≪主の祈りの学び≫4「願わくは御名をあがめさせたまえ」

宇田慧吾牧師

主の祈りは6つの祈りで構成されています。前半の3つは神のための祈り。後半の3つは人間のための祈りです。その全体の前後に呼び かけと頌栄があります。

神のための祈りの一つ目が「願わくは御名をあがめさせたまえ」です。日本語の「あがめる」には「①きわめて尊いものとして敬う ②大事に扱う」の意味がありますが、この意味だけでは聖書の意味するところを十分に表してはいません。

原語を直訳すると「あなたの その 名前が 聖とされるように」です。英語では‛may your name be treated as holy’と訳されます。

「聖」‛holy’がキーワードです。まず第一に「聖」は「清い」と いう意味ではありません。「清い」は汚れなく美しいことですが、ここでの「聖」はそういった意味とは異なります。

「聖」は「区別する」という意味で、神と人を「別扱いする」こ とです。つまり、神と人間とを混同しないで、神は、神として、神 らしく扱うことです。

「願わくは御名をあがめさせたまえ」では、「御名をあがめさせ てください」と神に願うわけですから、わたしたちが謙虚に気をつけて神と人とを区別するということではありません。天の父ご自身がその区別をはっきりと示してくださいという祈りです。

話は変わりますが、教会にはインフレがあると言われます。言葉のインフレです。神の御名が乱用され、いちじるしく価値を失っている。使い古された紙幣のようにぞんざいにあつかわれ、垢がつき、べとべとになっている、と。

あまり批判的に受け取らなくても、わたしたちの言葉では天の父 を語りつくすことはできないという意味では、その通りだと思います。神と人とをはっきりと区別するのは、天の父ご自身です。キリスト者は福音を伝えるために語り働きますが、同時にいつも沈黙しているのがよいのです。人を天の父に出会わせ、人を救い、人に御名をあがめさせるのは、天の父ご自身なのですから。

《説教要旨》「下り道で気づく」ルカによる福音書24章13-35節

宇田慧吾牧師

 人生の大切な出会いは、いつも「下り道」にあったように思います。 以前、あるセミナーで講師の方が、自分の経歴を紹介した後、「裏経歴」 を話しました。(表?)経歴は東大卒、有名企業に就職、結婚、起業で成功。 一方、裏経歴は、浪人生活、リーマンショックの影響で解雇、離婚、借金。 それから彼は「裏経歴の経験が私を成長させてくれました」と語っていまし た。  人生の中の成功や輝かしい経歴は、もちろん人に自信や喜びを与えてくれ る良いものです。一方、人には隠しておきたい裏経歴もまた、場合によって は人生への深い気づきや真の意味での成長を人に与えてくれるものでもあり ます。

 聖書に描かれる人々も、成功や充実といった「上り道」ではなく、失意や 行き詰まりといった「下り道」で神に出会っています。今日の聖書の物語に 描かれている二人も同じでした。

 この二人が「上り道」でキリストにかけた期待は「力ある王」「勝利」で した。一方、「下り道」で彼らが気づいたのは、どんな時も変わらずキリス トが一緒にいてくれることでした。

 彼らが経験した通り、キリストは「下り道」を歩いている人の側に来て、 一緒に歩き、一緒に語らい、一緒に食事をして、心の目を開きます。二人の 心の目が開いた時、キリストの「その姿は見えなくなった」そうです。その 理由は、もう見えなくても大丈夫だからと言われます。

 私たちが「下り道」を歩く時、キリストが来てくれます。一緒に歩いてく れます。そして、心の目を開いてくれます。

2019年4月28日 園部会堂

≪主の祈りの学び≫3「天にまします我らの父よ」

宇田慧吾牧師

 主の祈りの最初の呼びかけは「苦悩に満ちた溜息と深い苦しみの中からの叫びとなり、同時に最後の希望となる」。 V.リュティ

 最後の希望となるのは、それが天への呼びかけだからです。天はわたしたちの心ではありません。天はわたしたちの外側にあります。 主の祈りがまず最初にわたしたちにさせることは、天に目を向けさせることです。自分を見つめることではなく、天を仰ぐことです。天にはわたしたちよりも視野が広く、配慮に富んだ父がいます。その父がわたしたちよりもはるかに行き届いた形で、万事を取り計らってくださっています。

 主の祈りが「我らの」祈りであることは幸いなことです。それはつまり、主の祈りは「我」の祈りではないということです。教会はキリストに招かれた人たちの共同体です。そこにはいろんな人がいます。考えが合う人も合わない人もいます。親切な人も不親切な人もいます。人と一緒にいるのが得意な人も得意でない人もいます。一方、共通しているのは、みんな天の父に愛されていること、互いに愛し合い、赦し合い、仕え合うことが期待されていることです。

 ボンヘッファーはこんなことを言ったそうです。「キリスト者は、自分では自分を助けることはできない…神の救いのみ言葉の担い手、宣教者としての兄弟を必要とする。…自分の心の中のキリストは、兄弟の言葉におけるキリストよりも弱いのである」。「我」でなく、「我ら」であることは尊いことです。キリストも「神の国はあなたがたの間にある」と言っています。

 天の父がどのような方であるかは、放蕩息子のたとえ(ルカ15:11-32)に書かれている通りです。天の父はわたしたちがイメージする一般的な父とは違っています。もう合わせる顔がない、わが子と呼ばれる資格はない、そううなだれる子どもであっても「父よ」と一言呼びかければ、走り寄って来て抱きしめてくれる父です。

 「アッバ、父よ」と祈る教会も増えているようです。「アッバ」はヘブライ語で「おとうちゃん、パパ」という意味です。キリストは天の父をアッバと呼びました。天の父への親しみと信頼が伝わってきます。わたしたちも信頼をもって「父よ」と呼びかけましょう。

〈説教要旨〉ルカによる福音書23章32-43節

宇田慧吾牧師

 キリストは十字架にかけられた時、「自分を救ってみろ」と罵られました。中でも一緒に十字架にかけられた犯罪人からは「救い主ではないか。だったら苦しんでいる私のことも救ってみろ!」と言われました。そのような罵りに対して、キリストは沈黙していました。

 現代にも同じような叫びがあるように思います。「神さま、どうして私を救ってくれないのですか」。「神さま、どうしてこの世の悪を取り除かないのですか」。

 この問いに対して聖書が語ることは、神はイエス・キリストによって答えたということです。イエス・キリストは、一緒に十字架につけられているもう一人の罪人に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言いました。どうして十字架刑に処せられているただ中で、楽園と言えるのでしょうか。

 聖書の伝えようとする救いは、私たちが一般にイメージしている救いとは異なります。私たちがイメージする救いは、苦しみや問題を取り除くという意味の救いですが、神の救いは苦しみを共にする救いです。

 クリスマスには、神はインマヌエル(私たちと共におられる神)であることを聖書から受け取りました。この受難節には、神が私たちの苦しみを共にしていることを受け取ります。イエス・キリストが十字架で苦しんだのは、私たちの苦しみを共にするためでした。また、そのような苦しみの中にあっても、神との心の絆が失われないことを証しするためでした。

 十字架で息を引き取る直前、キリストは「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と告白しました。キリストは深い苦しみの中でも神への信頼を失うことはありませんでした。この姿を見届けた百人隊長、群衆の心に不思議な変化が起こりました。

【キーワード】①神は私の苦しみを共にしている。
       ②苦しみの中で、他者の苦しみに寄り添う。
       ③苦しみの中で神に信頼し、すべてを委ねる。

2019年4月13日 園部会堂

祝 イースター!

片岡広明牧師

 イースターおめでとうございます。春のおとずれと共に、主イエスの復活を祝うイースターを迎えました。イースターと言ってすぐに思い浮かべるものがいくつかあります。イースターエッグ。たまごから新しい命が生まれます。ゆで卵を作ってきれいに色を塗ったり、シールを貼ったりして飾ります。イースターラビット。ウサギは子だくさんで、よく子どもを産むので、これも豊かな命の恵みを表します。そしてイースターリリー。イースターには白いゆりの花を生けます。あの小さくて固い球根の中から芽が出て、その小さな芽が少しずつ伸びて、大きく育って、やがて美しい花が開くのです。あんな小さな球根の中に大きく美しく咲く花の命が秘められているなんて、不思議としか言いようがありません。

 昔の讃美歌に、「うるわしの白百合」というイースターの歌がありました。とても美しい歌でした。「うるわしの白百合 ささやきぬ昔を イエス君の墓より いでましし昔を」「春に会う花百合 夢路よりめさめて かぎりなき生命に 咲きいずる姿よ」「冬枯れのさまより 百合しろき花野に いとし子を御神は 覚したもう今なお うるわしの白百合 ささやきぬ昔を 百合の花 百合の花 ささやきぬ昔を」。イースターは主の復活と共に、新しい命の芽生えを喜びたたえる日なのです。

≪主の祈りの学び≫2「ものおぼえわるく」

宇田牧師

 「わたしたちにも祈りを教えてください」。そんな弟子の一人の言葉に答えて、キリストは主の祈りを教えました。

 主の祈りはマタイによる福音書6章9-13節とルカによる福音書11章2-4節に書かれています。けれども、少しずつ言葉が異なっています。その理由について、「ルカの方がシンプルなため、原型に近い」と言われることがありますが、平野克己先生の説く「なかにはおぼえの悪い弟子がいて、祈りの言葉の一字一句まで正確に暗記することができなかったのかも」という珍説には妙な説得力があります。

 おぼえの悪い弟子は「主よ、ごめんなさい。また忘れてしまいました。『願わくは御名を崇めさせたまえ』の次はなんでしたか」と繰り返し尋ねたことでしょう。でもきっと、キリストが教えてくださったこの祈りは、一度でおぼえてすらすらとそらんずるようなものではなく、繰り返し繰り返し教わる方がよいのかもしれません。

 主の祈りはとっくに暗記して、何十年も祈っているが、言葉の意味は素通りしている。そんなケースは珍しくないと思います。主の祈りを祈る度に、キリストに教えていただく、そんな「おぼえのわるさ」を自覚することが実は肝心なのかもしれません。

 主の祈りの「おぼえにくさ」には理由があると言われます。それは、祈りの言葉のひとつひとつがわたしたちの自然な心の動きに逆らってくること、ぶつかってくることです。自分の名が栄えることを願う私。自分の思い通りになる世界を求める私。今日一日分の糧を神に求めず一生分の糧を貯蓄しようとする私。

 ルターは主の祈りの講解の中で「私は無にされるように」と繰り返し言いました。悪い意志だけでなく、善い意志も無にされるようにと言いました。主の祈りは「私」を育てる祈りではなく、「私」を無にする祈りです。

 弟子たちは寝食を共にする旅をしながら時間をかけて主の祈りを教わりました。わたしたちも時間をかけて主の祈りを教わり続けるのがよいようです。無理に「私」を削るのではなく、主の祈りを教わりながら「私」に気づき、キリストと歩調を合わせていきたいです。

〈説教要旨〉「冬の実り」ルカによる福音書20章9-19節

宇田牧師

4月9日 須知会堂

 こうして娘はすくすく成長しています。体重も5kgになって抱っこも重くなってきました。元気に大きくなってくれてありがたいことです。この2カ月は嬉しい出来事が多くありました。無事にHさんが洗礼式を迎えたり、こどもの居場所つくり活動をNPO法人化するための設立総会を無事に終えたり。一方で、少し忙しすぎたようでもあり、心はちょっと疲れ気味のようです。嬉しい出来事も何だか心の上を通り過ぎて行くような、ありがたいことをありがたいと心から感謝できないような、そんな気持ちで過ごしてきた2か月間でもありました。原因は明らかで、少し忙しすぎたのです(^^;

 でも、良かったと思うのは、そんな中でも一度も落ち込んだり心が折れたりすることはなかったことです。むしろ、そういう心の疲れの中で、信仰の支えを度々感じました。生きることの大変さを背負いながら、希望をもって生きる姿を示してくれた信仰の先輩たちが頭の中に何人か浮かびました。自分もこういうしんどさの中で信仰を持って生きることを重ねていくことで、後の人たちの支えになれるのかな、とも思いました。

 心から感謝できない、いただいている恵みを実感できない、そういう心の状態の時が誰にでもあると思います。そんな時こそ「冬の実り」を収穫しましょう。手放しで嬉しい絶好調の時には気づくことができない、冬にしか気づくことのできない支えや励ましがあります。この2か月は心の淋しい冬でもありましたが、支えと励ましも多くいただき、だんだんと春が近づいてきたようです。

≪主の祈りの学び≫1「はじめに」

宇田慧吾牧師

 亀岡の礼拝に行ったとき、4月から新しく来られている方が、主の祈りを暗唱していました。主日祈祷会でのことです。「もうおぼえたんですね」と声をかけると「使徒信条はまだですが」とのことでした。

 ついこの前までキリストを知らずにいた人が、教会に導かれ、礼拝に通い、聖書を読んで祈っている。そしてとうとう主の祈りをおぼえた。そんな風にキリストと出会い、絆を深めていくプロセスは、見ていてとても嬉しくなります。

 主の祈りを初めて「そら」で祈った日をおぼえていますか?教会学校で教わったという方はきっと習慣でおぼえたでしょう。一方、人生の途中で教会に出会ったという方には、初めて紙を見ず、目を閉じて主の祈りを祈ったときの感動があったかもしれません。

 自分がどちらの境遇にあったにせよ、今、あらためて初々しい気持ちで主の祈りを祈ることができたら、それはとても喜ばしいことです。

 礼拝中、讃美歌や聖書や祈りを通り過ぎて行くようなことがときどき(しばしば?)あります。わたしの場合「説教で何話そうかな・・・」なんてことで頭がいっぱいなときです。お恥ずかしいことに。

 こころをあわせて礼拝を大切にまもる。あまりにも当たり前で言うまでもないことかもしれません。でも、それが教会のいのちです。

 最近教会に来はじめた方だけでなく、わたしたちみんなが「キリストと出会い、絆を深めていくプロセス」の中にいます。そのためのひとつの工夫として、主の祈りの学びをご一緒にもてたらと思います。

 主の祈りは「福音全体の要約」とも言われます。そんなキリストが教えてくださった大切なお祈りを、学び、親しむ機会となればと願います。

新年度を迎えて

片岡広明牧師

 4月から2019年度が始まりました。2019年度年間聖句に「二人が地上で心を一つにして求めるなら、天の父はかなえてくださる。」(マタイ 18:19)が選ばれました。2019年度の年間聖句の選定にあたってこのみ言葉を示された時に私が思い巡らしていたのは、丹波新生教会の合同50年という節目の年を前にしているということでした。元々属していた教派が異なる二つの教会が合同して成立した丹波新生教会は、教派が異なるがゆえに抱えていたであろう考え方や神学的立場の違いを乗り越えて一つの教会となるべく、礼拝を共にし、祈りを合わせて歩んでまいりました。教会も人間の集まりですし、誤ることもありますでしょうし、人が集まれば集まった数だけの違いがあるものです。時には人との間に距離を感じることもあれば、乗り越えがたい壁を感じることもあったでしょう。そんな中、多くの困難な時を経て50年もの年月を一つの教会の仲間として共に歩んで来られたということは、なんという驚くべき神様の奇跡であろうかと思います。

 丹波新生教会は合同教会であると共に、今もなお、より確かな合同を目指して歩もうとする、合同しつつある教会なのだと思います。みんなで心を一つにして祈り、よき働きをなし、神様のみ心にかなう教会となることができますよう願いつつ、新年度の歩みを始めたいと思います。

子どもの居場所つくり活動の近況

宇田慧吾牧師

 園部会堂の集会室を地域の子どもたちに開放し始めて1年4か月が経ちました。最近は月にのべ300~400人の小中高校生が遊びに来ています。近隣の保護者の相談で始まった不登校の中学生2名の集まりも9カ月になりました。近隣中学校のスクールソーシャルワーカーの相談で始まった高校生2名の集まりも同じく9カ月になります。最近は地域の諸団体から相談を受けるようにもなりました。南丹地域は市内に比べて、不登校や引きこもりの子どもを支援する団体の数が少なく、またそのような子どもたちが勉強ぬきの居場所として過ごせる場所はほとんど無いのが現状です。この課題に向き合う中で、地域の子どもたちや保護者、学校、関係諸団体の方たちとの出会いをいただきました。最近は出会いに恵まれ過ぎたところもあり、牧師ひとりの活動としては対応しきれなくもなってきたので、地域の方たちと団体化することを決めました。その際、関係諸団体との連携を円滑にしていくためにNPO法人格を取得することにしました。教会は活動場所を提供することで、応援するという形になります。どうかこの活動が地域の子どもたちのために用いられることをお祈りください。