≪主の祈りの学び≫2「ものおぼえわるく」

宇田牧師

 「わたしたちにも祈りを教えてください」。そんな弟子の一人の言葉に答えて、キリストは主の祈りを教えました。

 主の祈りはマタイによる福音書6章9-13節とルカによる福音書11章2-4節に書かれています。けれども、少しずつ言葉が異なっています。その理由について、「ルカの方がシンプルなため、原型に近い」と言われることがありますが、平野克己先生の説く「なかにはおぼえの悪い弟子がいて、祈りの言葉の一字一句まで正確に暗記することができなかったのかも」という珍説には妙な説得力があります。

 おぼえの悪い弟子は「主よ、ごめんなさい。また忘れてしまいました。『願わくは御名を崇めさせたまえ』の次はなんでしたか」と繰り返し尋ねたことでしょう。でもきっと、キリストが教えてくださったこの祈りは、一度でおぼえてすらすらとそらんずるようなものではなく、繰り返し繰り返し教わる方がよいのかもしれません。

 主の祈りはとっくに暗記して、何十年も祈っているが、言葉の意味は素通りしている。そんなケースは珍しくないと思います。主の祈りを祈る度に、キリストに教えていただく、そんな「おぼえのわるさ」を自覚することが実は肝心なのかもしれません。

 主の祈りの「おぼえにくさ」には理由があると言われます。それは、祈りの言葉のひとつひとつがわたしたちの自然な心の動きに逆らってくること、ぶつかってくることです。自分の名が栄えることを願う私。自分の思い通りになる世界を求める私。今日一日分の糧を神に求めず一生分の糧を貯蓄しようとする私。

 ルターは主の祈りの講解の中で「私は無にされるように」と繰り返し言いました。悪い意志だけでなく、善い意志も無にされるようにと言いました。主の祈りは「私」を育てる祈りではなく、「私」を無にする祈りです。

 弟子たちは寝食を共にする旅をしながら時間をかけて主の祈りを教わりました。わたしたちも時間をかけて主の祈りを教わり続けるのがよいようです。無理に「私」を削るのではなく、主の祈りを教わりながら「私」に気づき、キリストと歩調を合わせていきたいです。