新年度を迎えて

片岡広明牧師

 4月から2019年度が始まりました。2019年度年間聖句に「二人が地上で心を一つにして求めるなら、天の父はかなえてくださる。」(マタイ 18:19)が選ばれました。2019年度の年間聖句の選定にあたってこのみ言葉を示された時に私が思い巡らしていたのは、丹波新生教会の合同50年という節目の年を前にしているということでした。元々属していた教派が異なる二つの教会が合同して成立した丹波新生教会は、教派が異なるがゆえに抱えていたであろう考え方や神学的立場の違いを乗り越えて一つの教会となるべく、礼拝を共にし、祈りを合わせて歩んでまいりました。教会も人間の集まりですし、誤ることもありますでしょうし、人が集まれば集まった数だけの違いがあるものです。時には人との間に距離を感じることもあれば、乗り越えがたい壁を感じることもあったでしょう。そんな中、多くの困難な時を経て50年もの年月を一つの教会の仲間として共に歩んで来られたということは、なんという驚くべき神様の奇跡であろうかと思います。

 丹波新生教会は合同教会であると共に、今もなお、より確かな合同を目指して歩もうとする、合同しつつある教会なのだと思います。みんなで心を一つにして祈り、よき働きをなし、神様のみ心にかなう教会となることができますよう願いつつ、新年度の歩みを始めたいと思います。

春はお花見、イースター…今年のイースターっていつ?

3月もあっという間に過ぎ、新年度を迎えようとしています。新元号も4月1日に発表されることが決まりましたね。

さて、教会的に4月といえばイースターですね!イースター(復活祭)は、十字架にかけられたイエスさまが復活されたことを祝う大切な記念日です。が…今年のイースターはいつ?と4月を目前に慌てて確認するのは、クリスチャンあるあるではないでしょうか(私だけ?^^;)
今年のイースターは4月21日(日)です。クリスマスと違って、イースターは毎年日付が変わります。教会では「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」をイースターと定めているようです。年によって3月末だったり4月末だったりと、かなり日程が違うんですね。
イエスさまの苦しみを覚えるレントを終えると(レントについては片岡牧師の〈随想〉受難節を迎えてをご参照ください)喜びのイースターがやってきます!
丹波新生教会でも、21日は礼拝後に祝会を開き、イエスさまの復活をお祝いします。もちろん初めての方も歓迎いたします。
また、4月7日(日)の礼拝後は大堰川でのお花見も予定されています(詳しくは教会0771-63-0165にお問い合わせください)♪
新年度を機に教会に足を運んでみてはいかがでしょうか?

子どもの居場所つくり活動の近況

宇田慧吾牧師

 園部会堂の集会室を地域の子どもたちに開放し始めて1年4か月が経ちました。最近は月にのべ300~400人の小中高校生が遊びに来ています。近隣の保護者の相談で始まった不登校の中学生2名の集まりも9カ月になりました。近隣中学校のスクールソーシャルワーカーの相談で始まった高校生2名の集まりも同じく9カ月になります。最近は地域の諸団体から相談を受けるようにもなりました。南丹地域は市内に比べて、不登校や引きこもりの子どもを支援する団体の数が少なく、またそのような子どもたちが勉強ぬきの居場所として過ごせる場所はほとんど無いのが現状です。この課題に向き合う中で、地域の子どもたちや保護者、学校、関係諸団体の方たちとの出会いをいただきました。最近は出会いに恵まれ過ぎたところもあり、牧師ひとりの活動としては対応しきれなくもなってきたので、地域の方たちと団体化することを決めました。その際、関係諸団体との連携を円滑にしていくためにNPO法人格を取得することにしました。教会は活動場所を提供することで、応援するという形になります。どうかこの活動が地域の子どもたちのために用いられることをお祈りください。

一緒に祈る友

宇田慧吾牧師

新年度が始まります。年間聖句に「二人が地上で心を一つにして求めるなら、天の父はかなえてくださる」が選ばれました。互いのために祈る教会でありたいと思います。また、一緒に祈る友が増える一年であってほしいと願います。

〈随想〉受難節を迎えて

片岡広明牧師

 今年も受難節が始まりました。受難節はイースターの前日までの日曜日を除く40日の期間を受難節、または四旬節、大齋節と呼び、イエス・キリストがすべての人の罪を背負って十字架への道を歩まれ、苦難をお受けになったことを覚えて、克己節制に努める時とされています。英語ではレント(Lent)と言います。レントという言葉は「長くなる」という意味の言葉だとされ、春を迎えて日が長くなっていく季節にあたりますので、レントと呼ばれるようになったという説や、古ゲルマン語で「断食」を意味する言葉から来ていて、レントの期間中には断食を行うので、レントと呼ばれるようになったという説などがあるようです。

 レントの期間が40日とされているのは、イエスが伝道の生活に入られるにあたって、40日間の断食をなさって悪魔から試みをお受けになったことに基づいているとされています。今ではあまり断食を熱心に行うような教会は少なくなってきているように思いますが、レントの期間にはイエスの苦しみを覚えて一日に一食を抜く断食が行われたり、肉食を断ったり、お酒や甘いお菓子などを断ったりする習慣や、奉仕活動に励む習慣があります。

 レントの始まりの日を「灰の水曜日」と言います。カトリックや聖公会などでは、灰の水曜日の前の日曜日に棕梠の葉や枝を燃やしてできた灰を額に十字架の形に塗ってレントの始まりを覚える習慣があります。棕梠の葉は、棕梠の主日にエルサレム入城の際、イエスが「ホサナ、ホサナ」と歓呼の声をもって迎えられた時にイエスを迎えた人々が手にしていたものです。その歓呼の声はわずか数日のうちに「イエスを殺せ!」という罵りの声に変わっていくのです。その棕梠の葉を燃やして灰にするのです。人間の心は変わりやすく、人間の言葉は当てにならないものであることを自らのこととして自覚するために棕梠の葉を燃やし、灰を罪の悔い改めのしるしとしたのです。灰の式を行わない教会でも、その名残でレントの始まりの日を灰の水曜日と呼んでいるのです。日曜日をレントの期間に含めないのは、日曜日はイエスが復活された日だからです。ですから毎週の日曜日の礼拝は毎週イエスの復活を祝うものなのですが、特にイースターにはイエスの復活を覚えて感謝し、喜び祝います。 今年のイースターは4月21日です。ひとりでも多くの皆さんと共に、主イエスの復活を喜び祝うことができますように、イースターに向かって祈りをもって備えていきたいと思います。

牧師日記 3月5日

宇田慧吾牧師

 初めて教会に行った日「わたしの目にあなたは高価で貴い」の聖書の言葉を聞き、その日の夜は超が10回つくほど嬉しかった。亀岡朝祷会の証しでOさんがそのように話してくれました。彼はその後、箴言の「自分の土地を耕す人はパンに飽き足りる」の言葉に感じるところがあり、農家になることを決め、京都に移住しました。家庭のことや仕事のことで進むべき道に迷った時、聖書の言葉に励まされ、道を開かれてきた彼の人生の歩みが印象的でした。

 Oさんは今、京都市内の教会に通っているのですが、以前1年程、亀岡会堂に通っていた時期もあったそうです。亀岡朝祷会に向かう道中、車に一緒に乗っていた方が「今日証ししてくださる方は、亀岡会堂の礼拝に来て、一生懸命パソコンでメモ取りながら説教聴いてたけど、パタッと来なくなって、なにか躓きはったんやろうか」そんなご心配を話していましたが、本人の話を聞くと実際には逆のことでした。

 信仰が揺らぐ時期があり、いつもの教会ではなく亀岡会堂に通わせてもらっていた。そんな中で亀岡朝祷会に誘われた。来てみると通っていた教会のメンバーの知り合いがいて「〇〇さんがOさんは元気?と気にしてたよ」と言われ「これは戻らねば!」と思い、もとの教会に戻った。亀岡会堂と亀岡朝祷会が無ければ、今の自分はなかったと思います、と。

 教会に集まっているお互いのことは、案外知らないことも多いものですが、Oさんのように神さまとの絆を保ち深めるために教会が用いられると嬉しいですね。

説教要旨 「御心にふれる」ルカによる福音書5章12-26節

2月23日説教要旨【片岡広明牧師】
「御心にふれる」ルカによる福音書5章12-26節

 今日の聖書箇所にはふたつの出来事が伝えられていますが、共通しているのは、イエスによる病の癒しということです。人間が病に苦しむことは、聖書の時代の人も現代人も変わりません。時代が変わり、医学が進歩して、かつては不治の病であったものが克服されていくということもありますが、AIDSのように昔はなかった病気が新たに出現することもあります。病との闘いはいつの時代も人間にとって大きな課題です。

 イエスに出会い、イエスに癒しを求めた「重い皮膚病」の人は、イエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」と言いました。「御心ならば」とは、あなたがわたしのことを御心に留め、わたしの病が癒されることをあなたが心に望んでくださるならば、あなたの望みどおりに現実のものとなります、そのことをわたしは心から信じ、あなたに寄り頼みます、とイエスに心からの信頼を寄せる気持ちから出た言葉でしょう。イエスはその信頼に応えて、「よろしい」と言われ、この人を癒されたのでした。「中風」の人には、この人を床に載せて運び、屋根にまで上がってイエスにこの人の癒しを願い出た、寄り添う人々がいました。その熱い心のうちにイエスは彼らの信仰をご覧になり、この人を癒やされたのでした。

 人はいつかは死を迎えます。この癒された人々も、のちには皆、死にました。しかしこれらの人々は、イエスと出会い、イエスによって救われたことを生涯忘れることはなかったでしょう。そしてイエスの御心に留まり続けて、望みを持ち続け、生涯を全うしたことと思います。主の御心にふれて生きること、そのことをわたしたちも心に深く留め、病やどんな苦しみにも負けず、主の御心に生きるものでありたいと思います。

「キリスト教文化講座」開催のおしらせ《ルカによる福音書の世界》

聖書の「ルカによる福音書」を読みながら、そこに描かれる世界観を味わいます。参加費無料。 手ぶらでご参加ください。

期間:2019年4月~6月 (全6回)
会場:丹波新生教会 園部会堂

〇土曜コース
第1、第3土曜日 10:30~12:00

〇水曜コース
第2、第4水曜日 17:30~19:00

問い合わせ先:0771-63-0165 (教会)

説教要旨「実を結ぶ人」ルカによる福音書8章4-15節

2月17日説教要旨 【胡麻会堂・宇田牧師】
「実を結ぶ人」 ルカによる福音書8章4-15節

 3万2千年前の種が発掘された話はご存知ですか?永久凍土から見つかって、ちゃんと花が咲いたそうです。種に秘められた生命力には驚かされます。わたしたちの心に蒔かれた種も、種自身の生命力でちゃんと実を結んでいきます。「実を結ぶ人になろう!」とか「心の畑を整えよう!」というよりは、神さまの蒔いてくれた種の生命力に信頼して、安心して待つ心を持ちたいと思います。

 昨日、昨年度に洗礼を受けたO君から嬉しい連絡がありました。しばらく東京で生活するので、東京の教会に転会したいとのこと。彼は大学生の時に自分で聖書を買って読み始め、大好きなおじいちゃんが亡くなった時に、礼拝に通い始めました。礼拝でなんとなく心が慰められる気持ちがして教会に通い続けました。洗礼を受けてすぐ引っ越しになりましたが、東京でちゃんと通う教会を見つけられたようでなによりです。彼のように、この教会に訪れた人の心に神さまの種が蒔かれて、芽を出していくと嬉しいですね。

 自分の信仰の歩みを振り返ると、種が成長するまでにはずいぶん時間がかかったなと思います。心が「道端」のようで芽が出ない時、心が「石地」のようで根を張れない時、心が「茨」に覆われて成長できない時、いろんな時期がありました。でも、神さまが耕してくれて、種自身の生命力でちゃんと実りを結んでくれました。今も「ちゃんと実りを結ぶだろうか?」と不安を感じることも時々ありますが、耕してくれる神さまと種自身の生命力を信じます。わたしたちは「実を結ぶ人」です。人生の実りをどうぞお楽しみに。

説教要旨「新しいぶどう酒は新しい革袋に」ルカ5章38節

2月3日説教要旨【亀岡会堂・片岡牧師】
「新しいぶどう酒は新しい革袋に」ルカ5章38節

 「新しいぶどう酒は新しい革袋に」とはイエスがお語りになった言葉の中でも最も知られている言葉のひとつですが、イエスの言葉であるということを知らずに使っている人もいるでしょう。社会の中に新しいものが生まれる時には、新しいものを受け入れる心構えと、古いものを思い切って捨てる覚悟とが必要だというような意味での用いられ方をされると思います。新しい社会の仕組みや新しい技術、たとえば、鉄道や自動車が世の中に現れた時、「わたしはこれからもずっと馬に乗る!」とか「わたしはかごに乗る」と言っても、そんなことはできません。戦争に敗れて新しい平和な民主主義の時代を迎えた時、「どこまでもわたしは武器を持って戦うのだ」と抵抗しようとしてもそんなことはできないのです。古いものを引きずっていては、新しい時代に生き残ることはできないのです。

 イエスがこの言葉をお語りになった背景には、古いユダヤ教からの脱却という動機が働いていたと思います。具体的には、断食をめぐる問答がイエスと人々との間で起こったのです。ユダヤでは悲しみの時、嘆きの時、罪を犯した時などに、欲を断ち、心を神に向けることに集中し、罪を悔い改めて祈りに専念するために断食が行なわれました。

 しかし罪の悔い改めと言っても、どこまで断食をして祈れば、人間が改まるのでしょう。まことの救い、完全な救いが実現されなければ、どこまで行っても悔いるばかりで、ちっとも改まることがありませんが、メシアであり神の子であるイエスは、どんな人でも真の悔い改めに至らせるまことの救いの道を開くためにこの世に来て下さったのです。イエスと弟子たちとの関係においては、師と弟子の関係を越え、メシアとその救いに与る者という新しい人間のありようがそこに実現されているのです。