教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.17

宇田慧吾牧師

 今日は、ローマの信徒への手紙8章18-30節を読みます。

08:18現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。 08:19被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。 08:20被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。 08:21つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。 08:22被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 08:23被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。08:24わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 08:25わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

08:26同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 08:27人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。 08:28神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。 08:29神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。 08:30神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。

 前回はパウロの抱えていたジレンマがどのように解決されたかが語られていました。

 ポイントは「罪の赦し」「霊的な支え」「幼子のように神に頼る」でした。

今回は「苦しみの意味」がテーマです。

パウロはキリストの救いを経験した後にも、苦しみが消えたわけではありませんでした。

むしろ、苦しみの意味に目が開かれました。

パウロは苦しみの先にとても良いものがあると信じていました。

また、今ある苦しみも神の意志のもとにあると信じていました。

一般に苦しみはマイナスに捉えられますが、パウロはそうは捉えなかったようです。

逆に、忍耐や希望を生み出す源と捉えています。

聖書には次のような言葉があります。

「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる」詩編126:5
「悲しみは喜びに変わる」ヨハネ福音書16:20
「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」ルカ6:21
「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」ロマ5:3-4

苦しみや涙はそのままでは終わらず、喜びや希望につながっているというのが聖書の基本的な捉え方です。

また、パウロは「聖霊の助け」についても語っています。

「霊が弱い私を助けてくれる」
「どう祈るべきか分からない時にも、言葉にならないうめきを執り成してくれる」

一般に、困難は助け合いや支え合いを生みます。

信仰を持って生きる人の場合、困難な時、神さまが助け、支えてくれます。

「万事が益となる」とパウロが言っている通り、すべての苦しみは苦しみのままで終わらず、希望や忍耐や助け合いを生みます。

2020年5月3日

子どもの日・花の日

片岡広明牧師

 教会では「子どもの日・花の日」を設けて教会につながる子どもたちの信仰と心身の成長を覚えて神様の祝福を祈ることが行われてきました。教会の子どもの日・花の日は、1856年、アメリカ合衆国マサチューセッツ州チェルシーのアメリカ・ユニバーサリスト教会のチャールズ・H・レナード牧師が提唱して始まったと伝えられています。その年の6月にレナード牧師は子どものための特別礼拝をもち、礼拝の中で献児式、幼児祝福式が行われました。教会の「子どもの日」は、1866年にアメリカ・メソジスト教会でも取り入れられ、その後、会衆派教会や長老教会にも広まり、やがてこの習慣が全世界に広まっていったのでした。6月は夏休みに向かっていく時であり、9月から始まる一年間の学年の終わりを締めくくる意味がありました。また、この頃から夏の花が咲き始める花の季節でもあり、会堂を花でいっぱいに飾って礼拝が行われるようになり、「子どもの日・花の日」として礼拝が守られるようになりました。

 日本基督教団の教会暦・行事暦では従来からの習慣に倣い、6月第2日曜日を「子どもの日・花の日」としていますが、日本ではアメリカと異なり、6月は4月から始まる学年の途中であって締めくくりの意味がないこと、そして6月は日本では花が少ない時期でもあり、教会によっては子どもの日・花の日を5月の端午の節句の子どもの日に合わせて教会の「子どもの日・花の日」を行うようにしているところもあります。丹波新生教会でもこの数年、5月の子どもの日に近い日曜日を「子どもの日・花の日」としてきました。この日には礼拝に子どもを招き、花を持ち寄り、子どものための祈りを献げて礼拝を行います。今年は新型コロナウイルス感染拡大のため、子どもたちを教会に招くことができませんが、子どもたちの健やかな成長を神様が守り導いて下さいますように、祈りを合わせたいと思います。

5月2日礼拝メッセージ@園部会堂 「人生を見守ってくれている他者」

宇田慧吾牧師

 3週間、高校生たちと太宰治の『人間失格』を読んできました。読み終えると、どーんと大きなものが心にもたれかかってくるようで、やはり名作です。

 主人公の葉蔵には嘘をついてしまう癖がありました。本人は性癖と言っていますが、悪意でもなく、何かのためにということでもなく、とにかく自然と嘘を言ってしまうのでした。自分の本心を言えない人なのでした。

 本人も自分の問題を自覚していて、「もし神さまが、自分のような者の祈りでも聞いてくれるなら、いちどだけ、生涯にいちどだけでいい、祈る」と切実に問題の解決を願ってもいました。けれども結局、自分を偽って生きる癖は改まることなく、彼の弱さに惹かれて支えようとする女性たちを不幸にしていくのでした。

 葉蔵自身の生涯は最後まで希望を見出すことなく、ただ無常を悟ることだけが描かれています。一方、物語の最後はバーのマダムの印象的な言葉でしめくくられます。

「私たちの知ってる葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、…神さまみたいないい子でした」

 葉蔵は自分の人生を「人間失格」と見なしていました。一方、葉蔵に出会った周囲の人たちは弱く苦しんでいる彼を案外素直に愛していたようです。

 人生は自分一人の視点で完結するものではありません。自分では解決できない弱さや癖や苦しみが、出会いの中で愛や慈しみを生み出すことがあります。自分視点の良し悪しに囚われすぎず、時折、私を見守ってくれている他者の存在に心を向けたいものです。

 私を見守ってくれている他者は、身近には家族や人生の中で出会わされた人たちかと思います。聖書はそういった人間同士の支え合いを勧めると共に、神さまもまた私たちを見守ってくれている他者なのだということを語りかけています。神さまを信じて生きている人にとって、自分では自分を肯定できないような時にも、神さまが深い愛をもってそばにいてくれることはありがたいことです。

 今日の聖書箇所にはパウロが神さまからどのように見守ってもらっていたかが書かれています。パウロは救われてからも、「うめく」ような苦しみを持っていました。そのようなうめきの中で、パウロは神さまの支えを受け取っていました。

「同時に希望を持っています」
「忍耐して待ち望むのです」
「霊も弱いわたしたちを助けてくださいます」
「万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」

 パウロはうめくような苦しみも神さまのご計画の内にあって、希望につながっていると信じていました。このように自分の視点では苦しい出来事や状況を、神の視点、大きな視点、長い時間の中では「万事が益となる」と信じることを教会では「導きを信じる」と言います。

 導きを信じて生きてきた信仰の先達者たちは、人生の困難の中で希望を持ち、人を愛し、信じ続ける生き方の美しさを証ししてくれています。人生を支えてくれている他者の存在に心を向け、しなやかに粘り強く生きていきたいものです。

2020年5月3日の週報

●コロナウイルス感染拡大を防止するため、教会に集うことができません。礼拝の式次第を掲載いたしますので、各ご家庭で共に祈り、賛美しましょう!●

〇礼拝式次第 復活節第4主日
亀岡礼拝(亀岡会堂) 午前10時30分
司会:片岡広明牧師 奏楽:HymnPlayer      

前  奏          
招  き  詩編 143:8
頌  栄  24(たたえよ、主の民)
主の祈り  (讃美歌93-5A)
使徒信条  (讃美歌93-4A)
聖  書  ヨハネによる福音書
      21章15-25節 (新P.211)              
祈  祷         
讃  美  327(すべての民よ、よろこべ)
説  教   「行きたいところ、行きたくないところ」   
祈  祷        片岡広明牧師
讃  美  97(羊飼いの羊飼いよ)
献  金  
頌  栄  27(父・子・聖霊の)
祝  福        片岡広明牧師
報  告

船南礼拝(園部会堂) 午前10時30分
司会:宇田慧吾牧師 奏楽:今井恵一兄         

前  奏  奏 楽 者
招  き    ヨハネ21:18   司 会 者
頌  栄  24(たたえよ、主の民)
主の祈り  (讃美歌93-5A)
使徒信条  (讃美歌93-4A)
聖  書  ローマの信徒への手紙
      8章18-30節 (新P. 284)
祈  祷  司 会 者
讃  美  46(すべての人よ) 2回繰り返し
説  教  「私を見守ってくれている他者」
祈  祷        宇田慧吾牧師
讃  美  528 (あなたの道を)
献  金  感謝祈祷   当  番
頌  栄  27(父・子・聖霊の)
祝  福        宇田慧吾牧師
後  奏  奏 楽 者
報  告

○次週予告

●お知らせ

◇亀岡礼拝は5月10日以降も会堂での礼拝は牧師と牧師家族のみで行い、他の方々には非公開とします。船南礼拝は公開の礼拝に戻ります。但し礼拝順序の一部を省いて時間短縮することは継続します。

◇定例役員会   13:00   園部会堂
 昼食は用意しません。

◇船南朝夕合同礼拝のため、胡麻夕礼拝はありません。

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.16

宇田慧吾牧師

 今日は、ローマの信徒への手紙8章1-17節を読みます。

08:01従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 08:02キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。 08:03肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。 08:04それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。 08:05肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。 08:06肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。 08:07なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。 08:08肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。 08:09神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。 08:10キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。 08:11もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
08:12それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。 08:13肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。 08:14神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 08:15あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 08:16この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。 08:17もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

 

 前回は罪のジレンマについて語られていました。その内容は以下のようなものでした。

「善をなそうという意志はありますが、それを実行できない」
「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」

 パウロはそのようなジレンマを深く嘆きながらも、そこに解決の道を開いてくれる神への感謝を告白していました。

 今回はその解決の部分について語ります。

 パウロが語る解決は「罪の赦し」です。

「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」

 キリストに結ばれることで、パウロの生き方は大きく変わりました。

 かつてのパウロは誠実に神に従って生きようと願い、律法や割礼という言葉に顕れているように、倫理的高潔さや身分に重きを置いていました。

 その代償として、誇大な自尊心や行き過ぎた他者に対する裁きに陥ってしまっていました。

 けれどもキリストに出会ったパウロは、自分にも倫理的欠陥があることに気づかされました。また、身分に重きを置くことによって生じる差別にも気づかされました。

 そして、パウロは自分自身に根深い善悪のジレンマ、つまりは罪の問題があることを自覚しました。その時、同時に神の根本的な赦しを受け取りました。

 

 今回の箇所で興味深いと思うのは、罪の赦しについて語るときに、パウロが「霊」と「親子関係」に言及することです。

 霊についてパウロは、「霊に従って歩む」「神の霊によって導かれる」と表現しています。

 信仰を持って生きている人にとっては共感が容易かと思います。神の願いから離れがちな自分の弱さを自覚したうえで、祈りの中で神の思いを求め、それに従う生き方です。それでも、自分の選択が的外れな結果となることもありますが、最終的には全てが神の導きの内にあると信頼することができます。

 パウロはかつて、「律法に従って歩む」人でしたが、今は「霊に従って歩む」人に変えられました。

 

 またパウロは「神の子とする霊を受けた」「この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」とも表現しました。

 パウロの中での神さまとの関係が、主従関係から親子関係に変えられたようです。

 かつてのパウロは正しさにやや偏りがありました。自分を律する厳しい生活をし、同時に他者を厳しく裁き、ある時には正しさを守るために人を殺めました。

 そういうパウロが自らの拠り所である正しさを手放した時に、新たな拠り所となったのが神さまとの親子関係でした。

 パウロの中で神さまの顔が変わったことが伝わってきます。

 僕(しもべ)を規律する主人ではなく、わが子を愛する親の顔に変わったようです。

 「アッバ、父よ」という呼び方は、キリストが好んだ神の呼び方です。アッバはヘブライ語で「パパ、おとうちゃん」という意味です。

 神に向かって「おとうちゃん」と馴れ馴れしく呼びかけるキリストをパウロの属するファリサイ派の人たちは批判していました。

 一方でキリストは、十字架で亡くなる前夜の一番辛いときにも「アッバ」と呼びかけ、祈っていました。

 キリストにとってそうであったように、パウロにとっても神さまが包んでくれている存在に変わったようです。

2020年4月26日

4月26日礼拝メッセージ@園部会堂 「信仰を養う生活習慣」

宇田慧吾牧師

 親愛なる皆さま、おはようございます。各家庭での礼拝となって2週目を迎えますが、いかがおすごしでしょうか。ライブ配信での礼拝を自宅にて守っている方、ご夫婦で礼拝を守ることができたという方、いくつかの嬉しい知らせを聞いています。教会内では、老人ホームに入居されている方に心配りをしてくださった方もおられたようです。

 私自身はいくつかの用事がキャンセルになった程度でいつも通りの生活をしています。4月からは妻が仕事復帰したので、週3日は娘の子守りをしながら事務作業や応接をしています。娘が生まれる前に今後の家庭の方針を妻と相談していくつか決め事をしたことがありました。その中の一つに食前のお祈りがありました。「この食事を感謝していただきます。アーメン」という簡単なお祈りを娘がお腹の中で耳が聞こえるようになった頃から始めました。1歳3か月を迎える最近は、自分から手を合わせて、「メン!」と言えるようになりました。

 私自身、物心ついた頃には家族でそのような食前のお祈りをしていました。18歳で人生に深く悩んだ時、教会を思い出し、自然にお祈りすることができたのは、長い間続けられた食前のお祈りのおかげだったように思います。

 先日、宗教学者の小原克博さんが「信仰は常時に養い、非常時にものをいう」と話しておられました。非常時や困った時だけでなく、日頃から信仰を養う生活習慣を身に着けておきたいものです。

 今日の聖書箇所からも信仰を養う生活習慣についてヒントを得ておきたいと思います。初めに、ポイントとなる言葉を挙げます。

「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることがありません」8:1
「霊に従って歩む」8:4
「神の霊によって導かれる」8:14
「神の子とする霊を受けた」8:15
「この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶ」8:16

 パウロはキリストに結ばれることで罪の赦しを受け取ることができました。通常、自分の罪を責め立てる相手には心を閉ざすものかと思います。パウロは十字架にかかり死んで復活したキリストに出会うことで、神さまは自分の罪を責めないということを知りました。逆に、自分の罪の責任を肩代わりして、痛みを引き受けてくれたということを知りました。自分のために傷ついてくれたキリストにパウロは心を開くようになりました。

 キリストに心を開いたパウロは、聖霊に従って生きるようになりました。具体的に言えば、祈りの中で神さまの思いを確かめ、自分の思いではなく神さまの思いに従って生きるようになりました。また、自分の思いに基づく選択より、神の導きに信頼するようになりました。

 導きに信頼するようになったパウロは、神を「アッバ、父よ」と呼ぶようになりました。「アッバ」は「パパ、おとうちゃん」という意味でキリストが好んだ呼び方です。パウロにとって神さまが、忠実に従うべき主人というだけでなく、幼子が素直な信頼をもって頼る親のような存在になったことがうかがえます。

 三つのポイントがありました。
・神さまに心を開く
・聖霊に従う
・幼子のように神さまに頼る
 この三つ、心にあるでしょうか。

2020年4月26日の週報

コロナウイルス感染拡大を防止するため、教会に集うことができません。礼拝の式次第を掲載いたしますので、各ご家庭で共に賛美し祈りましょう!●

○復活節第3主日礼拝 労働聖日
●亀岡礼拝(亀岡会堂) 午前10時30分
司会:片岡広明牧師 奏楽:HymnPlayer

前  奏           
招  き      詩編 89:16
頌  栄  24(たたえよ、主の民)
主の祈り  (讃美歌93-5A)
使徒信条  (讃美歌93-4A)
聖  書  ヨハネによる福音書
      21章1-14節 (新P.211)              
祈  祷         
讃  美  324(主イエスはすすみて)
説  教   「みんな知っていた」   
祈  祷        片岡広明牧師
讃  美  79(みまえにわれらつどい)
献  金  
頌  栄  27(父・子・聖霊の)
祝  福        片岡広明牧師
報  告
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
●船南礼拝(園部会堂)  午前10時30分
司会:宇田慧吾牧師 奏楽:今井恵一兄
前  奏          奏 楽 者
招  き    マタイ28:5-7   司 会 者
頌  栄  24(たたえよ、主の民)
主の祈り  (讃美歌93-5A)
使徒信条  (讃美歌93-4A)
聖  書  ローマの信徒への手紙
       8章1-17節 (新P. 283)                
祈  祷           司 会 者
讃  美  46(すべての人よ) 2回繰り返し
説  教  「アッバ、父よ」
祈  祷         宇田慧吾牧師
讃  美  466 (山路こえて)
献  金  感謝祈祷     当  番
頌  栄  27(父・子・聖霊の)
祝  福         宇田慧吾牧師
後  奏           奏 楽 者
報  告

〇次週予告
【5月3日 復活節第4主日礼拝予告】

◇亀岡礼拝は会堂での礼拝は牧師と牧師家族のみで行い、他の方々には非公開とします。船南礼拝は牧師と出席可能な役員のみで行います。

○お知らせ
◇新型コロナウイルス感染拡大防止のため、亀岡礼拝は非公開で牧師家族のみで行います。船南は牧師と出席可能な役員のみで行います。礼拝順序を一部省いて時間を短縮して行います。この方法による礼拝は5月3日(日)まで継続します。この期間中は胡麻夕礼拝と須知礼拝は休止とします。5月10日(日)からは通常に戻す予定ですが、状況を見て判断します。木曜日の亀岡の祈祷会も4月中はお休みです。

◇教会に集うことができなくても、わたしたち丹波新生教会は信仰によって結ばれています。日曜日の礼拝の時間に合わせて、それぞれの場所でその日の聖書箇所を読み、神様を賛美し、心を一つにして祈りましょう。神様がすべての人の命を守って下さるように、そして再び相集い、共に礼拝を守れる日が来ますように祈りましょう。

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.15

宇田慧吾牧師

 今日は、ローマの信徒への手紙7章7-25節を読みます。

07:07では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。 07:08ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。 07:09わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、 07:10わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。 07:11罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。 07:12こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。

07:13それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。 07:14わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。 07:15わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。 07:16もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。 07:17そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 07:18わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。 07:19わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 07:20もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 07:21それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。 07:22「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、 07:23わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。 07:24わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。 07:25わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。

 前回は「文字に従う古い生き方ではなく、霊に従う新しい生き方」が勧められていました。

 それは簡潔に言えば、「律法に縛られず、神の愛を受け取って生きる」ということでした。神の愛はどんなものかと言えば、「忍耐」「寛容」「慈しみ」と言った言葉が使われていましたね。

 今回、パウロはまず、だからといって律法が悪いものというわけではないのですよと言います。

 律法や良心といった人を律するものは、パウロが経験したように他者を裁く癖や優越心を膨らませてしまうことがあります。けれども、それは律法そのものの問題ではなく、律法によって明らかになった「罪」の問題なのですよと指摘されています。

 そして、パウロは罪について自らの体感を語ります。

「わたしは自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」

「善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」

「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」

「わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」

 罪はパウロの心にジレンマを引き起こしていました。善を望みながらも、悪を行ってしまう。

パウロはそんな自分を「なんと惨めな人間なのでしょう」と嘆いています。

けれども、パウロはそう嘆いてすぐ「主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と告白しています。

罪のジレンマの問題はパウロの深い嘆きであるのと同時に、その問題に解決の道を与えてくれる神への感謝の源でもあったのでしょう。

2020年4月19日