牧師日記 9月20日

宇田慧吾牧師

 印象的なfacebookの投稿がありました。地域で親しくしている方のものです。一部修正して転載します。

(以下)

夏休み明けて息子が本気で学校に行くのを嫌がった。夏休み明け翌週、月曜日に法事があって学校を休み、火曜日の朝学校に行くのを嫌がった。原因はやはり宿題だった、月曜日休んだので、火曜日の昼の休み時間に宿題をみんなの前でしなくてはならないのが嫌なようだ。問題はそこじゃない。火曜日の朝に息子が怯えながらこう言った。「農業するし、家の手伝いもする、良い子にするから、学校に行かせないで」この子は、自分の存在意義を無条件に感じれていないんだ。学校で優等生になるか、家で優等生になるか。

ショックだった。生きているだけ、それだけで彼には存在する価値がある、無条件で自分を愛して、彼として生きる事が彼の最大の仕事であって欲しい。その事を感じれていないのは、それは親である僕もまた、自分自身を無条件に愛する事ができていないからだったと思う。有機農家、自給自足家、少林寺拳法の先生、デモクラティックスクールの卒業生、そしてなにより大きな働きをなした父の息子として、なんらかの成功をしなくてはいけない、そんな風に思っていて、常に焦って生きてきたように思う。学校はとりあえず宿題のやり方を変更することで、息子も納得して学校にいきはじめた。僕も少しずつ、何者でもない自分を愛せるようになっていけそうな気がします、何者でもない子どもたちを愛せるように。

(以上)

 「無条件に愛されていること」「存在しているだけで価値があること」、そのような神の愛を牧師として語り、信仰者として信じているのはもちろんですが、自分の心の奥の方にも「自分自身を無条件に愛せていない」気持ちがあるなと思いました。そういう気持ちにせかされて努力してこれたという面もありますが、一方、そういう気持ちに追い立てられていつも焦りがあるというのもよく分かります。

 普段は日常をこなすため、自分の心の深いところにある気持ちはとりあえず奥にしまっておいてしまうものですが、「無条件に自分を愛せない気持ち」そんな気持ちも自分の心の中にあるんだなと気づくと、そういう自分も含めて神さまは愛してくれているんだなとしみじみ感じたりします。

2019年9月20日

牧師日記 8月16日

宇田慧吾牧師

 聖書に出てくる物語の中で比較的よく知られた「善きサマリア人のたとえ」という話があります。〈以下引用)。

 「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』」(以上)

 私は両親が教会に通っていたので、幼少の頃は親と一緒に教会に行っていました。幼少期の記憶とはすごいもので、大人になってから聖書を読むと「こんな話あったな~」と案外記憶の端に残っていたりするものです。そんなぼんやりと憶えていた話とは別に、子どもながらに心に残った話が「善きサマリア人」でした。傷ついた人を見て見ぬふりをした祭司やレビ人のようにではなく、善きサマリア人のように助けが必要な人に手を差し伸べようという気持ちが少年の心に宿ったようです。

  思春期になると、少年の心に宿った善きサマリア人の精神は、「人を助けたい」という強い意志になりました。その意志によって他者のために働き、感謝を受ける喜びの経験を重ねました。一方、これは自己満足ではないか、偽善ではないかという問いも通り、他者に奉仕する自分の力の小ささに虚しさを感じたりすることもありました。私の場合は、そのような問いや虚無感によって信仰に導かれたように思います。

 牧師として奉仕するようになると、自分が善きサマリア人よりも、祭司やレビ人に重なるように感じることが増えました。祭司やレビ人は礼拝に奉仕する立場の人たちであり、今日で言えば牧師の立場に近く、神の愛を語り、隣人への愛を勧め、その実践が望まれる立場の人たちでした。当然牧師も、そのような期待を受けて然るべき立場ですが、現実の働きの中には「道の向こう側」を通っていくような場面が少なくありません。自分の心のキャパシティの限界や日常の業務からくる時間的制約、能力や知識、経験の不足、それらことから道の向こう側を通っている自分をしばしば見つけ、悔いる思いを持ちます。

 牧師も人間ですから、人間的な制約による限界があるのは当然のことですが、道の向こう側を通る経験を繰り返す中で、心がすり減り、心に虚しさが溜まっていくのも事実です。「人間だもの」となかなか割り切ることもできないでいます。そういう気持ちのせいか、「追いはぎに襲われた人」にも共感するようになってきました。傷つき、倒れている私をキリストが手当てし、介抱してくれているように感じたりします。

2019年8月16日

牧師日記 8月10日

宇田慧吾牧師

 ふと友人にメールをしようと思い、近況や最近考えていること等について長々と書いて送りました。教会で行ってきた地域の子どもたちのための活動をNPO法人化したこと、設立業務や交付金申請の書類作成に追われる日々であること、そういった忙しさの中でも地域や行政の方たちと共に地域の課題に取り組める喜び、教会とNPO法人という二重の立場で自分はどのように神の召命に応えていけるのか考えること等々。

 彼は東京都庁で働き始めて6年程、もともと勉強熱心な方で、私が自分の課題を話すと、いつも最近学んだことの中からおすそ分けをくれます。今回のお返事の中には、マネジメントの話があり、興味深いと感じたので少し引用します。

 「職場の行き帰りには相変わらず多読乱読を続けていますが、最近、ピーター・ドラッカーの『マネジメント』を読了しました。ドラッカーのメッセージと教訓は明快です。①組織の生み出すべき成果は組織の外部にあることに気づくこと、②組織が成果をあげるためには顧客への貢献(顧客のニーズ)に焦点を合わせ、新たな顧客を創造すること、③組織が成果を最大化するためには組織そのものが備える「強み」と組織に関わる人の「強み」を活かすこと(「弱味」の修正や改善に力を注ぐよりも)の3つです。この教訓がより興味深いのは、これらが、営利組織だけではなく、非営利組織(学校、NPO、教会、保護者会などあらゆる集団を含む)の活動と成果にも当てはまると言い切っていることです。教会でもNPOでも株式会社でも、マネジメントの要諦は同じなのだと。」

①組織の生み出すべき成果は組織の外部にあることに気づくこと。

②組織が成果をあげるためには顧客への貢献(顧客のニーズ)に焦点を合わせ、新たな顧客を創造すること。

③組織が成果を最大化するためには組織そのものが備える「強み」と組織に関わる人の「強み」を活かすこと(「弱味」の修正や改善に力を注ぐよりも)。

 いま自分がいる教会に照らして、あれこれと思いめぐらしました。

 「他のための教会」、「福音の本質は不変だが、その伝達の様式は時代に合わせて変化する」といった神学者たちの言葉が頭に浮かびます。教会そのものの「強み」と教会に関わる人の「強み」、いくつも頭に浮かびますが、弱気になっている時は「弱み」ばかりに目がいきがちであることを反省します。