《礼拝の聖書箇所から》ルカによる福音書8章40-56節

宇田慧吾牧師

 キリストが町に来た時、人々は「喜んで迎えた」「待ち望んでいた」と書かれています。迎えた人たちの期待感が伝わってきます。一方、自分はこの日曜日を「キリストを迎える」という期待感をもってここにいるだろうか問いかけられます。今、喜びをもって心にキリストを迎えましょう。

 キリストは神と人を愛して生き、十字架にかかり、この世の苦しみを深く経験しました。そのような絶望的な死の中にあるキリストを神は復活させました。どんな苦しみの中にあっても、どんな絶望の中にあっても、神さまは私たちを見捨てないことのしるしです。そのような福音を身をもって示したキリストを心にお迎えしましょう。

 今日の聖書ではキリストを迎えた人たちの中でも特に二人の人がクローズアップされています。一人は会堂長です。この人は12歳の娘が危篤にあり、キリストに助けを求めてきました。もう一人は12年間病気を患ってきた女性です。この人は病気を癒されたい一心で、医者に全財産を使ったものの癒されず、キリストに助けを求めてきました。

 この二人から学べることは、どんなに人徳や地位、財産があっても、人には動かせないことがあるということです。死や病気のことがここでは挙げられていますが、他にも心の健康や与えられた境遇なども自分の力だけでは解決することができない時があります。

 そういう苦しさの中にある二人にキリストがかけた言葉は次のようなものでした。「恐れることはない。ただ信じなさい」。「安心して行きなさい」。人生の中には自分の力だけでは解決不可能な問題が時折ありますが、聖書はそのような問題には神さま自身が応えることを伝えています。

 会堂長の危篤になった12歳の娘、12年間病気を患い全財産を使いつくした女性、おそらくこの二人は違った12年間を生きてきたと思います。順境であれ、逆境であれ、12年という歳月は聖書では神の御心の成就を示す数字です。私たちの人生にも、順境の時も逆境の時もありますが、神さまの定めた『時』があり、その日には神さま自身が私たちの動かし得ない問題に応えることを信じる人でありたいと思います。

 最後におまけ話です。先日、地域の人たちと麻雀をしていました。すごく強い方たちで、コテンパンにやられてしまったのですが、一人の方がこう言っていました。「麻雀で僕が見ている世界と宇田さんが見ている世界はぜんぜん違います。その違いを一言で言うと『なげやりにならないことです』」。彼が言うには、麻雀は運のゲームで、自分の調子が良くない時に投げやりになってしまうと運がめぐってきた時にそのチャンスを逃してしまうとのこと。逆境でもなげやりにならず、その『時』を待つことが大事だと教えてくれました。

 人生にも似たところがあるかもしれません。苦しい時や調子の悪い時になげやりになってしまうと、その『時』を見逃してしまうことも。苦しい時こそなげやりにならず、神さまに頼む人でありたいと思います。心にキリストを迎えましょう。

キーワード:「なげやりにならない」「頼む人」

2019年6月30日 亀岡会堂