教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.25

宇田慧吾牧師

今日は、ローマの信徒への手紙11章11-24節を読みます。

11:11では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。11:12彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。

11:13では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。 11:14何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。 11:15もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。 11:16麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。

11:17しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、 11:18折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。 11:19すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。 11:20そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。 11:21神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。 11:22だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。 11:23彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。 11:24もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。

《メッセージ》

①神は人の失敗や悪事も善に用いる

パウロは、ユダヤ人が信仰を離れてしまったのはどうしてだろうかと問います。

そして、それは異邦人に救いがもたらされ、もう一度ユダヤ人が奮起させられるためだったと答えます。

「ユダヤ人が信仰から離れてしまった」という部分だけ見れば、残念な出来事でしかないのですが、その出来事から「異邦人に救いがもたらされる」「ユダヤ人が奮起させられる」という明るい結果が生じています。

聖書の神さまは、人の不信仰や失敗、悪事さえも、良い結果に結びつくように利用されます。

②初穂が聖なら、全体も聖

「麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり」という言葉がありました。

「初穂」は、収穫の際に、まず神さまにささげるものです。

日本にもそういった習慣がありますが、旧約聖書にもそのきまりが細かく書かれています。(レビ記23:10-14)

初穂を捧げる目的は明確には書かれていませんが、おそらくは神への感謝でしょう。

作物が天の恵みであることへの感謝ですよね。

初穂を捧げるということは、もちろん初穂だけでなく、作物全部を天の恵みとして感謝しているわけです。

ということは、私たちが初穂と同じ田畑に植わっていれば、初穂ほど上等の出来ではなかったとしても、同じ神の恵みとして感謝するということになります。

聖書における初穂である「イエス・キリスト」や「イスラエルの民」は、信仰の模範を示してくれるありがたい神の恵みです。

同じように私たちも、初穂ほど上等でなかったとしても、互いにありがたい神の恵みです。

③根があなたを支えている

私の地元は茨城県の水戸市なのですが、偕楽園という庭園があります。

日本三大庭園の一つで、梅の花が美しいです。

梅の木は接ぎ木をすることが多いそうです。

丈夫な種類の梅に、咲かせたい種類の梅を接ぐのですね。

パウロは私たちのことを「接ぎ木された枝」と表現しています。

もともと自分で生えてきたのではなくて、良い木に接いでもらったのですね。

「あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えている」

根そのものが丈夫で良いものなのですから、私たちは根につながっていて、栄養を受け取ることが肝心ですね。

《おまけ》

教会の中庭に高校生や青年たちと畑をつくりました。

ネギ、ハト麦、さつまいも、ハブ茶、オリーブ、イチジクが植わっています。

「畑らしくなったな~」と思っていたのですが、

農家さんが見て一言「飢餓状態ですね」とのこと。

土の栄養が足りず、本当はもっと背が伸びるのに低いままだったり、もう伸びられないから早くに花をつけてしまったりしているそうです。

なるほど。

当たり前のことですが、よく知った人に見てもらうというのは大切ですね!

2020年7月5日

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.24

宇田慧吾牧師

 今日は、ローマの信徒への手紙11章1-10節を読みます。

11:01では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。 11:02神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。 11:03「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。」 11:04しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。 11:05同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。 11:06もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。 11:07では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。 11:08「神は、彼らに鈍い心、見えない目、聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」と書いてあるとおりです。 11:09ダビデもまた言っています。「彼らの食卓は、自分たちの罠となり、網となるように。つまずきとなり、罰となるように。 11:10彼らの目はくらんで見えなくなるように。彼らの背をいつも曲げておいてください。」

 

《メッセージ》

 信仰を持って生きる時には、深い孤独を感じることがあります。

 そういった時は霊的に成長するチャンスです。

 三つ、今日の聖書のポイントを見てみましょう。

 

① なぜ寂しさを経験するのか

 「神は御自分の民を退けられたのであろうか」という問いから話が始まります。

 昔、函館ラ・サール高校で修道士のブラザーに出会ったことをきっかけに、上智大学の神学部を受験した青年がいました。

 シスターは女性の修道士、ブラザーは男性の修道士ですね。

 彼にとって、ブラザーとの出会いは重要なもので、その出会いからキリスト教に関心を持ったそうです。

 神学部を志しましたが、結果は不合格でした。

 1年間、浪人生活をしました。その間、「神さまは自分を見てくれていないのだろうか」と感じたと話してくれました。

 彼は後に、別の大学の神学部に進むことになり、今も信仰を持って生きています。

 「神さまは自分を見てくれていないのだろうか」

 その寂しい気持ちのこもった言葉は印象深く私の心に残りました。

 「神は自分の民を退けたのか」という問いに対して、パウロは「決してそうではない」と答えています。

 では、そういう寂しさの経験はなんのためにあるのかということが11章全体のテーマになっています。

 

② ひとりぼっちにしない

 旧約聖書の登場人物、預言者エリヤは逆境に追い込まれた時、「わたしはひとりぼっちです」と神に訴えました。

 神の返答は「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」でした。

 孤独を感じているエリヤに対して、神は残された仲間の存在を示唆しました。

 パウロは「同じように、現に今も」と言っています。

 現に今も、神さまは私たちに支え合う仲間を与えてくれています。

 「寂しさ」や「孤独」は、私たちが支え合う土台です。

 どんな人でも、人生の中で寂しさや孤独を経験するかと思いますが、マザー・テレサが亡くなられた後に公開された手紙の中で、彼女もまた孤独を抱えながら生きていたことは大きな話題となりました。

 「あなたはイエスの愛を受けている。わたしはといえば、むなしさと沈黙にさいなまれている。見ようとしても何も見えず、聞こうとしても何も聞こえない」

 「わたしの信仰はどこへ消えたのか。心の奥底には何もなく、むなしさと闇しか見あたらない。神よ、このえたいの知れない痛みがどれだけつらいことか」

 こういった心の声をマザー・テレサは親しい友人に手紙で書き送っていました。

 弱い部分も含めて、自分の心の内を分かち合える仲間の存在は尊いものです。

 

③ 神の最善の選択の内にある

 パウロは信仰に導かれたのは、自分の選択ではなく、神の選択によるという実感を持っていました。

 そのことから、信仰的に充実している時も、そうでない時も、すべての時が神の最善の選択の内にあることを信じていました。

 寂しさが支え合いにつながっているように、自分の目には良さが分からない出来事や状態もちゃんと良いことにつながっています。

 

《おまけ》

 お互いのどこが好きかという話になった時、「悩んでるところ」と言ってもらったことがありました。

 私はいつも悩んでいる人でした。

 大学時代には「宇田くんはいつも全世界の悩みを背負ったような顔をしているね」と言われたこともありました。

 そして、自分も自分のそんなところが嫌いではありません。

 同じように悩みがちな仲間とたくさん出会えましたので。

2020年6月28日

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.23

宇田慧吾牧師

今日は、ローマの信徒への手紙10章14-21節を読みます。

10:14ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。 10:15遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。 10:16しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。 10:17実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。 10:18それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。 10:19それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、「わたしは、わたしの民でない者のことであなたがたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。 10:20イザヤも大胆に、「わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。 10:21しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。

①「聞くことによって始まる」

「読む」「探す」「求める」ももちろん良いことですが、能動的な気持ちが強い時には自分の関心の範囲内のものしか目に入らないこともあります。

力を抜いて、「聞く」、語りかけられるメッセージに耳を傾ける。受け取る。

「自分の外」から来るものに心を開いてみましょう。

②「伝える人」

教会に集まっている人たちの多くは、神さまのメッセージを「聞いた」人たちです。

メッセージを受け取ることで、それぞれに「救われた」という実感を持っています。

そういったキリストに救われた人たちを教会では「キリスト者」(Christian)と呼びます。

キリスト者は「私は救われました」という経験を伝える存在です。

その「伝え方」は様々です。

音楽で、福祉活動で、文筆で、農業で、チラシ配りで・・・etc

私が過ごしてきた教会では、「日頃の行い」「小さな言葉かけ」「生き方そのもの」で自分が受け取ったものを伝えている方が多かったです。

特技のある方は、大いにその才能を用いて伝えることはすばらしいと思います。

一方で、「私にはこれといった才能もない」という方も、自分が「聞いた」「救われた」という原点を大切にしながら生きていくことで、十分な神さまへのご奉仕だと思います。

ちなみに、聖書もキリスト者が「伝える」ために書いた書物です。

一言一句を理解することは難しいですが、書かれていることの急所は「私は救われた」ということです。

③「聞こえない時」

聞くには聞いたけど、聞こえない時もあります。

心に届かないということですね。

そういう時の神さまの気持ちが書かれていました。

「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」

届かない時にも、神さまは手を差し伸べて、待っていてくれます。

《おまけ》

私は両親が教会に通っていたこともあり、子どもの頃から教会に通っていました。

ですので、子どもの礼拝で聖書のお話を聞いていたはずなのですが、あまり記憶には残っていません。

小学校低学年で教会には行かなくなり、その後教会とのつながりは夏のキャンプやクリスマスといった季節のイベント程度でした。

中高生になった頃には、学校生活に夢中で、すっかり教会のことも忘れていました。

ところが不思議なことに、18歳で人生に一番悩んだ時に、「神さまはね、いつも君と一緒にいて、君を守ってくれているんだよ」という牧師の言葉がふと心によみがえってきました。

子どもの頃に聞いた言葉を心で受け取るまでに、十数年の歳月がありました。

その間、私は教会を忘れていましたが、教会の方たちや両親が、愛をもって見守り続けてくれていたことが今はよく分かります。

2020年6月21日

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.22

宇田慧吾牧師

今日は、ローマの信徒への手紙10章5-13節を読みます。

10:05モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。 10:06しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。 10:07また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。 10:08では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。

10:09口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。 10:10実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

10:11聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。 10:12ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。 10:13「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

①遠くに探しに行かなくていい

「自分探しの旅」という言葉は、一時ブームになりましたが、最近は揶揄されることも増えました。

旅に出たものの、帰還しない人も多いようだからでしょうか。

「救い」についても、遠くに探しに行く必要はないようです。

神さまのメッセージは「あなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」とのことです。

②「口 → 心?」「心 → 口?」

「口で…公に言い表し、心で…信じるなら、救われる」10:9

「心で信じて…、口で…公に言い表して救われる」10:10

順序が逆の言葉が並んでいます。

「どっちなの?」と思ってしまいますが、どっちとも言えないからこう書いているようです。

心の中で密かに思っているだけよりも、人前で話すことで、「自分はこう思っているんだな」と実感することがあります。

逆に、心の中で素直に思っているから、自然と言葉になるということもあります。

「救い」って何なんです?どういうことなんです?と質問されることがありますが、

こういう自然と言葉になる心持ちという風に言えるように思います。

要は、本当にそう思っている、心からそう思っているということです。

「救われた!」という分岐点になる経験を持っている人も持っていない人も教会にはいます。

ただ、共通しているのは、神への素直な感謝や信頼かと思います。

③だれでも救われる

聖書のメッセージはどんな人にでも届くものです。

「この人」には届くけど、「あの人」には届かないということはありません。

もちろん「こんな私」にも届きます。

「救い」を求める人は、どんな人でも聖書のメッセージを受け取ることができます。

2020年6月14日

《おまけ》

私は「遠くに探しに行く」「やたら決意する」「こんな自分ではいけない」というタイプの人間でした。

意図してそうしていたわけではないのですが。

だんだんと「大切なものはもうここにある」「素直な気持ちでOK」「こういう自分でOK」という私に変化してこれたのは、教会での出会いのおかげです。

一所懸命に道を探していた昔の自分には「がんばったね」と声をかけてあげたいです。そして、今の自分には「帰ってこれてよかったね」と言ってあげたいです。

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.21

宇田慧吾牧師

今日は、ローマの信徒への手紙10章1-4節を読みます。

10:01兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。 10:02わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。 10:03なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。 10:04キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。

 「よい」とはどういうことかが今回のテーマです。

 キーワードは「神の義と自分の義」です。

 まず、お話の背景として、パウロの経験をふりかえります。

 パウロはよく生きることにもともと熱心な人であったようです。有名な先生に師事したことや律法の実践に熱心であったと語っています。

 そのような熱心さの中でパウロには失敗経験がありました。それは、自分の正しさへの自負ゆえ自尊心を膨らませ、正しくないように見える他者を裁くという失敗でした。

 どんなに真剣に生きようとしていても、そのような「正しさ」は本当の「よい」生き方ではないとパウロは思うようになりました。

 逆に、本当の「よい」生き方は、自分に正しくない部分があることを受け入れ、他者を赦す生き方だと考えるようになりました。

 パウロがそのように変化したきっかけは、イエス・キリストに深く出会ったことでした。

 キリストは自分が「よい」と思う生き方をする人ではありませんでした。神が「よし」とする生き方を祈りながら求める人でした。

 キリストが示した神に「よし」とされる生き方は、自分の罪に気づき、神の赦しを知ることでした。

 「わたしにはその『罪』というものがよく分からない」

 「そんなに悪い生き方はしていない」

という方もおられるかと思います。それは自然な感じ方だと思います。

 「罪」の自覚は何かの出来事をきっかけに突発的に深まる場合もあれば、時間をかけて自分の罪深さを自覚していくという面もあります。

 私は、恥ずかしいことに洗礼を受けた頃には「罪」について無知でした。

 ただ、孤独感が深くなった時に「神さまはいつもそばにいてくれる」ということを実感し、このように自分を救ってくれた神さまのために生きていきたいと思って洗礼を受けたのでした。

 信仰を持ってから、自分の罪に向き合うようになりました。

 自分が簡単に孤独に戻り、人に頼って孤独を埋めようとすること。

 あの人のためにという無垢な気持ちと裏腹に自分の望む結果に固執すること。

 自分のプライドが壊れないように、てきとうな敵をつくって非難すること。

 ・・・

 思い起こせばいくつでも書けそうです。

 そういった自分のトンチンカンな部分には自分の内省では気づくことができませんでした。

 教会や生活の中で、成熟した人に出会うことで時間をかけて自分の罪に気づかされてきました。

 自分が経験している問題を、既にクリアしている人に出会うと、気づかされたり励まされたり見通しが立ったりします。

 信仰を持って生きるということは、イエス・キリストをその気づきの中心に置くということだと思います。

 聖書に記録されているキリストの生涯に向き合うと気づかされることが多いです。

 特に「罪」のこと、自分の罪を知り、その罪を神は赦していると知ると、不思議と励まされます。

2020年5月31日

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.20

宇田慧吾牧師

 今日は、ローマの信徒への手紙9章19-33節を読みます。

09:19ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。 09:20人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。 09:21焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。 09:22神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、 09:23それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。 09:24神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。 09:25ホセアの書にも、次のように述べられています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。 09:26『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」 09:27また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。 09:28主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」 09:29それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう。」
09:30では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。 09:31しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。 09:32なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。 09:33「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。

 

 前回、人の意志や努力では動かし得ない出来事については、神の意志のもとにあることを信頼しましょうというお勧めがなされていました。

 このようなお勧めに対して、一つの問いが投げかけられます。

 「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか」

 時に、理不尽に思われる出来事を経験することがあります。

 なぜ神はそのような出来事を与えるのか、止めないのかという疑問が投げかけられています。

 私も牧師として奉仕するようになってから、様々な方の人生のお話をうかがうようになりました。

 中には、どうして神さまはこのような苦しみを与えるのだろうと感じる時もあります。

 このような「神に対する『なぜ』の問い」に今回の聖書箇所は次のことを勧めています。

 「『なぜ』の問いを手放し、信じて待つこと」

 パウロは「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か」と少々厳しい言い方をしていますが、これは聖書の「ヨブ記」を背景とした言葉です。

 ヨブ記はある日突然、財産・家族・健康を奪われてしまった人が、苦しみについての問答を経て、神の救いを確認する物語です。

 大切なポイントは、神の用意してくれている救いの道のりについて人は無知であるということです。

 物語の最後に登場する神さまは開口一番こう語りかけます。

 「知識もないまま言葉を重ね、主の計画を暗くするこの者は誰か」(ヨブ38:2)

 神さまからしたら、最良の計画を用意しているのに、『なぜ』とばかり問われるのは心外なのでしょう。

 苦しい時に『なぜ』と問うのは自然な気持ちですが、聖書は『なぜ』の問いに縛られすぎないことを勧めています。

 そして、信じて待つことを勧めています。

2020年5月24日

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.19

宇田慧吾牧師

 今日は、ローマの信徒への手紙9章1-18節を読みます。

09:01わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、 09:02わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。 09:03わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。 09:04彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。 09:05先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。

09:06ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、 09:07また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」 09:08すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。 09:09約束の言葉は、「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。 09:10それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。 09:11-12 その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。09:13「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。

09:14では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。 09:15神はモーセに、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。 09:16従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。 09:17聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。 09:18このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。

 意志の強さや努力が人生を切り拓く力であることは間違いないですが、同時に、人の意志や努力では動かすことのできない物事も少なくないことを忘れずにおきたいものです。

 最近私は介護に関する本を読むことが増えたのですが、老いていく親の姿を目の当たりにして人生観が変化する事例が紹介されていました。

 しっかりしていた親が老い、当たり前にできていたことができなくなっていく様子を見て、ショックを受けるのと同時に、「自分もいつかこういう時がくるのだ」と考え始めるそうです。

 人生の前半は自分の意志や努力で「上っていく」「積み上げていく」時期ですが、人生の後半は「下っていく」「手放していく」ことが増えていきます。

 そのような時、自分の「意志」や「努力」の他にも、頼れる拠り所がある人は本当の意味でたくましいのかなと思いました。

 今日の聖書にはこんな言葉がありました。

 「人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです」

 パウロは人の意志や努力で動かすことのできない物事は、神の意志のもとにあると信頼していました。

 その神の意志は、「自由な選び」「計画」と表現されています。

 人の視点で見ると、神の選びの自由さは時に不公平に見えます。また、悪人が栄えることもあり公正さに欠けて見えることもあります。

 けれども、長い経過を見てみると、不和から和解が生まれたり、圧政から解放が生まれたり、神さまの計画には人智を超えた配慮が行き届いています。

 パウロはそのような神さまの配慮に信頼していました。

 なにもパウロが苦労知らずだったから、そういう気長な信頼を持てたというわけではなく、パウロの心にも「深い悲しみ」や「絶え間ない痛み」がありました。

 そのような痛みがありつつも、人の意志や努力では動かせない部分について、パウロは神さまにお任せすることを選びました。

 人生の途中にも晩年にも、人の力ではどうにもできないことがありますが、そういう部分については神さまがちゃんと良い計画を準備してくれていると信頼できたら、ちょっと安心できそうですね。

2020年5月17日

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.18

宇田慧吾牧師

 今日は、ローマの信徒への手紙8章31-39節を読みます。

08:31では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。 08:32わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。 08:33だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。 08:34だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。 08:35だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
08:36「わたしたちは、あなたのために
   一日中死にさらされ、
   屠られる羊のように見られている」
と書いてあるとおりです。 08:37しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。 08:38わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 08:39高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

 前回はパウロがうめくような苦しみを感じていたこと、その中で神さまの支えを受け取っていたことが語られていました。

 今回もその「支え」についてのお話です。

 キーワードは「味方」です。

 神さまはいつも味方でいてくれるという実感がパウロにはありました。

 いつも味方でいてくれる誰かの存在は支えになります。逆に、敵対し、和解できないでいる他者の存在は人の心を弱らせます。

 敵対関係についてパウロは三つの言葉を挙げています。

「訴える」「罪に定める」「愛から引き離す」

 どんな人にも欠点がありますが、そのウィークポイントを他者から指摘されたり、責められたりするのは苦しいものです。

 一方、神さまはそういった私たちの欠点を全て受けとめ、痛みを引き受けたうえで、味方でい続けてくれる方です。

 皆さんには「いつも味方でいてくれる誰か」がいるでしょうか?

 私は両親がそのような存在であったことに感謝しています。

 他にもたくさんの方に「いつも味方でいるお手本」を見せていただきました。

 そういった周囲の人たちの支えに感謝しています。

 それと同時に、心の中の全てを打ち明けることができる神さまが、いつも味方でいてくれることは大きな支えです。

2020年5月10日

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.17

宇田慧吾牧師

 今日は、ローマの信徒への手紙8章18-30節を読みます。

08:18現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。 08:19被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。 08:20被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。 08:21つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。 08:22被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 08:23被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。08:24わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 08:25わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

08:26同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 08:27人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。 08:28神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。 08:29神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。 08:30神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。

 前回はパウロの抱えていたジレンマがどのように解決されたかが語られていました。

 ポイントは「罪の赦し」「霊的な支え」「幼子のように神に頼る」でした。

今回は「苦しみの意味」がテーマです。

パウロはキリストの救いを経験した後にも、苦しみが消えたわけではありませんでした。

むしろ、苦しみの意味に目が開かれました。

パウロは苦しみの先にとても良いものがあると信じていました。

また、今ある苦しみも神の意志のもとにあると信じていました。

一般に苦しみはマイナスに捉えられますが、パウロはそうは捉えなかったようです。

逆に、忍耐や希望を生み出す源と捉えています。

聖書には次のような言葉があります。

「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる」詩編126:5
「悲しみは喜びに変わる」ヨハネ福音書16:20
「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」ルカ6:21
「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」ロマ5:3-4

苦しみや涙はそのままでは終わらず、喜びや希望につながっているというのが聖書の基本的な捉え方です。

また、パウロは「聖霊の助け」についても語っています。

「霊が弱い私を助けてくれる」
「どう祈るべきか分からない時にも、言葉にならないうめきを執り成してくれる」

一般に、困難は助け合いや支え合いを生みます。

信仰を持って生きる人の場合、困難な時、神さまが助け、支えてくれます。

「万事が益となる」とパウロが言っている通り、すべての苦しみは苦しみのままで終わらず、希望や忍耐や助け合いを生みます。

2020年5月3日

5月2日礼拝メッセージ@園部会堂 「人生を見守ってくれている他者」

宇田慧吾牧師

 3週間、高校生たちと太宰治の『人間失格』を読んできました。読み終えると、どーんと大きなものが心にもたれかかってくるようで、やはり名作です。

 主人公の葉蔵には嘘をついてしまう癖がありました。本人は性癖と言っていますが、悪意でもなく、何かのためにということでもなく、とにかく自然と嘘を言ってしまうのでした。自分の本心を言えない人なのでした。

 本人も自分の問題を自覚していて、「もし神さまが、自分のような者の祈りでも聞いてくれるなら、いちどだけ、生涯にいちどだけでいい、祈る」と切実に問題の解決を願ってもいました。けれども結局、自分を偽って生きる癖は改まることなく、彼の弱さに惹かれて支えようとする女性たちを不幸にしていくのでした。

 葉蔵自身の生涯は最後まで希望を見出すことなく、ただ無常を悟ることだけが描かれています。一方、物語の最後はバーのマダムの印象的な言葉でしめくくられます。

「私たちの知ってる葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、…神さまみたいないい子でした」

 葉蔵は自分の人生を「人間失格」と見なしていました。一方、葉蔵に出会った周囲の人たちは弱く苦しんでいる彼を案外素直に愛していたようです。

 人生は自分一人の視点で完結するものではありません。自分では解決できない弱さや癖や苦しみが、出会いの中で愛や慈しみを生み出すことがあります。自分視点の良し悪しに囚われすぎず、時折、私を見守ってくれている他者の存在に心を向けたいものです。

 私を見守ってくれている他者は、身近には家族や人生の中で出会わされた人たちかと思います。聖書はそういった人間同士の支え合いを勧めると共に、神さまもまた私たちを見守ってくれている他者なのだということを語りかけています。神さまを信じて生きている人にとって、自分では自分を肯定できないような時にも、神さまが深い愛をもってそばにいてくれることはありがたいことです。

 今日の聖書箇所にはパウロが神さまからどのように見守ってもらっていたかが書かれています。パウロは救われてからも、「うめく」ような苦しみを持っていました。そのようなうめきの中で、パウロは神さまの支えを受け取っていました。

「同時に希望を持っています」
「忍耐して待ち望むのです」
「霊も弱いわたしたちを助けてくださいます」
「万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」

 パウロはうめくような苦しみも神さまのご計画の内にあって、希望につながっていると信じていました。このように自分の視点では苦しい出来事や状況を、神の視点、大きな視点、長い時間の中では「万事が益となる」と信じることを教会では「導きを信じる」と言います。

 導きを信じて生きてきた信仰の先達者たちは、人生の困難の中で希望を持ち、人を愛し、信じ続ける生き方の美しさを証ししてくれています。人生を支えてくれている他者の存在に心を向け、しなやかに粘り強く生きていきたいものです。