教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.3

宇田慧吾牧師

 先日「なんたんええ活動団体大賞」を受賞しました。

 2年程前から、教会を地域の子どもたちに開放して、居場所つくりの活動をしてきました。

 「居場所」は昔から教会の得意分野です。

 無条件で、何も要求されず、自分らしくあれる場、教会はいつの時代もそんな場であれることを願ってきました。

 活動を支えてきてくださった地域の保護者の皆さま、学校、行政、NPO法人テダス、教会の皆さま、そして子どもたちに心から感謝します。

 さて、今日は【ローマの信徒への手紙 1章18-25節】を読んでいきます。

 01:18不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。 01:19なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。 01:20世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。 01:21なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。 01:22自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、 01:23滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。 01:24そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。 01:25神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。

①「あらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます」(1:18)

 『神は何について怒るか』が語られています。

 神は、信頼してもらえないこと(不信心)と正しくないこと(不義)について怒ります。

 怒りと言っても様々な種類があると思います。今の朝ドラ「スカーレット」に描かれる昭和の父親像のような、ちゃぶ台をひっくり返す、子どもが口答えすればビンタする、そういう理不尽に見える怒りもあります。また、親や保育園の先生が子どもを叱る時に、粗相に伴う子どもっぽさを心の中では「ふふっ」と微笑ましく思いながらも大人として語調を強くし怒るということもあると思います。お坊さんの「喝」や昔の牧師の一喝には、相手のにぶった心を目覚めさせる爽やかさがあったとも言います。

 最近の社会では、怒りはネガティブな感情表現として隅に追いやられているようにも感じますが、愛に裏打ちされた怒りというものがあることも、多くの人が経験的に知っていることではないでしょうか。

 「神が怒る」という時にも、その怒りは愛に裏打ちされた怒りです。

 「あなたの人生の全てを深い配慮をもって整えているのに、どうして信頼してくれないのか!」
 「信じて待ってくれれば、いまどれほどの喜びの種が蒔かれているのか分かるのに!」
 「そんなに策を巡らし、自分の力でなんとかしようとやっきにならなくても、ちゃんと私がすばらしいエンディングを用意しているのに!」

 そんな声が天から聞こえてきそうです。

 わたし自身、自分の心をふりかえると、神さまの配慮に信頼して安らぐことなく、自分の力で何とかしようともがき苦しんでいる自分を見つけます。そういう時の心は不安でたまらなかったり、不安をごまかすように強気になってみたり、焦りを繕うために過剰な行動をしたりしています。

 そういう苦しい心の時には立ち止まって、

 天に信頼する。
 神にすべて委ねる。

 そうお祈りすることで、心が平安になります。

 

②「造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです」(1:25)

 神に信頼しない場合、神以外のものに依存するという人間の習性が指摘されています。

 神に信頼するとは、
「無条件に愛されていること」
「生きているだけで価値があり、役割を果たしていること」
「他者を愛して生きることに自分の幸せがあること」
そういったことを信じることです。

 そういったことが信じられない心の状態はしんどいと思います。

 愛されるために、努力し、自分を飾り、自分ではない誰かになろうとすることがあります。

 自分の存在に価値を感じられなかったり、自分は必要とされていないと感じたりして、過剰で愚かしいアピールに走ったり、逆に心を閉ざす時があります。

 他者を愛そうとせず、自分が愛されることばかりを求め、穴の開いたバケツのように心が虚しくなることがあります。

 私の場合は、名誉や快楽で心の虚しさを補おうとした時期がありました。やってみて分かったことは、自分の場合そういったものでは心は満たされないということでした。

 逆に、神に信頼する生き方を選択するようになり、聖書が伝える神の愛を信じて生きるようになってからは、これまで頼ってきた名誉や快楽を自然に手放すことができました。それらは自分には必要がないものになっていきました。

 自分の力では断ち切ることのできないアディクション(依存)が誰にでもあると思います。聖書はそういったものから解放されていく方法として、神や真理に信頼することを勧めています。

 心を良いもので満たすことが、心の虚しさに対抗する方法であるようです。

2020年1月19日

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.2

宇田慧吾牧師

 どうもこんにちは。

 いかがおすごしでしょうか(^^)

 昨日は教会でヴァイパーという楽器のコンサートがありました。「ヴァイパー」ご存知ですか?ご存知でない方がほとんどかと思います。なんせ20年程前にアメリカで開発された楽器で、日本のヴァイパー専門奏者は1名しかいないそうです。

こんな楽器です↓ (奏者は大城敦博さん)

大城敦博さんソロライブ」記事はこちら

 「エレキヴァイオリン」とでも言ったところでしょうか。電気を使うことで、ヴァイオリンの高さからチェロまでの低さまで奏でられるという夢の楽器です。

 さて、今日は【ローマの信徒への手紙 1章8-17節】を読んでいきます。

 01:08まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。01:09わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、01:10何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。01:11あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。01:12あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。01:13兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。01:14わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。01:15それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。

 01:16わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。01:17福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 印象的に感じたポイントを三つ挙げますね。

①「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します」(1:8)

 神への感謝からパウロは手紙を書き始めました。手紙の冒頭を相手への感謝で始めることは一般的なことだったようです。一方、相手ではなく神に対する感謝で始めるのは珍しいことだったようです。

 パウロにとってそこに教会があるという事実は嬉しいことだったでしょう。自分と同じように神に出会った人たちがそこにいるのです。

 そんなパウロの気持ちを考えると、私も教会にいるお一人お一人について神に感謝したいと思わされました。それぞれ神に出会い、導かれ、今ここにいて、お出会いできたことを嬉しく思います。

 家族についても同じことを思いました。人生を導かれて生きてきて、出会わされ、今一緒にいること。今日まで相手のことを神さまが導いてきてくれたことに感謝したいと思わされました。

 また、他者について神に感謝することは怒りの防波堤になることに気づきました。先日、ひょんなことから強い怒りを感じ、とても心が苦しくなる経験をしました。けれども、その相手について感謝することを思い浮かべるうちに、怒りより感謝が優ってきました。結果、怒りをそのままぶつけることもなく、自分の怒りの原因が相手ではなく自分の中にあることにも気づくことができました。

 怒りは時にコントロールが難しい感情ですが、感謝は怒りを操舵してくれます。

②「あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」(1:12)

 「自分で自分を励ますことはできない。励ましには他者からの語りかけが必要である」

 そんな言葉があります。

 当たり前のことでも、人に言ってもらえると、励まされることってありますよね。

 また、そういう自分の心に配慮してくれる他者の存在そのものが支えになりますよね。

 教会の場合、同じ神さまに支えられて生きている仲間の存在がお互いの励ましになります。共に礼拝に集まること、一緒に賛美歌を歌うこと、一緒に祈ること、そういう仲間の存在は私にとっていつも励ましになっています。

③「わたしは福音を恥としない」(1:16)

 パウロは恥とは縁遠い人生でした。むしろたくさんの名誉を持っていました。けれども、キリスト者となり、自分がイエス・キリストに救われた経験を話すようになってからは、笑われたり、怒りを買ったり、理解されなかったり、たくさん恥をかきました。

 一方で、パウロの言葉に救われた人たちもたくさんいました。自分がイエス・キリストに救われたことを恥とせず、率直に経験したことを語ることで、助けられた人たちがいました。

 この前、教会の書棚を整理していたら、昭和26年の教会のジュニアキャンプの作文が出てきました。参加した小中学生が書いた作文なのですが、多くの子がキャンプファイヤーのことを書いていました。

 とにかく楽しいキャンプを過ごし、最後の夜のキャンプファイヤーで一人ずつ声に出してお祈りをしたそうです。ある子は「初めてお祈りをした。お祈りをするとなんとなく心が落ち着いた」と書いていました。また、ある子は「自分はクリスチャンホームで育ったけど、お祈りをしたことがなかった。これまでお祈りをしなかったことを恥ずかしく思った」などと書いていました。

 昭和26年の子どもたち、まじめですね(^^;

 教会にいつも遊びに来てる高校生と20代の青年とたき火をしてる時にそんな作文の話をしたら、「なんか、洗脳キャンプみたいですね」とのこと….!

 「確かにね」と笑いつつ、それからあれこれ話しているうちに、最後は「生きる意味とは・・・」みたいな話になりました(笑)

 伝わるか伝わらないかより、素直な自分を話せるか。

 自分が本当に大切だと思っていることを言葉にできるか。

 そのことの方がずっと大事なのかなと思います。

 私は神さまに出会って本当に幸せです。

 そんな素直な気持ちを、無理なく、自然に、表現しながら生きていきたいと思っています。

2020年1月12日

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.1

宇田慧吾牧師

 「信者にはならないけど、聖書を学びたいという人のための講座をしてくれたらいいのに」

 昨年、このようなご意見をいただきました。ですので、しばらくそのような連載をします。

 ご意見をくださった方は福祉のお仕事をされる中で、その根底にあるキリスト教の精神を学びたいと感じられたそうです。

 また、この方はかつて教会に通い、洗礼を受けてもいます。けれども、教会特有の文化にどうしてもなじむことができなかったそうです。私自身もそのような教会特有の文化に居心地の悪さを感じた経験があります。ですから、この方のように「キリスト教に関心がある。学びたい。でも、教会のメンバーになりたいわけではない」という気持ちはよく分かります。

 この連載は「教会に通ってはいないけど、聖書を学びたい。キリスト教を知りたい」という方のためのものです。また、「かつて教会に通っていたけれども、今は離れてしまった」という方のためのものです。

 そういった方たちがいくらかでもインスピレーションを受けて、キリスト教のメッセージを仕事や生活に生かしていただけるような連載を書いていければと思います。

 具体的には、聖書の中の「ローマの信徒への手紙」という文章を読んでいきます。これは使徒パウロがローマ教会へ宛てて書いた手紙です。キリスト教のメッセージを自分のものとしていくためには、この手紙を深く理解することが重要だと言われています。キリスト教史の主だった人物たちの多くがこの手紙を愛読してきました。

 前置きが長くなってしまいましたが、早速、ローマの信徒への手紙を読んでみましょう。日本語の聖書にはいくつかの翻訳がありますが、ここでは新共同訳聖書の本文を載せておきます。カトリック教会や多くのプロテスタント教会で用いられているスタンダードな翻訳の一つです。

【ローマの信徒への手紙 1章1-7節】
 01:01キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、―― 01:02この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、 01:03御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、 01:04聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。 01:05わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。 01:06この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。―― 01:07神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

 気になる言葉はありましたか?
 私は「召されて」という言葉が印象的でした。少しだけ解説と私が感じたことを書きますね。

 パウロは今の自分の立場について、自分で選んだものではなく、選ばれ召された立場だと考えていました。「召す」は「呼ぶ・招く」の尊敬語です。もちろんここでは、神に呼ばれた・招かれたということです。

 パウロはもともとはサウロという名前でした。旧約聖書に出てくるイスラエルの最初の王様が「サウル」という名前です。サウロは高学歴な人であったようです。ガマリエルという有名な先生に師事していたことは自慢になる経歴でした。また、ファリサイ派という律法の実践に熱心なグループに所属していました。おまけにローマの市民権を持っていました。総じて、相当なキャリアや立場を持っていた人物と言えます。

 けれども、神に召された後は、そういった自分の人生の中で築き上げてきた一切が「塵あくた」「損失」と感じるようになったそうです。召された時にサウロからパウロに改名していますが、パウロは「小さい」という意味です。神に召されたことはパウロにとって文字通り人生のターニングポイントでした。パウロの価値観や生きる目的、意味は神に召される経験をすることで大きく変わりました。

 「召される」という経験を皆さんはお持ちですか?その出会いによって大きく人生を変えられた。その出会いによって今の自分があるというターニングポイントがありますか?

 私は牧師ですからもちろん神さまに召された経験があり、教会で働いています。でも、キリスト教と直接には関係ないことでも召される経験をしてきたように思います。

 小学生の時、私はどうしようもない問題児でしたが、ある先生との出会いによって救われる思いがしました。その後、学校の先生になりたいと思った時期もありました。学校の先生にはなりませんでしたが、今でも子どもと関わる活動では、あの先生が自分にしてくれたことがベースになっています。そんな今の自分をつくってくれた出会いは、自分で選んだ経験ではなく、向こうから来た経験だなと思います。

 思い浮かべると、そんな与えられた出会いが人生の中にいくつもあります。その一つ一つが自分をつくり、引き受けていくべき役割を定めてくれているように思います。

 人生にはうまくいく時もそうでない時もありますが、どんなときも自分の召された役割に忠実であれたらそれでハナマルかなと思います。

2020年1月5日

《説教要旨》「復讐せず」ローマの信徒への手紙12章9-21節

片岡広明牧師

 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。(ローマ 12章19節)

 パウロは今日の箇所でキリストの福音を実践していくにはどうすべきかということについて、「愛には偽りがあってはなりません。」と、真実な愛の実践を勧めています。どんなに愛の人を装っていても、人はごまかせても、神様に対して偽ることはできないのです。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」の御言葉もよく知られています。うわべだけでなく心から喜びも悲しみも人と分かち合える者でありたいと思います。

 19節には「自分で復讐せず、神の怒りにまかせなさい。」とあります。きっとローマにあるキリスト者たちが置かれていたのは、とてもつらい立場であったのだろうと思います。十字架で殺されたイエスが神の子キリストであるということは当時のローマの多くの人々からすればたわごとのようにしか思われなかったことでしょう。そのために彼らは苦しめられ、迫害されていたでしょう。自分たちを苦しめる者に対して怒りや復讐心を抱くことも無理からぬことかもしれません。それはローマにあるキリスト者だけの問題ではなく、キリスト信仰など愚かなことであると考える不信仰な世にあって苦労するキリスト者がいつでも直面することなのです。しかしイエスが十字架の犠牲を払って示された愛は限りなく深く広いものでした。この世にあってどんなに苦しめられ、虐げられ、迫害されるようなことがあっても、決して人に対して恨みを抱いたり、復讐心を燃やすことなどがあってはならないのです。8月は平和のために祈る月です。個人と個人との間に平和を造り出すことは、国と国、世界の平和へと広がっていくものだと思います。戦争によって復讐や報復が繰り返されてきた世界の人々が神様の御心に立ち返り、平和な世界の実現へと向かっていきますようにと祈ります。

2019年8月18日 亀岡会堂