4月19日礼拝メッセージ@園部会堂「人格の成熟、社会の成熟」

宇田慧吾牧師

 今週から3週間は牧師と限られた方だけで礼拝を守ることとなりました。新型コロナウィルスの感染拡大によって、各国の社会がチャレンジを受けているのと同じように、私たち各個人の精神もチャレンジを受けています。恐れに支配されず、このような時こそ他者への思いやりや互いに支え合う心、日常への感謝を新たにしましょう。

 重要な教訓はいつも非常時に心に刻まれるものです。私は前任地が福島県の教会でした。3.11の震災から3年後の着任でしたが、保育園では外遊びが制限されていて、園庭以外での野外活動は線量計で安全が確認された場所に限られていました。あぜ道などは除染作業の順番が遅かったため、その辺の雑草は触ってはいけないという意識を小学生なら当然に持っていました。京都に赴任してすぐ、幼稚園の子どもたちが野外で木の実を食べているのを見て驚愕したことを思い出します。震災後の福島で育った子どもたちは、自然の中で自由に思いきり遊ぶという経験が制限されました。それはとても残念なことでした。一方で、子どもたちのために保育園の先生たちは遊びの工夫に心を砕いていましたし、安全な遊び場の確保に努めていました。福島県外の方たちからは砂場の砂を送っていただいたり、保養キャンプの受け入れでお世話になったりもしました。きっと福島の子どもたちは、自然に触れられることのありがたさや困った時に助け合うことの大切さを身をもって知った人に育ち、これからの社会をつくってくれると信じています。

 非常時が重要な教訓を人の心に刻む一方で、非常時は人の心の弱さもあらわにします。ヨーロッパでペストが猛威をふるった時には、ユダヤ人が井戸に毒を入れたという噂が広がり、罪のない人たちが犠牲となったそうです。関東大震災の時にも同じように根も葉もない噂が広がり特定の人たちが犠牲になりました。こういった社会の一部の人たちに非常時の恐れが押しつけられることを歴史は経験してきました。非常時にはもともと人の心の中にある差別意識が噴き出すことがあります。今の日本の状況ではどうでしょうか。休業補償について特定の職業が対象外とされそうになりました。また、もし自分が感染したら、感染による症状よりも周囲の目が恐いという声も聞きます。

 非常時は、重要な教訓を心に刻むチャンスであり、同時に、人の心の弱さがあらわになるピンチでもあります。私たちは前者の道を行きましょう。また、自分の心に潜んでいる弱さを見つめ自覚する機会としましょう。

 今日の聖書箇所には次の言葉がありました。

「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ローマ7:19)。

 心の中にある善と悪のジレンマが語られています。私自身がこのジレンマに向き合い始めたのは15歳頃かと思います。自分の望まない悪に影響されることに激しく苦悶しました。善を望んで生きようとしても、悪を行ってしまうことに激しい自己嫌悪を抱きました。また、自分の中の問題を外に投げつけて、たくさんの人たちを批判し傷つけました。

 一方で、それでも善を望み、ジレンマを抱え続けることで、だんだんと自分の弱さを自覚し、弱さを操舵できるようにもなっていきました。自分の弱さと向き合う作業は苦しいものでもありましたが、いつも信仰が支えとなりました。

 ジレンマの苦しみを語るパウロも「私はなんと惨めな人間なのでしょう」と深く嘆いています。ただ興味深いことに、そう嘆いたすぐ後で「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と感謝の言葉を告白しています。パウロもまた善悪のジレンマを嘆く経験を重ねる中で、神の忍耐・寛容・慈しみ・赦しを受け取ってきたのでしょう。

 善悪のジレンマは人格を成熟させます。自分の弱さを自覚する前の子どもには天真爛漫という美しさがありますが、同時にひどく残酷な一面もあります。一方で、自分の心の中にある悪・弱さ・罪といった問題に向き合い、嘆き傷つきながらも、善く生きることを望んで生き続けてきた人には成熟した美しさがあります。成熟した人は他者の心に寄り添う思いやりや慈しみ、感謝の心が豊かです。

 今、私たちは個人の人格においても、社会そのものにおいても成熟の好機に立っています。恐れに縛られず、弱さに流されず、最善を選び、成熟に向かいましょう。他者を思いやる心、互いに支え合う心、日常への感謝を新たにしましょう。