「召命」3 宇田慧吾牧師

 前回、ベックさんに牧師の召命について相談をしたところまでお話しました。その時ベックさんはサムエルの話をしてくれました。神さまがサムエルに語りかけた時、サムエルは誰から語りかけられたのか分からなかった。その後、もしまた呼びかけられたら「主よ、お話しください。しもべは聞いております」と答えるよう祭司に教えられた。そして次はそうに答え、神さまの語りかけを受け取ることができた。そんなサムエルの話をした後、ベックさんが言いました。「サムエルのように待っていたら、神さまが語りかけてくれるかもしれない。それがいつなのか人には分からないけど、ひょっとしたら…、今日かもしれない!」。


 帰り道、神さまが語りかけてくれるまで待とう。待っていれば良いんだ。そんな清々しい気持ちで歩きました。また、自分にとって重要なのは、牧師になるかどうかではなく、神さまから与えられた役割を生きることだという気持ちに着地していました。


 きっとダライ・ラマ6世が還俗したのも、ベックさんが牧師の資格を返上したのも、職責より重要な召しがあったからなのでしょう。また、高僧ではなく一人の俗人として生きることで、制度上の牧師ではなく一信仰者として生きることで、彼らは深く人に寄り添っていると私は感じました。ベックさんに出会い、テツさんからダライ・ラマ6世の話を聞き、私は「いつか自分も還俗しよう」と思いました。それは私も彼らのように、制度上の職責より召命に素直な宗教者になりたいという気持ちでした。(続く) 

宇田慧吾牧師
(2024年3月3日)

「召命」2 宇田慧吾牧師

 前回「いつか自分も還俗しよう」と思ったことをお話しました。(還俗:僧を辞め俗人に戻ること) なんでそう思ったのか思い返すと、その理由の一つにはベックさんとの出会いがありました。


 ベックさんとは吉祥寺にあるキリストの集会という所で出会いました。この集会を教えてくれたのは、前回お話した飛行機でたまたま隣の席に座った日本人でした。インド人がひしめく飛行機の中で隣の席に座ったのが、たまたま日本人であっただけでなく、近所に住んでいる人であり、母親がクリスチャンの人でした。私はカバンを持たず、ポケットにパスポートと財布と歯ブラシだけを入れ、手に聖書を持って旅をしていました。飛行機の背もたれのラックに聖書が入れているのを見て、教会の話になり、彼女は自分の母親が通っている吉祥寺キリスト集会を紹介してくれました。話によると、そこにはドイツ人のベックさんという人がいて、その人はドイツで牧師の資格を返上して日本に渡り、キリストの集会を始められたとのことでした。


 帰国後、その集会を訪ねました。教会っぽくない建物の中に集会所があって、200名ほど人が集っていました。礼拝の式次第は教団と変わりなく、普通に礼拝が進んでいきました。ただ、ベックさんのメッセージに少し驚きました。素朴で静かな聖書の説き明かしでした。純粋に聖書に聴くことを大切にしている姿勢が伝わってきました。礼拝後、ベックさんとお話しました。自分は牧師の召命を感じて神学部を卒業したが、今は召命に確信が持てず迷っていると話しました。するとベックさんは…(続く) 

宇田慧吾牧師
(2024年2月18日)

「召命」1 宇田慧吾牧師


 礼拝で召命(しょうめい)に関する聖書の箇所を読んでいます。召命は「召して、命ずる」という言葉です。神さまが私を呼んで、使命を与える。教会では「牧師としての召命を受ける」等と使われます。実際には牧師だけでなく、職場や家庭や生活の中で一人ひとりの召命があります。ドイツ語では召命をベルーフと言い「職業・天職」という意味もあるそうです。もしよければ皆さんもご一緒に「私の召命はなんだろう」「いま神さまから私に託されている役割ってなんだろう」と考えていただければと思います。

 私は18歳の時に牧師としての召命を感じて神学部に入学しました。卒業の時には「自分は牧師にはなれない」と思い、東京で就職しました。半年ほどで仕事を辞め、インド・パキスタン・イラン・エジプトに旅に行った時、飛行機でたまたま隣に座った日本人が一軒のカレー屋さんを紹介してくれました。そのカレー屋さんの店主はチベット仏教の修行をしながらカレー屋さんをしているとのことでした。私は吉祥寺にあるそのカレー屋さんの店主テツさんと親しくなり、ある時こんな話を教えてもらいました。チベット仏教でとても人気のあるダライ・ラマがいる。それはダライ・ラマ6世で、夜な夜なカツラを被って飲みに行っていた。恋愛に関する詩を多く詠んだ。その中には例えば「あなたに会いに行けば仏が悲しむ。仏に会いに行けばあなたが悲しむ」といった詩がある。最後には還俗した(僧を辞め俗人に戻った)。そんな話を聞き、当時の私は「いつか自分も還俗しよう」と思いました。(続く)

宇田慧吾牧師
(2024年2月4日)

マオホ宣教師の着任

ドイツからの宣教師マオホ・マライケ先生が着任されました。

マオホ先生が所属するエムスという団体では牧師になる際の課題の一つに、1年会の海外宣教か施設での就労が設けられているそうです。

マオホ先生は海外宣教を選択され、日本への派遣を希望されました。

日本のどの教会に行くか牧師に相談したところ丹波新生教会を紹介してもらったとのことです。

丹波新生教会ではここ数年、ドイツからの神学生・牧師との交流を続けてきました。

その交流の機会に参加されていたレップ牧師がマオホ先生に丹波新生教会をお勧めくださったとのことです。

マオホ先生は1年間、丹波新生教会ですごされます。

 

《自己紹介》

私の名前はマオホ・マライケです。

31歳です。

私は人口わずか300人のドイツの小さな村の出身です。

2011年に学校を卒業し、ニュージーランドに住んでいました。

ホストファミリーの家で住み込みのベビーシッターとして6カ月間暮らしました。

2012年にマインツ大学でプロテスタント神学の勉強を始めました。

2021年に牧師のインターンシップを始めました。
 ※職位「ヴィカリアット」≒日本キリスト教団における補教師、伝道師

その間、教会で奉仕しながら、小学校で宗教の授業を教えたり、

ヴォルムス・プフェダースハイム教会で日曜日に礼拝を行ってきました。

私はさまざまな言語や文化、特に非ヨーロッパの文化にとても興味があります。

 

須知会堂の閉所

宇田慧吾牧師

2023年4月30日に須知会堂の閉所礼拝が行われました。

地域の過疎化・高齢化に伴い会員数も減少してきていました。

最後の数年は毎回4人での礼拝でした。

会堂のお世話役を続けてくださった90代の方。

退職後、須知会堂の近くに引っ越してきた他教会員の方。

ご両親と一緒に子どもの頃に通っていた他教会員の方。

皆さんに支えられて最後まであたたかい礼拝が続けられたのはありがたい恵みでした。

須知での最初の献堂が1887年とのことです。

136年間の神さまのお守りを心から感謝します。

2023年5月

《須知会堂沿革》

1887年 須知村に会堂を建築

1920年 本梅部をつくり須知部は園部部に合併

1950年 須知芦田兄宅で臨時洗礼聖餐式挙行。戦後、芦田、岩崎両兄中心の伝道により受洗33名、転入5名の大挙入信

1952年 須知会堂献堂式

1954年 「須知問題について」山口、大河原両牧師と役員懇談

    (須知伝道所として丹波基督教会から独立)

1955年 役員会で須知伝道所の芦田兄と合併問題協議

1957年 役員会に須知伝道所より諸兄出席し協議。合併手続決定

1964年 須知会堂 第一日曜日朝 礼拝開始。須知CSピクニック琴滝へ

1981年 須知会堂改築準備委員選出

1982年 須知会堂献堂式挙行(約78名出席)

2014年 須知会堂にて地区2.11集会

2016年 須知合同礼拝(35名)、懇談会「今後の教会の体制について」

2017年 須知合同礼拝(49名)、食事、交流の中で受洗者、転入会者等報告

2018年 須知合同礼拝(25名)

2023年 閉所礼拝(44名)

最近のことなど 宇田慧吾牧師

 家族で夕飯を食べる時、3歳の娘が「『いただきます』はつくってくれた人にありがとうっていうことだよね」と尋ねました。「それもあるし、あと食べ物を育ててくれた神さまにもありがとうだよ」と私。すると娘はやや真面目な顔で「パパ、神さまはお野菜育ててないよ」とのこと。庭で一緒にトマトを育てたこともあり、野菜を育てたのは「私」という自負があるようです。そんな話を農家さんたちにしたところ、野菜つくりにおいて神さまは「日照りとか豪雨とかいろんな試練もお与えになる」とのことでした。

 また別の日に娘と公園を歩いていると、道端にハトの亡骸がありました。「ハトさんどうしちゃったの?」と娘。このハトはもう死んでしまったこと、命あるものはいつか必ずそうなること、娘やパパやママも必ずいつかはそうなることを話しました。「いやだ、こわい」と言うので、「大丈夫。その時は神さまが迎えに来てくれて、イエス様が一緒にいてくれるよ」と話すと、神妙な面持ちで「そうなんだ」と吞み込んだ様子でした。用事を終えた帰り道、ハトがいなくなっていました。「いなくなった!神さまが迎えに来てくれたんだ!」と嬉しそうな娘。私は内心「カラス?猫?」。

 

2022年9月

《説教要旨》「クリスマスおめでとうございます」

宇田慧吾牧師


 クリスマスの出来事が「住民登録」の話で始まることをご存じでしょうか。キリストが生まれた頃、初代ローマ皇帝アウグストゥスにより住民登録の勅令が発せられました。アウグストゥスが皇帝となった後、ローマは千年に渡る歴史を築きました。

 そんな栄えた国の片隅で、人知れず赤ちゃんが生まれました。両親は例の住民登録のため100km以上に渡る旅の途中でした。生まれた赤ちゃんは飼い葉桶に寝かせられました。寝かせられたのがベッドでなかったのは「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったから」と書かれています。

 この赤ちゃんのもとに最初に訪れたのは羊飼いでした。彼らはその頃、野宿をしながら夜通し羊の番をしていました。「野宿で夜通し」とはいかにも大変そうな仕事です。

 どんなに国が栄えても、その片隅に、その夜に、様々な人が生きています。それは今も昔も同じことかと思います。聖書が伝えるクリスマスは、その片隅に、その夜に、救い主が来てくれたという出来事でした。

 ちなみに私が救われたのもクリスマスの頃でした。当時高校3年生の私は友人や家族にも恵まれ、とても充実した境遇にありました。その一方で、心の中に言いようのない孤独感や虚無感がありました。ある時、その心の寂しさに神さまが寄り添ってくれていることを感じ、救いを実感しました。

 皆さんの心には「片隅や夜」がありますか?

 もしあるなら幸せです。キリストはそこに来て、いつも共にいてくれます。


2021年12月

《説教要旨》「帰るかもしれない」エレミヤ書36章1節-10節

片岡広明牧師

 アドベントの小さな光がふたつ輝いています。ろうそくの光はほんの小さな光ですが、闇の中では小さな光も豊かな輝きを放ちます。先週は久しぶりに聖餐に与りました。小さなひとかけらのパンと小さな杯によって、何にも換えがたい大きな生きる力を与えられるとは不思議なことです。

 エレミヤは古代イスラエルの歴史の中でも南ユダ王国の末期からバビロン捕囚へと至る激動の時代を主の預言者として生きた人でした。エレミヤは涙の預言者と呼ばれます。エレミヤの預言者としての悲しみは、神様のみ言葉をどんなに力を込めてユダの人々に語っても、一人も耳を傾けようとする人がいなかったという孤独の悲しみでした。エレミヤはまことに小さくされた存在でした。しかしエレミヤの偉いところは、どんなに人々が神様のみ言葉を聞こうとしなくても、決して投げ出さず、諦めなかったことです。神様はエレミヤに、言葉を巻物に書き留めよと言われます。エルサレム神殿に出て行くことすら赦されていなかった、迫害の中にあったエレミヤですが、巻物を弟子に託して神様の言葉を人々に知らせようとしたのです。その巻物も悪逆非道な王に焼き捨てられてしまうのですが、それでもエレミヤは諦めず、二巻目の巻物の制作に取りかかり、それがエレミヤ書の言葉として残されていくのです。エレミヤの働きは、闇の中に小さな灯りを点すようなものでしが、やがてエレミヤが聞いた神様のみ言葉は後々にまで伝えられ、キリストの誕生にまで至る救いの歴史をつないでいくのです。

 12月第1日曜日は社会事業奨励日です。社会福祉や医療、教育といった分野で教会はこの世で弱く小さくされている人々に寄り添う働きを担ってきました。わたしたち自身の日々の歩みも、世界を覆い尽くす闇の中に小さなゆっくり火をわずかに一つずつ、ゆっくりと点していくような歩みですが、必ずそれは全世界を照らす神様のみ光を映し出すものとなっていくことと信じて、今年のクリスマスを待ち望みたいと思います。

2021年12月5日

12/11(土) 南丹市民クリスマス@園部会堂のお知らせ

今年もクリスマスコンサートが園部会堂で開催されます。

日 時:12月11日(土)14時開演
場 所:丹波新生教会園部会堂
予 約:080-1264-0371
参加費:無料

演奏者

森本英希:リコーダー&フルート

吉竹百合子:チェンバロ

中野潔子:ヴィオラ・ダ・ガンバ

ぜひお越しください!

 

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