エレミヤは涙の預言者と呼ばれます。エレミヤの預言者としての悲しみは、神様のみ言葉をどんなに力を込めてユダの人々に語っても、一人も耳を傾けようとする人がいなかったという孤独の悲しみでした。エレミヤはまことに小さくされた存在でした。しかしエレミヤの偉いところは、どんなに人々が神様のみ言葉を聞こうとしなくても、決して投げ出さず、諦めなかったことです。神様はエレミヤに、言葉を巻物に書き留めよと言われます。エルサレム神殿に出て行くことすら赦されていなかった、迫害の中にあったエレミヤですが、巻物を弟子に託して神様の言葉を人々に知らせようとしたのです。その巻物も悪逆非道な王に焼き捨てられてしまうのですが、それでもエレミヤは諦めず、二巻目の巻物の制作に取りかかり、それがエレミヤ書の言葉として残されていくのです。エレミヤの働きは、闇の中に小さな灯りを点すようなものでしが、やがてエレミヤが聞いた神様のみ言葉は後々にまで伝えられ、キリストの誕生にまで至る救いの歴史をつないでいくのです。

 12月第1日曜日は社会事業奨励日です。社会福祉や医療、教育といった分野で教会はこの世で弱く小さくされている人々に寄り添う働きを担ってきました。わたしたち自身の日々の歩みも、世界を覆い尽くす闇の中に小さなゆっくり火をわずかに一つずつ、ゆっくりと点していくような歩みですが、必ずそれは全世界を照らす神様のみ光を映し出すものとなっていくことと信じて、今年のクリスマスを待ち望みたいと思います。

2021年12月5日

《説教要旨》「平和を追い求めよう」ローマの信徒への手紙14章10-23節

片岡広明牧師

 8月第1主日は平和聖日です。8月は戦争と平和について考え、祈る月です。1945年8月6日に広島原爆投下、続いて9日には長崎原爆投下、そして15日にはついに敗戦の日を迎えました。戦争はかけがえのない命を奪い、大切な財産を奪い、自然を破壊し、文化を破壊します。第二次世界大戦終結から75年が経過しました。75年とは四分の三世紀、ひとつの節目となります。もはやその時代を知らない人のほうが多くなりました。戦争の怖さ、恐ろしさ、愚かさを、聞いてわかっているつもりでも、実体験をもたないのです。あの時代を経験した人であればこそ、「二度とあんなことを繰り返してはならない」との思いを強くすることができるのです。語って下さる方々の声に耳を傾けて聞き、何があったのか、何が間違っていたのか、そしてその時代の教会はどうしていたのか、歴史を学んで、その学びの中から今に生かす知恵を学び取ることは大切なことだと思います。

 今日は平和聖日にあたり教団戦責告白を読みます。教団戦責告白は、正式には「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」と言います。教会も人の集まりですから、大勢の人々の知恵と力と祈りを合わせても時代の流れに抗しきれない限界があったのです。教会が戦争協力をした、そのことを重い罪として神様の前に素直に告白し、赦しを願い、心を入れ替えて回心し、新たな出発をしようとして戦責告白を表した方々の努力は大変な困難を極めたのです。戦責告白が出されるまでに戦後22年もかかったという事実がその葛藤の深さを表しています。話し合いを重ね、過去に自分たちが犯した戦争という重く大きな罪と真摯に向き合って、戦責告白が出されたのです。教会の押本年眞さんが『旧園部会堂と太平洋戦争』という文章を書いて下さいました。園部会堂は戦時中の一時期、軍に接収されていたのです。戦時中の教会の苦難がそこにもありました。その時代に教会を守って下さった信仰の先達者の方々のご苦労を思います。

 今日のローマ書のパウロの言葉に「平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。」とあります。私たちも平和のために祈り、神様が与えて下さる真の平和のために奉仕する者とならせていただきたいと思います。

2020年8月2日 平和聖日、亀岡会堂

《説教要旨》「神我らと共に」ヨハネによる福音書1章14-18節

片岡広明牧師

 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。

ヨハネによる福音書1章14節

 主の御降誕の喜びに溢れつつ新年を迎えました。世間ではすっかりクリスマスは終わっていますが、1月6日の公現日までがクリスマスの期間です。今日の聖書では「言は肉となってわたしたちの間に宿られた」と語られています。ヨハネによる福音書はマタイやルカのような降誕物語を語ってはいませんが、「言は肉となった」という表現で神の子であるキリスト・イエスが肉体をもってこの世にお生まれ下さったことをこのように言い表しているのです。

 「わたしたちの間に宿られた」とは、神の子であられるキリスト・イエスが人間となってこの世にお生まれ下さり、肉体の痛みも人の心の痛みもわたしたちと全く同様に経験されるべく、この世にお生まれ下さった、そのことによって、み子イエスはわたしたちの痛みも苦しみも、喜びも楽しみもすべて、わたしたちと共にして下さる方なのだということ、イエスはわたしたちのことをすべて分かって下さる方であられるのだということ、わたしたちの救い主はそのような方なのだと言っているのです。

 神の言葉が宿る。そして神の御心が表される。そのことは、み子イエスから始まって、わたしたちの内にも起こっていくのです。イエスとの出会いを通してわたしたちは神様の御心に触れます。わたしたちの内に神様の御言葉が豊かに宿ります。わたしたちは神から離れて神を知らずに生きていたのが、神を知る者とされ、神と共に生きる喜びのうちに生かされていくのです。これがヨハネ福音書が伝えたクリスマスのメッセージです。新しい年、神様の御言葉を豊かにいただき、御言葉に生かされる一年を送りたいと思います。

2020年1月5日 亀岡会堂

《説教要旨》「何も持たずに世に生まれ」テモテへの手紙 一 6章1節~12節

片岡広明牧師

わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。テモテ 一 6章7節

 今日は世界聖餐日、世界宣教の日を迎えています。私たちの教会ではこの日に先んじて先週の日曜日、園部合同礼拝において聖餐にあずかりました。わたしたちは世界中の諸教会の人々とキリストによって結ばれているのだということを覚えたいと思います。世界の宣教のために祈りましょう。テモテへの手紙は長年にわたって経験を積み重ねてきた伝道者パウロから、若くて経験の浅い伝道者テモテへの励ましや勧告の言葉をつたえる手紙として書かれたという形をとっています。ここに述べられているのは、教会の宣教の業を担っていくにあたって、心得ておくべき大切な事柄としていくつかの具体的な課題を挙げて勧めを語っています。今日の箇所には奴隷と主人という社会的立場の秩序を守るようにということと、富に関する教えとが語られています。その前のところでは、老人に対して、若者に対して、身寄りのないやもめに対して、教会の長老に対してなど、具体的な勧めを語っています。いろいろな人たちを、それぞれの人々のことをよく理解しながらイエスの御言葉によって信仰へと導くのが教会の使命であり、伝道者が神様から託されているつとめなのです。信仰こそがすべての人にとって何よりも大切な宝なのです。

 先週、合同礼拝でひとりの方の洗礼が行われました。その信仰に至る歩みを神様が導いて下さったことを皆で共に喜び分かち合いました。その際の説教で語られたことの中に、丹波ヨブの話がありました。ハンセン病を患い、病による苦難と貧しさの中で信仰を持ち続け、生きる望みを持ち続けた信仰の証しを伝え聞く幸いをいただいていることは、わたしたちの教会の誇りです。どんなにたくさんのお金を蓄えても、お金は使えばなくなります。いつまでも残るもの、信仰と希望を愛を、わたしたちも求めていきたいのです。

2019年10月6日 亀岡会堂