〈説教要旨〉ルカによる福音書23章32-43節

宇田慧吾牧師

 キリストは十字架にかけられた時、「自分を救ってみろ」と罵られました。中でも一緒に十字架にかけられた犯罪人からは「救い主ではないか。だったら苦しんでいる私のことも救ってみろ!」と言われました。そのような罵りに対して、キリストは沈黙していました。

 現代にも同じような叫びがあるように思います。「神さま、どうして私を救ってくれないのですか」。「神さま、どうしてこの世の悪を取り除かないのですか」。

 この問いに対して聖書が語ることは、神はイエス・キリストによって答えたということです。イエス・キリストは、一緒に十字架につけられているもう一人の罪人に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言いました。どうして十字架刑に処せられているただ中で、楽園と言えるのでしょうか。

 聖書の伝えようとする救いは、私たちが一般にイメージしている救いとは異なります。私たちがイメージする救いは、苦しみや問題を取り除くという意味の救いですが、神の救いは苦しみを共にする救いです。

 クリスマスには、神はインマヌエル(私たちと共におられる神)であることを聖書から受け取りました。この受難節には、神が私たちの苦しみを共にしていることを受け取ります。イエス・キリストが十字架で苦しんだのは、私たちの苦しみを共にするためでした。また、そのような苦しみの中にあっても、神との心の絆が失われないことを証しするためでした。

 十字架で息を引き取る直前、キリストは「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と告白しました。キリストは深い苦しみの中でも神への信頼を失うことはありませんでした。この姿を見届けた百人隊長、群衆の心に不思議な変化が起こりました。

【キーワード】①神は私の苦しみを共にしている。
       ②苦しみの中で、他者の苦しみに寄り添う。
       ③苦しみの中で神に信頼し、すべてを委ねる。

2019年4月13日 園部会堂

〈説教要旨〉「冬の実り」ルカによる福音書20章9-19節

宇田牧師

4月9日 須知会堂

 こうして娘はすくすく成長しています。体重も5kgになって抱っこも重くなってきました。元気に大きくなってくれてありがたいことです。この2カ月は嬉しい出来事が多くありました。無事にHさんが洗礼式を迎えたり、こどもの居場所つくり活動をNPO法人化するための設立総会を無事に終えたり。一方で、少し忙しすぎたようでもあり、心はちょっと疲れ気味のようです。嬉しい出来事も何だか心の上を通り過ぎて行くような、ありがたいことをありがたいと心から感謝できないような、そんな気持ちで過ごしてきた2か月間でもありました。原因は明らかで、少し忙しすぎたのです(^^;

 でも、良かったと思うのは、そんな中でも一度も落ち込んだり心が折れたりすることはなかったことです。むしろ、そういう心の疲れの中で、信仰の支えを度々感じました。生きることの大変さを背負いながら、希望をもって生きる姿を示してくれた信仰の先輩たちが頭の中に何人か浮かびました。自分もこういうしんどさの中で信仰を持って生きることを重ねていくことで、後の人たちの支えになれるのかな、とも思いました。

 心から感謝できない、いただいている恵みを実感できない、そういう心の状態の時が誰にでもあると思います。そんな時こそ「冬の実り」を収穫しましょう。手放しで嬉しい絶好調の時には気づくことができない、冬にしか気づくことのできない支えや励ましがあります。この2か月は心の淋しい冬でもありましたが、支えと励ましも多くいただき、だんだんと春が近づいてきたようです。