《礼拝の聖書箇所から》ルカによる福音書24章36-43節

宇田慧吾牧師

 昨日は記念会があって、そのお宅がキリスト教と接点を持つようになった時のことをふりかえりました。今回の記念会で偲んだ方の祖父にあたる方が、近所の人たちと囲碁をしていたそうです。その中にお坊さんと牧師もいて、そこで牧師と接するうちに、洗礼を受けたいと思うようになりました。その方はお坊さんの所に行って、洗礼を受けたいけどよろしいですかとお伺いをたて、お坊さんも許してくださり、洗礼を受けたそうです。小さな集落でのことでもあったので、その後もお寺との関わりも丁寧にお続けになり、その結果、そのお寺の鐘には卍と十字架が並んで刻まれているそうです。

 「平和があるように」とキリストは言いました。和を保つことの大切さは、誰もが認めることですが、実際にそれを実践するのは簡単でない時もあります。互いに善意をもって関わっている時でさえ、心がすれちがったりすることも珍しいことではないと思います。

 キリストは「平和があるように」と言った後、自分の手と足を見せました。十字架にかかって復活した後の場面ですから、その手と足には釘打たれた跡があったことでしょう。この手足の穴は、神が人と和を保つためにご自身が深く傷つくことを選んだ印です。

 人と和を保とうする時には、忍耐が求められますし、深く傷つくこともあります。それは本当にしんどいことでもあります。お恥ずかしいことに、私自身はそのような時、心の壁をつくって他者を遠ざけたり、相手を責める言葉を心に並べて、自分の心を守ることしかできないことも少なくありません。和を保つため、ご自身が傷つくことを選んだキリストの僕として、私は神さまに申し訳ないと思います。

 いつも常にというのは難しいかもしれませんが、大切な時、ご自身が傷つくことを選んだキリストの生き方に思い起こしたいと思います。

キーワード:「平和があるように」
      「手と足の傷」
      「和を保つため自分が傷つくことを選んだ」

2019年5月5日 園部会堂

《説教要旨》「平和があるように」ルカによる福音書24章36-43節

片岡広明牧師

 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 ルカ24:36

 5月5日は子どもの日、端午の節句です。子どもたちの健やかな成長を願い、鯉のぼりや鎧兜を飾ります。昔は子どもが元気に育って大人になる割合は今よりもずっと低く、幼児のうちに亡くなる子どもたちが大勢いました。世界には今でも乳幼児死亡率の高い国々がいくつもあります。子どもたちの健やかな成長はみんなの願いなのです。

 教会では子どもの日・花の日の礼拝を行い、子どもたちの成長のために祈ります。子どもたちの心と体、そして信仰が神様によって守り導かれますようにと祈ります。幼い子どもたちには、この先、いくつもの試練や困難が待ち受けていることでしょう。そうした困難を乗り越えて生きる力を神様が子どもたちに賜りますようにと祈ります。神様は小さく弱い者たちをみ心に留めて下さるのです。

 今日の聖書箇所は、イースターの日の夕べ、弟子たちが集まっているところによみがえられたイエスが現れ、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃって、ご自身の復活を証しして下さった場面を伝えています。イエスは十字架に釘付けにされたその傷跡の残る手足を弟子たちにお示しになり、亡霊を見ているものと思って恐れる弟子たちに、紛れもなくわたしなのだと証しをなさり、主の復活を信じられないでいる弱い弟子たちを心熱く励まして下さったのでした。

 弟子たちの中には、朝早く主の墓に出かけて空になった主の墓を見た女性たちがおり、エマオ途上の道でイエスに出会った二人もいました。でもその者たちの証言を信じられなかった他の弟子たちは、信じたいけれども信じられないというもどかしさを抱えていました。そんな弱い弟子たちのために、イエスは彼らの前に来て下さり、彼らのために平和を祈って下さったのです。主イエスは弱い者たちを励まし、守り導いて下さいます。彼らが心を強くして主の御心に生きる者となることを心から願っておられます。幼い子どもたちもまた、小さく弱い存在です。主がわたしたちの幼い子どもたちをも守り導いて下さるように、子どもの日・花の日にあたり、祈りを合わせたいと思います。

2019年5月5日 亀岡会堂

《説教要旨》「下り道で気づく」ルカによる福音書24章13-35節

宇田慧吾牧師

 人生の大切な出会いは、いつも「下り道」にあったように思います。 以前、あるセミナーで講師の方が、自分の経歴を紹介した後、「裏経歴」 を話しました。(表?)経歴は東大卒、有名企業に就職、結婚、起業で成功。 一方、裏経歴は、浪人生活、リーマンショックの影響で解雇、離婚、借金。 それから彼は「裏経歴の経験が私を成長させてくれました」と語っていまし た。  人生の中の成功や輝かしい経歴は、もちろん人に自信や喜びを与えてくれ る良いものです。一方、人には隠しておきたい裏経歴もまた、場合によって は人生への深い気づきや真の意味での成長を人に与えてくれるものでもあり ます。

 聖書に描かれる人々も、成功や充実といった「上り道」ではなく、失意や 行き詰まりといった「下り道」で神に出会っています。今日の聖書の物語に 描かれている二人も同じでした。

 この二人が「上り道」でキリストにかけた期待は「力ある王」「勝利」で した。一方、「下り道」で彼らが気づいたのは、どんな時も変わらずキリス トが一緒にいてくれることでした。

 彼らが経験した通り、キリストは「下り道」を歩いている人の側に来て、 一緒に歩き、一緒に語らい、一緒に食事をして、心の目を開きます。二人の 心の目が開いた時、キリストの「その姿は見えなくなった」そうです。その 理由は、もう見えなくても大丈夫だからと言われます。

 私たちが「下り道」を歩く時、キリストが来てくれます。一緒に歩いてく れます。そして、心の目を開いてくれます。

2019年4月28日 園部会堂

〈説教要旨〉ルカによる福音書23章32-43節

宇田慧吾牧師

 キリストは十字架にかけられた時、「自分を救ってみろ」と罵られました。中でも一緒に十字架にかけられた犯罪人からは「救い主ではないか。だったら苦しんでいる私のことも救ってみろ!」と言われました。そのような罵りに対して、キリストは沈黙していました。

 現代にも同じような叫びがあるように思います。「神さま、どうして私を救ってくれないのですか」。「神さま、どうしてこの世の悪を取り除かないのですか」。

 この問いに対して聖書が語ることは、神はイエス・キリストによって答えたということです。イエス・キリストは、一緒に十字架につけられているもう一人の罪人に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言いました。どうして十字架刑に処せられているただ中で、楽園と言えるのでしょうか。

 聖書の伝えようとする救いは、私たちが一般にイメージしている救いとは異なります。私たちがイメージする救いは、苦しみや問題を取り除くという意味の救いですが、神の救いは苦しみを共にする救いです。

 クリスマスには、神はインマヌエル(私たちと共におられる神)であることを聖書から受け取りました。この受難節には、神が私たちの苦しみを共にしていることを受け取ります。イエス・キリストが十字架で苦しんだのは、私たちの苦しみを共にするためでした。また、そのような苦しみの中にあっても、神との心の絆が失われないことを証しするためでした。

 十字架で息を引き取る直前、キリストは「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と告白しました。キリストは深い苦しみの中でも神への信頼を失うことはありませんでした。この姿を見届けた百人隊長、群衆の心に不思議な変化が起こりました。

【キーワード】①神は私の苦しみを共にしている。
       ②苦しみの中で、他者の苦しみに寄り添う。
       ③苦しみの中で神に信頼し、すべてを委ねる。

2019年4月13日 園部会堂

〈説教要旨〉「冬の実り」ルカによる福音書20章9-19節

宇田牧師

4月9日 須知会堂

 こうして娘はすくすく成長しています。体重も5kgになって抱っこも重くなってきました。元気に大きくなってくれてありがたいことです。この2カ月は嬉しい出来事が多くありました。無事にHさんが洗礼式を迎えたり、こどもの居場所つくり活動をNPO法人化するための設立総会を無事に終えたり。一方で、少し忙しすぎたようでもあり、心はちょっと疲れ気味のようです。嬉しい出来事も何だか心の上を通り過ぎて行くような、ありがたいことをありがたいと心から感謝できないような、そんな気持ちで過ごしてきた2か月間でもありました。原因は明らかで、少し忙しすぎたのです(^^;

 でも、良かったと思うのは、そんな中でも一度も落ち込んだり心が折れたりすることはなかったことです。むしろ、そういう心の疲れの中で、信仰の支えを度々感じました。生きることの大変さを背負いながら、希望をもって生きる姿を示してくれた信仰の先輩たちが頭の中に何人か浮かびました。自分もこういうしんどさの中で信仰を持って生きることを重ねていくことで、後の人たちの支えになれるのかな、とも思いました。

 心から感謝できない、いただいている恵みを実感できない、そういう心の状態の時が誰にでもあると思います。そんな時こそ「冬の実り」を収穫しましょう。手放しで嬉しい絶好調の時には気づくことができない、冬にしか気づくことのできない支えや励ましがあります。この2か月は心の淋しい冬でもありましたが、支えと励ましも多くいただき、だんだんと春が近づいてきたようです。