《説教要旨》「帰るかもしれない」エレミヤ書36章1節-10節

片岡広明牧師

 アドベントの小さな光がふたつ輝いています。ろうそくの光はほんの小さな光ですが、闇の中では小さな光も豊かな輝きを放ちます。先週は久しぶりに聖餐に与りました。小さなひとかけらのパンと小さな杯によって、何にも換えがたい大きな生きる力を与えられるとは不思議なことです。

 エレミヤは古代イスラエルの歴史の中でも南ユダ王国の末期からバビロン捕囚へと至る激動の時代を主の預言者として生きた人でした。エレミヤは涙の預言者と呼ばれます。エレミヤの預言者としての悲しみは、神様のみ言葉をどんなに力を込めてユダの人々に語っても、一人も耳を傾けようとする人がいなかったという孤独の悲しみでした。エレミヤはまことに小さくされた存在でした。しかしエレミヤの偉いところは、どんなに人々が神様のみ言葉を聞こうとしなくても、決して投げ出さず、諦めなかったことです。神様はエレミヤに、言葉を巻物に書き留めよと言われます。エルサレム神殿に出て行くことすら赦されていなかった、迫害の中にあったエレミヤですが、巻物を弟子に託して神様の言葉を人々に知らせようとしたのです。その巻物も悪逆非道な王に焼き捨てられてしまうのですが、それでもエレミヤは諦めず、二巻目の巻物の制作に取りかかり、それがエレミヤ書の言葉として残されていくのです。エレミヤの働きは、闇の中に小さな灯りを点すようなものでしが、やがてエレミヤが聞いた神様のみ言葉は後々にまで伝えられ、キリストの誕生にまで至る救いの歴史をつないでいくのです。

 12月第1日曜日は社会事業奨励日です。社会福祉や医療、教育といった分野で教会はこの世で弱く小さくされている人々に寄り添う働きを担ってきました。わたしたち自身の日々の歩みも、世界を覆い尽くす闇の中に小さなゆっくり火をわずかに一つずつ、ゆっくりと点していくような歩みですが、必ずそれは全世界を照らす神様のみ光を映し出すものとなっていくことと信じて、今年のクリスマスを待ち望みたいと思います。

2021年12月5日

《説教要旨》「神我らと共に」ヨハネによる福音書1章14-18節

片岡広明牧師

 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。

ヨハネによる福音書1章14節

 主の御降誕の喜びに溢れつつ新年を迎えました。世間ではすっかりクリスマスは終わっていますが、1月6日の公現日までがクリスマスの期間です。今日の聖書では「言は肉となってわたしたちの間に宿られた」と語られています。ヨハネによる福音書はマタイやルカのような降誕物語を語ってはいませんが、「言は肉となった」という表現で神の子であるキリスト・イエスが肉体をもってこの世にお生まれ下さったことをこのように言い表しているのです。

 「わたしたちの間に宿られた」とは、神の子であられるキリスト・イエスが人間となってこの世にお生まれ下さり、肉体の痛みも人の心の痛みもわたしたちと全く同様に経験されるべく、この世にお生まれ下さった、そのことによって、み子イエスはわたしたちの痛みも苦しみも、喜びも楽しみもすべて、わたしたちと共にして下さる方なのだということ、イエスはわたしたちのことをすべて分かって下さる方であられるのだということ、わたしたちの救い主はそのような方なのだと言っているのです。

 神の言葉が宿る。そして神の御心が表される。そのことは、み子イエスから始まって、わたしたちの内にも起こっていくのです。イエスとの出会いを通してわたしたちは神様の御心に触れます。わたしたちの内に神様の御言葉が豊かに宿ります。わたしたちは神から離れて神を知らずに生きていたのが、神を知る者とされ、神と共に生きる喜びのうちに生かされていくのです。これがヨハネ福音書が伝えたクリスマスのメッセージです。新しい年、神様の御言葉を豊かにいただき、御言葉に生かされる一年を送りたいと思います。

2020年1月5日 亀岡会堂

《説教要旨》「何も持たずに世に生まれ」テモテへの手紙 一 6章1節~12節

片岡広明牧師

わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。テモテ 一 6章7節

 今日は世界聖餐日、世界宣教の日を迎えています。私たちの教会ではこの日に先んじて先週の日曜日、園部合同礼拝において聖餐にあずかりました。わたしたちは世界中の諸教会の人々とキリストによって結ばれているのだということを覚えたいと思います。世界の宣教のために祈りましょう。テモテへの手紙は長年にわたって経験を積み重ねてきた伝道者パウロから、若くて経験の浅い伝道者テモテへの励ましや勧告の言葉をつたえる手紙として書かれたという形をとっています。ここに述べられているのは、教会の宣教の業を担っていくにあたって、心得ておくべき大切な事柄としていくつかの具体的な課題を挙げて勧めを語っています。今日の箇所には奴隷と主人という社会的立場の秩序を守るようにということと、富に関する教えとが語られています。その前のところでは、老人に対して、若者に対して、身寄りのないやもめに対して、教会の長老に対してなど、具体的な勧めを語っています。いろいろな人たちを、それぞれの人々のことをよく理解しながらイエスの御言葉によって信仰へと導くのが教会の使命であり、伝道者が神様から託されているつとめなのです。信仰こそがすべての人にとって何よりも大切な宝なのです。

 先週、合同礼拝でひとりの方の洗礼が行われました。その信仰に至る歩みを神様が導いて下さったことを皆で共に喜び分かち合いました。その際の説教で語られたことの中に、丹波ヨブの話がありました。ハンセン病を患い、病による苦難と貧しさの中で信仰を持ち続け、生きる望みを持ち続けた信仰の証しを伝え聞く幸いをいただいていることは、わたしたちの教会の誇りです。どんなにたくさんのお金を蓄えても、お金は使えばなくなります。いつまでも残るもの、信仰と希望を愛を、わたしたちも求めていきたいのです。

2019年10月6日 亀岡会堂

《亀岡会堂 夏のこどもの集い報告》

8月25日(日)、朝9時30分から主日礼拝までの時間、亀岡会堂で夏のこどもの集いを開催しました。子どもたちとともに神様に賛美を献げ、そしてそのあとは石けんデコパージュをしました。石けんに絵を貼り付け、防水加工を施します。美しい石けんができました。楽しいひと時を子どもたちと共に過ごしました。子どもたちの心に楽しい教会の夏の思い出となりますように祈ります。

《説教要旨》「復讐せず」ローマの信徒への手紙12章9-21節

片岡広明牧師

 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。(ローマ 12章19節)

 パウロは今日の箇所でキリストの福音を実践していくにはどうすべきかということについて、「愛には偽りがあってはなりません。」と、真実な愛の実践を勧めています。どんなに愛の人を装っていても、人はごまかせても、神様に対して偽ることはできないのです。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」の御言葉もよく知られています。うわべだけでなく心から喜びも悲しみも人と分かち合える者でありたいと思います。

 19節には「自分で復讐せず、神の怒りにまかせなさい。」とあります。きっとローマにあるキリスト者たちが置かれていたのは、とてもつらい立場であったのだろうと思います。十字架で殺されたイエスが神の子キリストであるということは当時のローマの多くの人々からすればたわごとのようにしか思われなかったことでしょう。そのために彼らは苦しめられ、迫害されていたでしょう。自分たちを苦しめる者に対して怒りや復讐心を抱くことも無理からぬことかもしれません。それはローマにあるキリスト者だけの問題ではなく、キリスト信仰など愚かなことであると考える不信仰な世にあって苦労するキリスト者がいつでも直面することなのです。しかしイエスが十字架の犠牲を払って示された愛は限りなく深く広いものでした。この世にあってどんなに苦しめられ、虐げられ、迫害されるようなことがあっても、決して人に対して恨みを抱いたり、復讐心を燃やすことなどがあってはならないのです。8月は平和のために祈る月です。個人と個人との間に平和を造り出すことは、国と国、世界の平和へと広がっていくものだと思います。戦争によって復讐や報復が繰り返されてきた世界の人々が神様の御心に立ち返り、平和な世界の実現へと向かっていきますようにと祈ります。

2019年8月18日 亀岡会堂

《説教要旨》「同じ思いを」フィリピの信徒への手紙4章1-7節

片岡広明牧師

 わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。(フィリピ4章2節-3節)

 今日の平和聖日にあたって、フィリピの信徒の手紙を読みました。ここに出てくるエボディアとシンティケという二人の女性は教会の中でそれぞれに力ある働きをしていた人のようですが、二人は仲たがいしていたようです。「主において同じ思いを抱きなさい」とパウロは勧めました。心に思い描くことは人それぞれにあり、心を合わせることは時に難しいものですが、「主において」、すなわち主イエスが人と人とを結び合わせて下さるのです。イエスのみ心は、「互いに愛し合いなさい」と語られたイエスのみ言葉によって言い表されています。すべての人が共に主の救いにあずかり、心をひとつにして共に生きる者となることなのです。イエスは十字架の犠牲によってその愛を自ら表して下さったのです。それこそが世界にまことの平和をもたらす主のみ心なのです。

 昨日、京都戦争体験を語り継ぐ会の集いに行ってきました。今年は「三世代で語り合う」と題して二十代、四十代、八十代の三名の世代の異なる方々がそれぞれの立場で平和のための活動をなさっておられるお話を伺いました。若い方たちが戦争体験者の平和への思いをしっかりと受け継いでおられることを伺い、心強く思いました。沖縄戦遺骨収集活動の中で集められた遺品の展示がなされました。戦後七十四年、今も遺骨収集が終わっていないという事実が、戦争の残酷さ、空しさを物語っています。

 八月第一日曜日は平和聖日です。平和のために祈り、平和について考え、真の平和の実現のためにみんなで力を尽くしていくために、心をひとつにし、思いをひとつにして今日の礼拝を守りたいと思います。

2019年8月4日亀岡会堂

《説教要旨》「すべての民を弟子に」マタイによる福音書28章16節-20節

片岡広明牧師

 あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。         マタイ28章19―20節

 イエスは弟子たちに、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」とお命じになりました。そのための方策をふたつ示されました。ひとつは父と子と聖霊の名によって洗礼を授けること、もうひとつはあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように教えることでした。これはイエスの「大宣教命令」と呼ばれます。こののち地上に誕生した教会は今日に至るまで、この主の大宣教命令に応えることを使命として世界の各地で奉仕してきたのです。洗礼を授けることは人を主イエスの弟子とすることのしるしです。そして教会はイエスのみ教えを2000年にわたって語り続け、伝え続け、守り続けてきたのです。人をイエスの弟子とする教会の働きは、世界中に広がっていきました。この宣教のみ業がめぐりめぐって世界の果てのわが日本にまで伝えられ、わたしたちの教会もその中で誕生したのです。

 先週は教会総会を行い、昨年度一年間の教会の歩みを振り返り、主の豊かな恵みをみんなで覚えて感謝いたしました。昨年度の年間聖句として、このマタイ28章の今日の箇所をわたしたちは昨年度一年間、心に刻み続けてまいりました。主イエスから託された宣教のみ業に共に勤しむわたしたちには、いつでもイエスが共にいて下さるのです。悩みの多いこの世にあって、わたしたちは教会のためにも、またそれぞれ個人のことにおいても困難を覚えることが多々ありますが、主イエスが共にいて下さることをしっかりと心に刻み、あらゆる困難を乗り越え、主の弟子の交わりを日本に、世界に、大きく広げ、主から託された宣教の業のため、なおいっそう祈りを熱くして励んでまいりたいと思います。

2019年6月2日 亀岡会堂

《説教要旨》「平和があるように」ルカによる福音書24章36-43節

片岡広明牧師

 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 ルカ24:36

 5月5日は子どもの日、端午の節句です。子どもたちの健やかな成長を願い、鯉のぼりや鎧兜を飾ります。昔は子どもが元気に育って大人になる割合は今よりもずっと低く、幼児のうちに亡くなる子どもたちが大勢いました。世界には今でも乳幼児死亡率の高い国々がいくつもあります。子どもたちの健やかな成長はみんなの願いなのです。

 教会では子どもの日・花の日の礼拝を行い、子どもたちの成長のために祈ります。子どもたちの心と体、そして信仰が神様によって守り導かれますようにと祈ります。幼い子どもたちには、この先、いくつもの試練や困難が待ち受けていることでしょう。そうした困難を乗り越えて生きる力を神様が子どもたちに賜りますようにと祈ります。神様は小さく弱い者たちをみ心に留めて下さるのです。

 今日の聖書箇所は、イースターの日の夕べ、弟子たちが集まっているところによみがえられたイエスが現れ、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃって、ご自身の復活を証しして下さった場面を伝えています。イエスは十字架に釘付けにされたその傷跡の残る手足を弟子たちにお示しになり、亡霊を見ているものと思って恐れる弟子たちに、紛れもなくわたしなのだと証しをなさり、主の復活を信じられないでいる弱い弟子たちを心熱く励まして下さったのでした。

 弟子たちの中には、朝早く主の墓に出かけて空になった主の墓を見た女性たちがおり、エマオ途上の道でイエスに出会った二人もいました。でもその者たちの証言を信じられなかった他の弟子たちは、信じたいけれども信じられないというもどかしさを抱えていました。そんな弱い弟子たちのために、イエスは彼らの前に来て下さり、彼らのために平和を祈って下さったのです。主イエスは弱い者たちを励まし、守り導いて下さいます。彼らが心を強くして主の御心に生きる者となることを心から願っておられます。幼い子どもたちもまた、小さく弱い存在です。主がわたしたちの幼い子どもたちをも守り導いて下さるように、子どもの日・花の日にあたり、祈りを合わせたいと思います。

2019年5月5日 亀岡会堂

説教要旨 「御心にふれる」ルカによる福音書5章12-26節

2月23日説教要旨【片岡広明牧師】
「御心にふれる」ルカによる福音書5章12-26節

 今日の聖書箇所にはふたつの出来事が伝えられていますが、共通しているのは、イエスによる病の癒しということです。人間が病に苦しむことは、聖書の時代の人も現代人も変わりません。時代が変わり、医学が進歩して、かつては不治の病であったものが克服されていくということもありますが、AIDSのように昔はなかった病気が新たに出現することもあります。病との闘いはいつの時代も人間にとって大きな課題です。

 イエスに出会い、イエスに癒しを求めた「重い皮膚病」の人は、イエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」と言いました。「御心ならば」とは、あなたがわたしのことを御心に留め、わたしの病が癒されることをあなたが心に望んでくださるならば、あなたの望みどおりに現実のものとなります、そのことをわたしは心から信じ、あなたに寄り頼みます、とイエスに心からの信頼を寄せる気持ちから出た言葉でしょう。イエスはその信頼に応えて、「よろしい」と言われ、この人を癒されたのでした。「中風」の人には、この人を床に載せて運び、屋根にまで上がってイエスにこの人の癒しを願い出た、寄り添う人々がいました。その熱い心のうちにイエスは彼らの信仰をご覧になり、この人を癒やされたのでした。

 人はいつかは死を迎えます。この癒された人々も、のちには皆、死にました。しかしこれらの人々は、イエスと出会い、イエスによって救われたことを生涯忘れることはなかったでしょう。そしてイエスの御心に留まり続けて、望みを持ち続け、生涯を全うしたことと思います。主の御心にふれて生きること、そのことをわたしたちも心に深く留め、病やどんな苦しみにも負けず、主の御心に生きるものでありたいと思います。

説教要旨「新しいぶどう酒は新しい革袋に」ルカ5章38節

2月3日説教要旨【亀岡会堂・片岡牧師】
「新しいぶどう酒は新しい革袋に」ルカ5章38節

 「新しいぶどう酒は新しい革袋に」とはイエスがお語りになった言葉の中でも最も知られている言葉のひとつですが、イエスの言葉であるということを知らずに使っている人もいるでしょう。社会の中に新しいものが生まれる時には、新しいものを受け入れる心構えと、古いものを思い切って捨てる覚悟とが必要だというような意味での用いられ方をされると思います。新しい社会の仕組みや新しい技術、たとえば、鉄道や自動車が世の中に現れた時、「わたしはこれからもずっと馬に乗る!」とか「わたしはかごに乗る」と言っても、そんなことはできません。戦争に敗れて新しい平和な民主主義の時代を迎えた時、「どこまでもわたしは武器を持って戦うのだ」と抵抗しようとしてもそんなことはできないのです。古いものを引きずっていては、新しい時代に生き残ることはできないのです。

 イエスがこの言葉をお語りになった背景には、古いユダヤ教からの脱却という動機が働いていたと思います。具体的には、断食をめぐる問答がイエスと人々との間で起こったのです。ユダヤでは悲しみの時、嘆きの時、罪を犯した時などに、欲を断ち、心を神に向けることに集中し、罪を悔い改めて祈りに専念するために断食が行なわれました。

 しかし罪の悔い改めと言っても、どこまで断食をして祈れば、人間が改まるのでしょう。まことの救い、完全な救いが実現されなければ、どこまで行っても悔いるばかりで、ちっとも改まることがありませんが、メシアであり神の子であるイエスは、どんな人でも真の悔い改めに至らせるまことの救いの道を開くためにこの世に来て下さったのです。イエスと弟子たちとの関係においては、師と弟子の関係を越え、メシアとその救いに与る者という新しい人間のありようがそこに実現されているのです。