≪主の祈りの学び≫8「我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく我らの罪をもゆるしたまえ 」

宇田慧吾牧師

 主の祈りの中でいちばん質問が集中する祈りだといわれます。質問する方が言うことは「わたしは人をゆるすことができません。だとしたら、わたしの罪もゆるされないのでしょうか」というものです。

 とても誠実な問いだと思います。ある有名な牧師は「そういうことは真剣に取り組んでみてから言いなさい」とお勧めしたそうですが、わたしは質問者に同情的です。それは、わたしたちがいつも「人をゆるす」ということについて、日常の中で嫌というほどに取り組まされ、向き合わされているからです。

 小さいころ、悪いことをして怒られた時、最後に「もうしない?いい子になる?」と母が言うと、「いい子になんてなれない~!!」とわたしは泣いていたそうです。なかなか核心を突く少年だなと感心します。「いい人になる」「人をゆるす」どちらも自分自身の決意や信念によって実現できることではないように思います。それらは「いい人」との出会い、自分がゆるされる経験を重ねる中で、だんだんと身に着けていくことです。

「神はわたしたちの罪をひそかにゆるされ、
            わたしたちはそれを感じていない」M.ルター

 須知合同礼拝での聖書箇所は「仲間をゆるさない家来のたとえ」でした。自分は6千億円の借金を帳消しにしてもらったのに、仲間から100万円を取り立てるために首を絞め牢に入れた人の話でした。無慈悲で愚かしい人物ですが、わたしたちの姿でもあります。

 「ひとつゆるすと、ふたつの笑顔」をモットーに、「いただいているゆるしに気づかせてください」「わたしも人をゆるします」と心をこめて祈りましょう。