《聖書を読みながら思うこと》ルカによる福音書8章1-3節

宇田慧吾牧師

ルカによる福音書8章1-3節 「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」

 先日、地域の青年と話していた中で、「自分は役に立てているだろうか」という話がありました。お世話になった人たちを手伝って、今度は一緒にお世話をする側になっていきたい。そんな気持ちを持ちながらも、自分がうまく手伝えてるのか自信が持てない。

 話を聞きながら、自分にもそういう気持ちの時ってあるな~と思いつつ、いつからかそういう不安をあまり感じなくなったなとも思いました。「役に立ちたい」という気持ちは、もちろん尊いモチベーションですが、一方で「ひとりよがり」や「空回り」になりやすい原動力でもあるように思います。

 自分が「役に立とう!」と思っている部分とは別の所で、案外、他人の励ましになっていたり、周囲の人と繋がることができるきっかけになったりもするものです。

 そういう期せずして役割を果たしていることについて、キリスト教には「召命」という言い方があります。日本語は「神が召して命ずる」で、神さまがあなたを選んで、あなたに役割を与えることです。英語ではシンプルに「Calling」すなわち「呼ぶ」。ドイツ語ではBerufで「職業」の意味、「神さまが与えた職」すなわち「天職」ですね。ニュアンスはいろいろですが、いずれも「神に呼ばれ、役割を与えられる」ことです。用例として教会の中では「召命に応える」とか「召命を信じる」等の使われ方をします。

 「召命」という言葉について特に牧師はビンカンです。牧師という役割は神さまに与えられた役割だと信じてご奉仕しているからです。これがもしひとりよがりの勘違いであったとしたら虚しいことです。

 牧師になろうと志し、自分の召命を問うていた時代に、お世話になっていた牧師に「どうして牧師になったんですか?」と尋ねたら、「分からん」と言われました。そして彼は「それは神さまにしか分からない」と言いました。

 キリスト教の信仰では、牧師以外の職業はもちろん、どんな立場であれ、今与えられている立場が「召命」だと受けとめます。そして、その与えられた立場で、どうがんばろうと、どう抗おうと、人は神に与えられた役割を果たしているのだと信じるのです。

2019年8月2日