私たちは、自分の弱さに気づいたとき、「こんな自分には無理だ」と自信を失うことがあります。
けれども聖書には、自分の弱さを深く知った人に、なお大切な役割を託された物語があります。
神は、私たちが完璧だから信頼してくださるのではありません。弱さを抱えた私たちに、「それでも、わたしについてきなさい」と語りかけてくださいます。
自分の力に自信が持てないときも、神の信頼は変わりません。私たちは、弱さを抱えたまま、神と共に歩んでいくことができるのです。

日本キリスト教団丹波新生教会の新着情報ブログです
私たちは、自分の弱さに気づいたとき、「こんな自分には無理だ」と自信を失うことがあります。
けれども聖書には、自分の弱さを深く知った人に、なお大切な役割を託された物語があります。
神は、私たちが完璧だから信頼してくださるのではありません。弱さを抱えた私たちに、「それでも、わたしについてきなさい」と語りかけてくださいます。
自分の力に自信が持てないときも、神の信頼は変わりません。私たちは、弱さを抱えたまま、神と共に歩んでいくことができるのです。
私たちは、目の前にいる人を見ても、関わらずに通り過ぎることがあります。
しかし、ある人は傷ついた人を「見て、近づき」、その人を助けました。
大切なのは、「誰が私の隣人なのか」と線を引くことではありません。
目の前の人に心を開き、その人の隣に立つことです。
イエス・キリストは私たちに語ります。
「行って、あなたも同じようにしなさい」。
誰かを選んで愛するのではなく、出会った人の隣人になる。
その一歩を、今日も踏み出してみませんか。
私たちは、自分の願いとは異なる神の選択に戸惑うことがあります。なぜ神はこのようにされるのか。答えが分からず、心にジレンマが残ることもあります。
ヨナもまた、神の選択に怒りました。しかし神は、ニネベの人々を憐れむご自身の思いを語られました。
神の視点は、私たちには見えないことがあります。それでも、神の御心を尋ねながら歩む中で、少しずつその思いを知っていくことができます。今は分からないことも、神と共に歩む中で、やがて意味を見いだせるのかもしれません。
私たちは、自分の問題ほど気づきにくいものです。他人の間違いは見えても、自分自身の姿は見えないことがあります。
だからこそ、私たちには、率直に語りかけてくれる他者が必要です。その言葉を通して、自分自身と向き合わされることがあります。
自分の弱さや過ちを認めるのは、決して簡単ではありません。しかし、「これが私の問題です」と認めるところから、新しい歩みが始まります。神は、ありのままの私たちを憐れみ、受け止めてくださいます。
モーセは、過去の失敗から逃れ、異国の地で静かな生活を送っていました。しかし、神は燃える柴の中から「モーセ、モーセ」とその名を呼ばれます。
神が与えられた使命は、かつてモーセが自分の力で果たそうとして失敗したものでした。神はその使命を果たすために、能力ではなく、「わたしはあなたと共にいる」という約束を与えました。その臨在はにモーセを支え続けました。
私たちもまた、過去の失敗や不安によって人生から逃げていく時があるかもしれません。しかし神は私たちに呼びかけます。そして「わたしはあなたと共にいる」と約束します。
モーセは神からの呼びかけに対して「はい、わたしはここにおります」と応えました。人生の重要な転換は、自分の強さではなく、神の呼びかけに「はい」と応えるところから始まります。
人生には、神さまの祝福が見えなくなる夜があります。
将来への不安や、大切な人との別れ、思いがけない出来事の中で、「神さまは本当に共にいてくださるのだろうか」と感じることがあるかもしれません。
創世記32章には、そのような夜を過ごしたヤコブの姿が描かれています。
兄エサウとの再会を前に恐れに包まれたヤコブは、神と格闘し、「祝福してくださるまで離しません」と訴えました。
神はすぐに恐れを取り去られたわけではありません。
ヤコブは足を引きずる体となり、なお兄のもとへ向かいます。
しかし、その歩みは以前とは違いました。
自分の力ではなく、神に信頼して歩む者へと変えられていたのです。
主イエスも十字架の上で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。
それでも神は復活という、人の想像を超えた仕方で応えてくださいました。
私たちにも、祝福が見えない夜があります。
しかし、そのような時にも神は私たちに向き合い、共に歩み、前へ進む力を与えてくださいます。
ヤコブのように、「祝福してくださるまで離しません」と祈りながら、神を信頼して歩んでいきたいと思います。
私たちは力があると安心します。
知識があること、健康であること、お金があること、誰かに認められること。
そうした力に支えられて生きています。
けれども聖書は、不思議なことに、十字架につけられたキリストの無力な姿の中に「神の力」が現れていると言います。
私達にも自分の力ではどうにもならない無力な時があるかもしれません。
その時に初めて見えてくる力があります。
神の力とは、人が無力な時に、人を支え、生かし、救う愛の力です。
片岡広明牧師
アドベントの小さな光がふたつ輝いています。ろうそくの光はほんの小さな光ですが、闇の中では小さな光も豊かな輝きを放ちます。先週は久しぶりに聖餐に与りました。小さなひとかけらのパンと小さな杯によって、何にも換えがたい大きな生きる力を与えられるとは不思議なことです。
エレミヤは古代イスラエルの歴史の中でも南ユダ王国の末期からバビロン捕囚へと至る激動の時代を主の預言者として生きた人でした。エレミヤは涙の預言者と呼ばれます。エレミヤの預言者としての悲しみは、神様のみ言葉をどんなに力を込めてユダの人々に語っても、一人も耳を傾けようとする人がいなかったという孤独の悲しみでした。エレミヤはまことに小さくされた存在でした。しかしエレミヤの偉いところは、どんなに人々が神様のみ言葉を聞こうとしなくても、決して投げ出さず、諦めなかったことです。神様はエレミヤに、言葉を巻物に書き留めよと言われます。エルサレム神殿に出て行くことすら赦されていなかった、迫害の中にあったエレミヤですが、巻物を弟子に託して神様の言葉を人々に知らせようとしたのです。その巻物も悪逆非道な王に焼き捨てられてしまうのですが、それでもエレミヤは諦めず、二巻目の巻物の制作に取りかかり、それがエレミヤ書の言葉として残されていくのです。エレミヤの働きは、闇の中に小さな灯りを点すようなものでしが、やがてエレミヤが聞いた神様のみ言葉は後々にまで伝えられ、キリストの誕生にまで至る救いの歴史をつないでいくのです。
12月第1日曜日は社会事業奨励日です。社会福祉や医療、教育といった分野で教会はこの世で弱く小さくされている人々に寄り添う働きを担ってきました。わたしたち自身の日々の歩みも、世界を覆い尽くす闇の中に小さなゆっくり火をわずかに一つずつ、ゆっくりと点していくような歩みですが、必ずそれは全世界を照らす神様のみ光を映し出すものとなっていくことと信じて、今年のクリスマスを待ち望みたいと思います。
2021年12月5日
キリシタン武将を主人公とする「オペラ 内藤ジョアン」が上演されます。
内藤ジョアンは武力ではなく話し合いで解決することを重んじた武将で、ある時には丸腰で民へ渡り、和平に貢献したそうです。
晩年はキリシタン禁教令で弾圧を受け、フィリピンへと追放され没しました。そのような厳しい迫害に遭っても、ジョアンは己の信仰を貫いたそうです。
今回、内藤ジョアンを演じるのは、内藤ジョアンの末裔でバリトン歌手の内藤大さんです。内藤さんはジョアンという人物が遺してくれたメッセージを伝えようと、郷土の学校へも足を運び、こどもたちとも交流してこられました。
今回の公演には八木西小学校のこどもたちも合唱団として参加します。
会場:南丹市園部文化会館「アスエルそのべ」
日時:2021年10月1日(金)14:00と18:30
10月2日(土)14:00
入場料:一般3,000円 中学生以下1,000円
チケット購入先:南丹市商工会 0771-42-5380

