《礼拝の聖書箇所から》ルカによる福音書17章11-19節

宇田慧吾牧師

 今日は「重い皮膚病のサマリア人」がキリストに出会う物語です。

 「重い皮膚病」の語源は「打たれた」で、神に打たれた病気と考えられていました。この病気にかかると、神殿に入ることが許されず、町の中に住むことも許されていませんでした。人に遭遇する時には「わたしは汚れた者です」と遠くから大声で呼びかけなければならない決まりでした。重い皮膚病にかかった人は神の前からも、人の前からも閉め出された立場にありました。

 また、サマリアは、元はユダヤと同じ国の一部でしたが、サマリアが滅びた時代に外国人との結婚が行われ、同じユダヤの神を信仰しつつも、外国の宗教も混ざった信仰になりました。また血統を重んじるユダヤ人にとっては外国人の血が混ざることは受け入れがたいことでした。それでユダヤ人はサマリア人に対して差別意識を持つようになりました。

 ユダヤ人が「重い皮膚病のサマリア人」に対して差別意識を持ったように、その人の人格ではなく歴史や心情的な理由で持たれる差別が今日の社会にもあります。また、教会の中にもあります。時折、周りの人の信仰を神の前に立つにはふさわしくない、教会にふさわしくないと裁いてしまう気持ちが人の心にはあります。また、自分自身のことが、神の前にふさわしくない、教会にふさわしくないと思われて苦しむこともあります。

 人の心にはそのような思いがありますが、私たちは神さまの招きを信じましょう。ここにいる全員が神の招きによって集められました。ふさわしくない人は一人もいません。またこの教会の全員が神さまによって集められ、互いに出会わされていることを信じましょう。時には対立やすれ違いがありますし、長い時間の関わりになれば修復が不可能に思われる心の傷も生まれます。けれども、そういった人間の弱さも含めて、すべてが神さまのご計画の内にあって出会わされています。この集められた教会の出会いの中で、神さまは私たちに福音を伝えようとしていること、そのことを信じましょう。

 キリストが通りかかった時、重い皮膚病の人たちは決まりの通り、遠くから声を張り上げて呼びかけました。キリストは「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言いました。この10人はその言葉に従って、祭司たちの所に向かいました。キリストの言葉を信じて、従ったのですね。そして、祭司たちの所へ行く途中で癒されました。癒されたことに気づいた一人がキリストのもとに戻ってきました。神を賛美しながら。でもそれは、一人だけでした。そして、キリストはその人に「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言いました。

 このやりとりから受け取れる大切なポイントは、聖書は病気の癒しが救いだとは語っていないことです。私たちにあてはめるとすれば、今自分に与えられている試みが解決され取り除かれることが救いなのではないということです。この戻ってきた1人が、癒しという出来事をきっかけに、神を賛美し、キリストの前にひれ伏し礼拝するようになったこと、これを聖書は救いと呼んでいます。言い換えるなら、神さまの前に立つようになること、神さまと心通わせるようになること、これが救いだと聖書は伝えています。もう少し身近な言葉に直すなら、苦しい時、道がひらかれる時もなかなか開かれない時もありますが、どんな時でも祈ること、賛美すること、礼拝すること、神さまと繋がっていること、これが救いです。

 人間同士でも同じですよね。病気が治るとか、問題が解決するとか、それらはもちろん嬉しいことです。でも、もっと根本的に大切なのは、病気になっても、苦しい試練があっても、そういう中で支えてくれる仲間がいること。苦しい時には助け合えること。そういう繋がりがあることが幸せですよね。

2019年7月14日 園部会堂