《説教要旨》「天にある喜び」ルカによる福音書15章1-10節

宇田慧吾牧師

 まずはお客様の紹介から。韓国から旅行中の二人です。今日の園部の礼拝に来ていたので、一緒にお昼を食べ、琴滝、みとき屋、温泉に行き、そしていま胡麻の礼拝に来ました。園部の礼拝後「どうして園部に来たの?」と訊いたら、「日本の地方を巡る旅」とのこと。こちらの彼は建築学を学んでいる大学生で、そちらの彼はダンサーです。さっき温泉で話していたのですが、彼は15歳の頃からダンスの仕事を始めました。18歳でニューヨークへ。ダンスの仕事とアルバイトをしながら、大学に行くお金を稼いだそうです。お父さんは小さい頃に亡くなられているとのこと。「たくさん努力したんですね」と言うと、「そうでもない。いつも天からお父さんが守ってくれているから、大学に必要なお金を稼ぐことなんてちっちゃなこと」と。でも、今はダンスの仕事を休んでいて、それというのは太ってしまったため。医者に行ったら、ストレスとの診断。休養のため韓国に戻ってきたところ、小学校からの友人の彼が「じゃあ、旅行でも行こうよ」と誘ってくれて、日本に来たとのこと。それで地方を巡る旅なんですね。今日は二人に出会うことができてとても嬉しいです。

 今日の聖書から受け取りたいことは、神さまのもとから迷い出てしまった時には、神さま自身が私を探しに来て、見つけ出し、連れ帰ってくれるということです。迷い出た羊も、見失われた銀貨も、自分の力で持ち主のもとに戻ったのではありませんでした。持ち主が探しに来て、見つけ出してくれたのでした。自分の力で神さまのもとに立ち帰れないような時がありますが、心配ありません。神さまがちゃんと迎えに来てくれます。そして、見つかったことを天で大喜びすると書かれています。

 あんまり日本語で長く話すと、二人がおいてきぼりになりますから、このへんで。最後に英語で少し話しますね。God loves me, but sometimes・・・

2019年7月7日胡麻会堂

《礼拝の聖書箇所から》ルカによる福音書8章40-56節

宇田慧吾牧師

 キリストが町に来た時、人々は「喜んで迎えた」「待ち望んでいた」と書かれています。迎えた人たちの期待感が伝わってきます。一方、自分はこの日曜日を「キリストを迎える」という期待感をもってここにいるだろうか問いかけられます。今、喜びをもって心にキリストを迎えましょう。

 キリストは神と人を愛して生き、十字架にかかり、この世の苦しみを深く経験しました。そのような絶望的な死の中にあるキリストを神は復活させました。どんな苦しみの中にあっても、どんな絶望の中にあっても、神さまは私たちを見捨てないことのしるしです。そのような福音を身をもって示したキリストを心にお迎えしましょう。

 今日の聖書ではキリストを迎えた人たちの中でも特に二人の人がクローズアップされています。一人は会堂長です。この人は12歳の娘が危篤にあり、キリストに助けを求めてきました。もう一人は12年間病気を患ってきた女性です。この人は病気を癒されたい一心で、医者に全財産を使ったものの癒されず、キリストに助けを求めてきました。

 この二人から学べることは、どんなに人徳や地位、財産があっても、人には動かせないことがあるということです。死や病気のことがここでは挙げられていますが、他にも心の健康や与えられた境遇なども自分の力だけでは解決することができない時があります。

 そういう苦しさの中にある二人にキリストがかけた言葉は次のようなものでした。「恐れることはない。ただ信じなさい」。「安心して行きなさい」。人生の中には自分の力だけでは解決不可能な問題が時折ありますが、聖書はそのような問題には神さま自身が応えることを伝えています。

 会堂長の危篤になった12歳の娘、12年間病気を患い全財産を使いつくした女性、おそらくこの二人は違った12年間を生きてきたと思います。順境であれ、逆境であれ、12年という歳月は聖書では神の御心の成就を示す数字です。私たちの人生にも、順境の時も逆境の時もありますが、神さまの定めた『時』があり、その日には神さま自身が私たちの動かし得ない問題に応えることを信じる人でありたいと思います。

 最後におまけ話です。先日、地域の人たちと麻雀をしていました。すごく強い方たちで、コテンパンにやられてしまったのですが、一人の方がこう言っていました。「麻雀で僕が見ている世界と宇田さんが見ている世界はぜんぜん違います。その違いを一言で言うと『なげやりにならないことです』」。彼が言うには、麻雀は運のゲームで、自分の調子が良くない時に投げやりになってしまうと運がめぐってきた時にそのチャンスを逃してしまうとのこと。逆境でもなげやりにならず、その『時』を待つことが大事だと教えてくれました。

 人生にも似たところがあるかもしれません。苦しい時や調子の悪い時になげやりになってしまうと、その『時』を見逃してしまうことも。苦しい時こそなげやりにならず、神さまに頼む人でありたいと思います。心にキリストを迎えましょう。

キーワード:「なげやりにならない」「頼む人」

2019年6月30日 亀岡会堂

《説教要旨》「神の招き・人の都合」ルカによる福音書14章15-24節

宇田慧吾牧師

 今日の聖書は宴会に招かれた人たちが自分の都合でその招待を断ってしまうお話でした。言葉通りに受け取るなら、宴会の招待は断らないように!という教訓になりますが、これは聖書であり、たとえ話です。

 招いているのは神さま、招かれているのは私たちです。毎日の生活の中で、神さまからの招きに応えられているだろうかと問いかけられます。招きを断った人たちの理由は、それぞれもっともらしいものでもありましたが、やや自分の都合にとらわれすぎているようにも思えます。

 今日は大阪から来てくれた青年がいて、朝早く園部に着いたので一緒に今日の聖書箇所を読んで分かち合いました。私が感じたことは、神さまの招きをないがしろにしているとまでは思わないけど、人生で初めて神さまの招きを感じた時に、応えようと思った時の気持ちに比べると、だんだんと惰性的になっているかもしれないということでした。

 また、彼は真剣に求道していた時代に、財布と毛布だけの持ち物で四国の山を歩いたそうです。その途中でたまたま出会った教会に2年間住み込んで奉仕をし、今の自分があるとのことです。

 今ここに集っている私たちも、神さまに初めて招かれた時があったかと思います。その時の神さまへの全くの信頼、すべてを委ねようと決意した気持ち、神さまの導きの内に安らぐ気持ち、そんな気持ちを思い出したいと思います。

2019年6月23日 園部会堂

《礼拝の聖書箇所から》ルカによる福音書24章36-43節

宇田慧吾牧師

 昨日は記念会があって、そのお宅がキリスト教と接点を持つようになった時のことをふりかえりました。今回の記念会で偲んだ方の祖父にあたる方が、近所の人たちと囲碁をしていたそうです。その中にお坊さんと牧師もいて、そこで牧師と接するうちに、洗礼を受けたいと思うようになりました。その方はお坊さんの所に行って、洗礼を受けたいけどよろしいですかとお伺いをたて、お坊さんも許してくださり、洗礼を受けたそうです。小さな集落でのことでもあったので、その後もお寺との関わりも丁寧にお続けになり、その結果、そのお寺の鐘には卍と十字架が並んで刻まれているそうです。

 「平和があるように」とキリストは言いました。和を保つことの大切さは、誰もが認めることですが、実際にそれを実践するのは簡単でない時もあります。互いに善意をもって関わっている時でさえ、心がすれちがったりすることも珍しいことではないと思います。

 キリストは「平和があるように」と言った後、自分の手と足を見せました。十字架にかかって復活した後の場面ですから、その手と足には釘打たれた跡があったことでしょう。この手足の穴は、神が人と和を保つためにご自身が深く傷つくことを選んだ印です。

 人と和を保とうする時には、忍耐が求められますし、深く傷つくこともあります。それは本当にしんどいことでもあります。お恥ずかしいことに、私自身はそのような時、心の壁をつくって他者を遠ざけたり、相手を責める言葉を心に並べて、自分の心を守ることしかできないことも少なくありません。和を保つため、ご自身が傷つくことを選んだキリストの僕として、私は神さまに申し訳ないと思います。

 いつも常にというのは難しいかもしれませんが、大切な時、ご自身が傷つくことを選んだキリストの生き方に思い起こしたいと思います。

キーワード:「平和があるように」
      「手と足の傷」
      「和を保つため自分が傷つくことを選んだ」

2019年5月5日 園部会堂

《説教要旨》「平和があるように」ルカによる福音書24章36-43節

片岡広明牧師

 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 ルカ24:36

 5月5日は子どもの日、端午の節句です。子どもたちの健やかな成長を願い、鯉のぼりや鎧兜を飾ります。昔は子どもが元気に育って大人になる割合は今よりもずっと低く、幼児のうちに亡くなる子どもたちが大勢いました。世界には今でも乳幼児死亡率の高い国々がいくつもあります。子どもたちの健やかな成長はみんなの願いなのです。

 教会では子どもの日・花の日の礼拝を行い、子どもたちの成長のために祈ります。子どもたちの心と体、そして信仰が神様によって守り導かれますようにと祈ります。幼い子どもたちには、この先、いくつもの試練や困難が待ち受けていることでしょう。そうした困難を乗り越えて生きる力を神様が子どもたちに賜りますようにと祈ります。神様は小さく弱い者たちをみ心に留めて下さるのです。

 今日の聖書箇所は、イースターの日の夕べ、弟子たちが集まっているところによみがえられたイエスが現れ、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃって、ご自身の復活を証しして下さった場面を伝えています。イエスは十字架に釘付けにされたその傷跡の残る手足を弟子たちにお示しになり、亡霊を見ているものと思って恐れる弟子たちに、紛れもなくわたしなのだと証しをなさり、主の復活を信じられないでいる弱い弟子たちを心熱く励まして下さったのでした。

 弟子たちの中には、朝早く主の墓に出かけて空になった主の墓を見た女性たちがおり、エマオ途上の道でイエスに出会った二人もいました。でもその者たちの証言を信じられなかった他の弟子たちは、信じたいけれども信じられないというもどかしさを抱えていました。そんな弱い弟子たちのために、イエスは彼らの前に来て下さり、彼らのために平和を祈って下さったのです。主イエスは弱い者たちを励まし、守り導いて下さいます。彼らが心を強くして主の御心に生きる者となることを心から願っておられます。幼い子どもたちもまた、小さく弱い存在です。主がわたしたちの幼い子どもたちをも守り導いて下さるように、子どもの日・花の日にあたり、祈りを合わせたいと思います。

2019年5月5日 亀岡会堂

《説教要旨》「下り道で気づく」ルカによる福音書24章13-35節

宇田慧吾牧師

 人生の大切な出会いは、いつも「下り道」にあったように思います。 以前、あるセミナーで講師の方が、自分の経歴を紹介した後、「裏経歴」 を話しました。(表?)経歴は東大卒、有名企業に就職、結婚、起業で成功。 一方、裏経歴は、浪人生活、リーマンショックの影響で解雇、離婚、借金。 それから彼は「裏経歴の経験が私を成長させてくれました」と語っていまし た。  人生の中の成功や輝かしい経歴は、もちろん人に自信や喜びを与えてくれ る良いものです。一方、人には隠しておきたい裏経歴もまた、場合によって は人生への深い気づきや真の意味での成長を人に与えてくれるものでもあり ます。

 聖書に描かれる人々も、成功や充実といった「上り道」ではなく、失意や 行き詰まりといった「下り道」で神に出会っています。今日の聖書の物語に 描かれている二人も同じでした。

 この二人が「上り道」でキリストにかけた期待は「力ある王」「勝利」で した。一方、「下り道」で彼らが気づいたのは、どんな時も変わらずキリス トが一緒にいてくれることでした。

 彼らが経験した通り、キリストは「下り道」を歩いている人の側に来て、 一緒に歩き、一緒に語らい、一緒に食事をして、心の目を開きます。二人の 心の目が開いた時、キリストの「その姿は見えなくなった」そうです。その 理由は、もう見えなくても大丈夫だからと言われます。

 私たちが「下り道」を歩く時、キリストが来てくれます。一緒に歩いてく れます。そして、心の目を開いてくれます。

2019年4月28日 園部会堂

〈説教要旨〉ルカによる福音書23章32-43節

宇田慧吾牧師

 キリストは十字架にかけられた時、「自分を救ってみろ」と罵られました。中でも一緒に十字架にかけられた犯罪人からは「救い主ではないか。だったら苦しんでいる私のことも救ってみろ!」と言われました。そのような罵りに対して、キリストは沈黙していました。

 現代にも同じような叫びがあるように思います。「神さま、どうして私を救ってくれないのですか」。「神さま、どうしてこの世の悪を取り除かないのですか」。

 この問いに対して聖書が語ることは、神はイエス・キリストによって答えたということです。イエス・キリストは、一緒に十字架につけられているもう一人の罪人に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言いました。どうして十字架刑に処せられているただ中で、楽園と言えるのでしょうか。

 聖書の伝えようとする救いは、私たちが一般にイメージしている救いとは異なります。私たちがイメージする救いは、苦しみや問題を取り除くという意味の救いですが、神の救いは苦しみを共にする救いです。

 クリスマスには、神はインマヌエル(私たちと共におられる神)であることを聖書から受け取りました。この受難節には、神が私たちの苦しみを共にしていることを受け取ります。イエス・キリストが十字架で苦しんだのは、私たちの苦しみを共にするためでした。また、そのような苦しみの中にあっても、神との心の絆が失われないことを証しするためでした。

 十字架で息を引き取る直前、キリストは「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と告白しました。キリストは深い苦しみの中でも神への信頼を失うことはありませんでした。この姿を見届けた百人隊長、群衆の心に不思議な変化が起こりました。

【キーワード】①神は私の苦しみを共にしている。
       ②苦しみの中で、他者の苦しみに寄り添う。
       ③苦しみの中で神に信頼し、すべてを委ねる。

2019年4月13日 園部会堂

〈説教要旨〉「冬の実り」ルカによる福音書20章9-19節

宇田牧師

4月9日 須知会堂

 こうして娘はすくすく成長しています。体重も5kgになって抱っこも重くなってきました。元気に大きくなってくれてありがたいことです。この2カ月は嬉しい出来事が多くありました。無事にHさんが洗礼式を迎えたり、こどもの居場所つくり活動をNPO法人化するための設立総会を無事に終えたり。一方で、少し忙しすぎたようでもあり、心はちょっと疲れ気味のようです。嬉しい出来事も何だか心の上を通り過ぎて行くような、ありがたいことをありがたいと心から感謝できないような、そんな気持ちで過ごしてきた2か月間でもありました。原因は明らかで、少し忙しすぎたのです(^^;

 でも、良かったと思うのは、そんな中でも一度も落ち込んだり心が折れたりすることはなかったことです。むしろ、そういう心の疲れの中で、信仰の支えを度々感じました。生きることの大変さを背負いながら、希望をもって生きる姿を示してくれた信仰の先輩たちが頭の中に何人か浮かびました。自分もこういうしんどさの中で信仰を持って生きることを重ねていくことで、後の人たちの支えになれるのかな、とも思いました。

 心から感謝できない、いただいている恵みを実感できない、そういう心の状態の時が誰にでもあると思います。そんな時こそ「冬の実り」を収穫しましょう。手放しで嬉しい絶好調の時には気づくことができない、冬にしか気づくことのできない支えや励ましがあります。この2か月は心の淋しい冬でもありましたが、支えと励ましも多くいただき、だんだんと春が近づいてきたようです。