《説教要旨》「クリスマスおめでとうございます」

宇田慧吾牧師


 クリスマスの出来事が「住民登録」の話で始まることをご存じでしょうか。キリストが生まれた頃、初代ローマ皇帝アウグストゥスにより住民登録の勅令が発せられました。アウグストゥスが皇帝となった後、ローマは千年に渡る歴史を築きました。

 そんな栄えた国の片隅で、人知れず赤ちゃんが生まれました。両親は例の住民登録のため100km以上に渡る旅の途中でした。生まれた赤ちゃんは飼い葉桶に寝かせられました。寝かせられたのがベッドでなかったのは「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったから」と書かれています。

 この赤ちゃんのもとに最初に訪れたのは羊飼いでした。彼らはその頃、野宿をしながら夜通し羊の番をしていました。「野宿で夜通し」とはいかにも大変そうな仕事です。

 どんなに国が栄えても、その片隅に、その夜に、様々な人が生きています。それは今も昔も同じことかと思います。聖書が伝えるクリスマスは、その片隅に、その夜に、救い主が来てくれたという出来事でした。

 ちなみに私が救われたのもクリスマスの頃でした。当時高校3年生の私は友人や家族にも恵まれ、とても充実した境遇にありました。その一方で、心の中に言いようのない孤独感や虚無感がありました。ある時、その心の寂しさに神さまが寄り添ってくれていることを感じ、救いを実感しました。

 皆さんの心には「片隅や夜」がありますか?

 もしあるなら幸せです。キリストはそこに来て、いつも共にいてくれます。


2021年12月

《創立(合同)50周年記念礼拝にあたり》

宇田慧吾牧師

 50年前、丹波新生教会が生まれる時に2冊の書物がしたためられました。亀岡教会の43年の歩みを綴る『亀岡教会史』、丹波教会の85年の歩みを綴る『開拓者と使徒たち』です。両書には口丹波伝道に献げられたキリスト者たちの生き生きとしたドラマが記録されています。

 『亀岡教会史』のまえがきには村上英司牧師の言葉が記されています。「私はこの教会史を手にして、心から喜んでいます。それは亀岡教会の43年の終わりの書ではないからです。この教会史を読んで、早く誰かこのあとを書いて見せてくださいと、ねだりたい気持ちにかられるからです」。

 『開拓者と使徒たち』には青年たちが発行していた「あめんどう」という雑誌の文章が引用されています。「記念事業…それは休火山が、かつて活火山であった時代をなつかしむ哀れなとむらいの祭事としか映らないのです。…私たちにとって必要なのは、かつての活火山をなつかしむ事ではなく、…山をも動かす信仰の力でこの活火山に再び火を真赤な溶岩を噴出させることなのです」。この言葉に対し、著者であり役員であった船越基氏は次のように応えました。「人間は誰でも弱い者である。不完全なものなのだ。みんなそれぞれに十字架を負ってなやみながら人生行路を歩み続けているのである。自分の弱さを自覚し、神によりすがって生きて行くこと、そのことに人生の意義があると信じて私は明日も教会の門をくぐるであろう。わたしは死火山でありたくない」。 モーセは40年の旅路の終わりに、ネボ山の山頂から約束の土地を見渡した時、「あなたは、そこに渡って行くことはできない」と主に命じられ、そこで葬られ、旅の行く末を次の世代に託しました。私たちの信仰の先達もまた、旅の行く末を次の世代に託しました。今も天で旅の行く末を見守り、支えてくれていることでしょう。

2020年9月27日

《説教要旨》「キリストに結ばれて、律法から解放される」 ローマの信徒への手紙 7章1-6節

宇田慧吾牧師

 この手紙を書いているパウロは、律法に従って生きるエリートでした。けれども、キリストに出会ってから、過去の自分を振り返ってみると、律法に「縛られていた」ことに気づきました。律法を貫徹しているという高慢な自尊心や他者に対する過度な裁きに縛られていたのでした。パウロはキリストとの出会いをきっかけに、その律法の縛りから解放されていきました。かつてのパウロは「正しく生きること」に一生懸命であった一方、自分の「正しくあれなさ」に向き合うことを見落としていたようです。パウロはキリストが十字架にかかった出来事と向き合う中で、神が自分の罪を赦し、その赦しのために十字架の痛みを引き受けてくれたことを知りました。その気づきをきっかけにパウロは律法に縛られる生き方から解放されていきました。

 その後の変化についてパウロは「死に至る実」を結ぶ生き方から「神に対して実を結ぶ」ように変えられたことを語っています。自分を正しい者として、自尊心を膨らませ、他者を厳しく裁いていくと、最後は自分の正しくなさに対する裁き、自己否定につながっていきます。逆に、自分の罪を受け入れ、忍耐や寛容や赦しをもって関わってくれている神や周囲の人の存在に目を開かれると、感謝の気持ちが生じてきます。

 特に想いをもって人と関わる時や自分と深く向き合う時には、相手を責める気持ちや「こんな自分ではいけない」という気持ちに縛られることがあります。その縛りからキリストは私たちを解放してくれます。

 2020年8月30日 亀岡会堂

《説教要旨》「偽りのない愛」ローマの信徒への手紙12章9-21節

宇田慧吾牧師

 先々週までは、どうして神さまに見捨てられたと感じるような経験をするのかが語られていました。それは次の三つを知るためとパウロは答えました。

①他者に支えられていることを知るため

②神に支えられていることを知るため

③神の計画・神の道を知るため(短期的にはマイナスに思えるような出来事も長い時間をかけて恵みに変えられる)

 先週からはテーマが変わり、神の恵みへの応え方が示されていました。まず「神に自分を献げて生きる」ことが勧められていました。また、自分を献げるうちに不思議と自分が変えられていくことが語られていました。

 実際にどのように変えられていくかが今日からしばらく続くテーマです。今日は「偽りのない愛」に生きられるように変えられていきますよと語られていました。偽りのない愛の例として、見返りを求めず、敵を赦し、他者に共感する愛が挙げられていました。そういった愛を心から実践することの難しさは自明です。自分の力でそのような真実の愛に生きることは難しいことですが、キリストにつながって生きるうちに自ずから変えていただくことができます。それは、そのような偽りのない愛をキリストから受け取ることができるからです。

2020年7月26日 園部会堂

《説教要旨》「沈黙して、神に向かう」詩編62編2節

宇田慧吾牧師

 「聖コロナ神学院」は卒業されましたか?新型コロナウィルスの経験によって何を学ぶことができましたか?私は日常への感謝を新たにすることができました。園部で3週間ぶりにみんなで集まって礼拝した時、こうして集まって礼拝できるのはありがたいことなんだなとしみじみ感じました。コロナの「せいで」ということももちろん多くありましたが、コロナの「おかげで」ということもあったことを忘れずに確認しましょう。

 本来なら5月17日は丹波新生教会の創立記念日で、記念礼拝がもたれるはずでした。50年間、神さまが導いてくれたという感謝と共に、教会に罪があり続けたことを反省しておきたいと思います。十数年前、丹波新生教会は「ややこしい教会」と噂されていたそうです。複数会堂で共同牧会という特殊さからくる競争心や人間的な選り好みが原因であったようです。競争ではなく共存を求めること、心情ではなく信仰によって受け入れ合うこと、これらが私たちの教会が祝福を受けるキーポイントであるようです。

 私もこの教会に来て3年が経ち、4年目は何を大切にすごそうかなと祈った時、「沈黙して、神に向かう」が示されました。詩編62編を詠んだダビデは王位を継承するという立場にあって、人間的なトラブルにたくさん巻き込まれました。そんなダビデは人の二面性からくる苦しみをなめつくすと共に、そういった人の争いは「空しいもの」「息よりも軽い」と言います。逆に、「沈黙して、神に向かう」ことには確かな支えがあることを詠っています。愛する兄弟姉妹の皆さん、「沈黙して、神に向かう」ぜひこの一年、一緒に実践しましょう。

2020年6月7日 亀岡会堂

5月2日礼拝メッセージ@園部会堂 「人生を見守ってくれている他者」

宇田慧吾牧師

 3週間、高校生たちと太宰治の『人間失格』を読んできました。読み終えると、どーんと大きなものが心にもたれかかってくるようで、やはり名作です。

 主人公の葉蔵には嘘をついてしまう癖がありました。本人は性癖と言っていますが、悪意でもなく、何かのためにということでもなく、とにかく自然と嘘を言ってしまうのでした。自分の本心を言えない人なのでした。

 本人も自分の問題を自覚していて、「もし神さまが、自分のような者の祈りでも聞いてくれるなら、いちどだけ、生涯にいちどだけでいい、祈る」と切実に問題の解決を願ってもいました。けれども結局、自分を偽って生きる癖は改まることなく、彼の弱さに惹かれて支えようとする女性たちを不幸にしていくのでした。

 葉蔵自身の生涯は最後まで希望を見出すことなく、ただ無常を悟ることだけが描かれています。一方、物語の最後はバーのマダムの印象的な言葉でしめくくられます。

「私たちの知ってる葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、…神さまみたいないい子でした」

 葉蔵は自分の人生を「人間失格」と見なしていました。一方、葉蔵に出会った周囲の人たちは弱く苦しんでいる彼を案外素直に愛していたようです。

 人生は自分一人の視点で完結するものではありません。自分では解決できない弱さや癖や苦しみが、出会いの中で愛や慈しみを生み出すことがあります。自分視点の良し悪しに囚われすぎず、時折、私を見守ってくれている他者の存在に心を向けたいものです。

 私を見守ってくれている他者は、身近には家族や人生の中で出会わされた人たちかと思います。聖書はそういった人間同士の支え合いを勧めると共に、神さまもまた私たちを見守ってくれている他者なのだということを語りかけています。神さまを信じて生きている人にとって、自分では自分を肯定できないような時にも、神さまが深い愛をもってそばにいてくれることはありがたいことです。

 今日の聖書箇所にはパウロが神さまからどのように見守ってもらっていたかが書かれています。パウロは救われてからも、「うめく」ような苦しみを持っていました。そのようなうめきの中で、パウロは神さまの支えを受け取っていました。

「同時に希望を持っています」
「忍耐して待ち望むのです」
「霊も弱いわたしたちを助けてくださいます」
「万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」

 パウロはうめくような苦しみも神さまのご計画の内にあって、希望につながっていると信じていました。このように自分の視点では苦しい出来事や状況を、神の視点、大きな視点、長い時間の中では「万事が益となる」と信じることを教会では「導きを信じる」と言います。

 導きを信じて生きてきた信仰の先達者たちは、人生の困難の中で希望を持ち、人を愛し、信じ続ける生き方の美しさを証ししてくれています。人生を支えてくれている他者の存在に心を向け、しなやかに粘り強く生きていきたいものです。

4月26日礼拝メッセージ@園部会堂 「信仰を養う生活習慣」

宇田慧吾牧師

 親愛なる皆さま、おはようございます。各家庭での礼拝となって2週目を迎えますが、いかがおすごしでしょうか。ライブ配信での礼拝を自宅にて守っている方、ご夫婦で礼拝を守ることができたという方、いくつかの嬉しい知らせを聞いています。教会内では、老人ホームに入居されている方に心配りをしてくださった方もおられたようです。

 私自身はいくつかの用事がキャンセルになった程度でいつも通りの生活をしています。4月からは妻が仕事復帰したので、週3日は娘の子守りをしながら事務作業や応接をしています。娘が生まれる前に今後の家庭の方針を妻と相談していくつか決め事をしたことがありました。その中の一つに食前のお祈りがありました。「この食事を感謝していただきます。アーメン」という簡単なお祈りを娘がお腹の中で耳が聞こえるようになった頃から始めました。1歳3か月を迎える最近は、自分から手を合わせて、「メン!」と言えるようになりました。

 私自身、物心ついた頃には家族でそのような食前のお祈りをしていました。18歳で人生に深く悩んだ時、教会を思い出し、自然にお祈りすることができたのは、長い間続けられた食前のお祈りのおかげだったように思います。

 先日、宗教学者の小原克博さんが「信仰は常時に養い、非常時にものをいう」と話しておられました。非常時や困った時だけでなく、日頃から信仰を養う生活習慣を身に着けておきたいものです。

 今日の聖書箇所からも信仰を養う生活習慣についてヒントを得ておきたいと思います。初めに、ポイントとなる言葉を挙げます。

「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることがありません」8:1
「霊に従って歩む」8:4
「神の霊によって導かれる」8:14
「神の子とする霊を受けた」8:15
「この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶ」8:16

 パウロはキリストに結ばれることで罪の赦しを受け取ることができました。通常、自分の罪を責め立てる相手には心を閉ざすものかと思います。パウロは十字架にかかり死んで復活したキリストに出会うことで、神さまは自分の罪を責めないということを知りました。逆に、自分の罪の責任を肩代わりして、痛みを引き受けてくれたということを知りました。自分のために傷ついてくれたキリストにパウロは心を開くようになりました。

 キリストに心を開いたパウロは、聖霊に従って生きるようになりました。具体的に言えば、祈りの中で神さまの思いを確かめ、自分の思いではなく神さまの思いに従って生きるようになりました。また、自分の思いに基づく選択より、神の導きに信頼するようになりました。

 導きに信頼するようになったパウロは、神を「アッバ、父よ」と呼ぶようになりました。「アッバ」は「パパ、おとうちゃん」という意味でキリストが好んだ呼び方です。パウロにとって神さまが、忠実に従うべき主人というだけでなく、幼子が素直な信頼をもって頼る親のような存在になったことがうかがえます。

 三つのポイントがありました。
・神さまに心を開く
・聖霊に従う
・幼子のように神さまに頼る
 この三つ、心にあるでしょうか。

4月19日礼拝メッセージ@園部会堂「人格の成熟、社会の成熟」

宇田慧吾牧師

 今週から3週間は牧師と限られた方だけで礼拝を守ることとなりました。新型コロナウィルスの感染拡大によって、各国の社会がチャレンジを受けているのと同じように、私たち各個人の精神もチャレンジを受けています。恐れに支配されず、このような時こそ他者への思いやりや互いに支え合う心、日常への感謝を新たにしましょう。

 重要な教訓はいつも非常時に心に刻まれるものです。私は前任地が福島県の教会でした。3.11の震災から3年後の着任でしたが、保育園では外遊びが制限されていて、園庭以外での野外活動は線量計で安全が確認された場所に限られていました。あぜ道などは除染作業の順番が遅かったため、その辺の雑草は触ってはいけないという意識を小学生なら当然に持っていました。京都に赴任してすぐ、幼稚園の子どもたちが野外で木の実を食べているのを見て驚愕したことを思い出します。震災後の福島で育った子どもたちは、自然の中で自由に思いきり遊ぶという経験が制限されました。それはとても残念なことでした。一方で、子どもたちのために保育園の先生たちは遊びの工夫に心を砕いていましたし、安全な遊び場の確保に努めていました。福島県外の方たちからは砂場の砂を送っていただいたり、保養キャンプの受け入れでお世話になったりもしました。きっと福島の子どもたちは、自然に触れられることのありがたさや困った時に助け合うことの大切さを身をもって知った人に育ち、これからの社会をつくってくれると信じています。

 非常時が重要な教訓を人の心に刻む一方で、非常時は人の心の弱さもあらわにします。ヨーロッパでペストが猛威をふるった時には、ユダヤ人が井戸に毒を入れたという噂が広がり、罪のない人たちが犠牲となったそうです。関東大震災の時にも同じように根も葉もない噂が広がり特定の人たちが犠牲になりました。こういった社会の一部の人たちに非常時の恐れが押しつけられることを歴史は経験してきました。非常時にはもともと人の心の中にある差別意識が噴き出すことがあります。今の日本の状況ではどうでしょうか。休業補償について特定の職業が対象外とされそうになりました。また、もし自分が感染したら、感染による症状よりも周囲の目が恐いという声も聞きます。

 非常時は、重要な教訓を心に刻むチャンスであり、同時に、人の心の弱さがあらわになるピンチでもあります。私たちは前者の道を行きましょう。また、自分の心に潜んでいる弱さを見つめ自覚する機会としましょう。

 今日の聖書箇所には次の言葉がありました。

「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ローマ7:19)。

 心の中にある善と悪のジレンマが語られています。私自身がこのジレンマに向き合い始めたのは15歳頃かと思います。自分の望まない悪に影響されることに激しく苦悶しました。善を望んで生きようとしても、悪を行ってしまうことに激しい自己嫌悪を抱きました。また、自分の中の問題を外に投げつけて、たくさんの人たちを批判し傷つけました。

 一方で、それでも善を望み、ジレンマを抱え続けることで、だんだんと自分の弱さを自覚し、弱さを操舵できるようにもなっていきました。自分の弱さと向き合う作業は苦しいものでもありましたが、いつも信仰が支えとなりました。

 ジレンマの苦しみを語るパウロも「私はなんと惨めな人間なのでしょう」と深く嘆いています。ただ興味深いことに、そう嘆いたすぐ後で「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と感謝の言葉を告白しています。パウロもまた善悪のジレンマを嘆く経験を重ねる中で、神の忍耐・寛容・慈しみ・赦しを受け取ってきたのでしょう。

 善悪のジレンマは人格を成熟させます。自分の弱さを自覚する前の子どもには天真爛漫という美しさがありますが、同時にひどく残酷な一面もあります。一方で、自分の心の中にある悪・弱さ・罪といった問題に向き合い、嘆き傷つきながらも、善く生きることを望んで生き続けてきた人には成熟した美しさがあります。成熟した人は他者の心に寄り添う思いやりや慈しみ、感謝の心が豊かです。

 今、私たちは個人の人格においても、社会そのものにおいても成熟の好機に立っています。恐れに縛られず、弱さに流されず、最善を選び、成熟に向かいましょう。他者を思いやる心、互いに支え合う心、日常への感謝を新たにしましょう。

《説教要旨》「キリストに結ばれて生きる」 ローマの信徒への手紙6章1-14節

宇田慧吾牧師

 先日、地域の青年と話す中で、親子関係から受けた心の傷に縛られていたことをようやく自覚できたという話がありました。彼は聖書に出会い、一人一人が尊い存在であるという神の愛を知ることで、そのような自分の気持ちに気づくことができたそうです。またその翌日、別の地域の青年との話の中で、親しい人との死別によって心にできた穴や寂しさは、自然の摂理として受け入れるだけでは癒されないと思うという話がありました。彼は聖書が語る永遠の命や復活を信じることで神が真実に癒してくれると話していました。

 確かに「心の傷」や「死別の空虚」は自覚や人間の力だけでは治癒できない場合もあるように思います。私も自分の心の中を見つめると、心を縛っている恐れや罪があることに気づきますが、自分の力だけではなかなか克服できないことがあります。

 そのような「心を縛る力」から自由になるにはどうしたらよいのでしょうか。パウロは「キリストと結ばれる」ことを勧めています。特にキリストの十字架と復活を共にすることを勧めています。パウロにとってそれは、罪に縛られた「古い自分」が死に「新しい命」に生き始めることでした。おそらくパウロにはキリストに出会って変えられた、新しくされた実感があったのでしょう。

 キリストに結ばれて一緒に生きようとパウロは私たちを誘っています。キリストと一緒に生きていきたいと私は思います。私の心を縛っている罪から自由にしてください、新しい命に生きさせてくださいと心から願います。

2020年3月24日 須知会堂

《説教要旨》「信頼はだんだんと深まる」ローマの信徒への手紙4章1-12節

宇田慧吾牧師

 先日、予期せぬ困難な出来事に立ち合うことがありました。その時、神さまの御手の内にあることを信じつつも、心の中には不安や疑いもありました。そういった気持ちが今回の聖書箇所を読む中で変えられていく経験をしました。

 今回の聖書箇所では、パウロが「信じることによって救われる」ということをアブラハムとダビデを例に挙げて語っています。

アブラハムは「信仰の父」と呼ばれ、神に従順に従った姿が多く描かれています。そんなアブラハムでも恐れからか神に委ねきれず、自分の策を巡らして、愚かしい行動をしたこともありました(創12:10-20)。結局その時にも、神に助けられることで、神への信頼を深めたようです。その後の場面では、平気で損な選択を受け入れたり、危険な出来事にも勇敢に立ち向かったりしています。

 また、ダビデも敬虔な人物であり一国の王でもありましたが、ひどく恥ずかしい失敗も経験しました(サム下11:1-27)。それでもダビデが誠実であったのは、自分の非を素直に認め、神に罪を打ち明け、赦しを求めたことでした。ダビデによる詩編32編には「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は」とあります。

 アブラハムやダビデは、神に助けられる経験や赦される経験を重ねることで、神への信頼を養ったようです。パウロもまた時間をかけてキリストに出会いました。私も支えられる経験や赦される経験を重ねることで、神への信頼を深めていきたいと思わされました。

2020年2月23日 園部会堂