《説教要旨》「互いに愛し合いなさい」ヨハネによる福音書15章12-17節

宇田慧吾牧師

 教会には一つのおきてが与えられました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」。このおきてを実践する人にキリストは「わたしの友」と呼びかけます。友にもいろんな種類がありますが、ここでの友は同じ苦労を共にする仲間です。「互いに愛し合う」というおきてを実践しようとする人は、時にはその難しさを、時には心に深い痛みを引き受けることを経験します。そのような痛みを引き受ける人にキリストは友と呼びかけます。

 わたしはキリストのその呼びかけを受けとめる時、自分が友と呼ばれるにふさわしいか考えてしまいます。「互いに愛し合いなさい」というおきてに生きたいと願ってはいても、うまく守れている自身が持てないからです。そんな気持ちを話していたら、今日の園部の礼拝では涙が止まらなくなってしまいました。でも、そんな自分に向けてキリストは「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と言います。このおきてに生きる者としてキリストが私たちを選んだことを私は信じます。私のことだけでなく、今ここに集められている教会の一人一人をキリストが選び、出会わせ、「互いに愛し合いなさい」というおきてを実践させようとしていることを私は信じます。

 また、キリストは「実を結び、その実が残るように」私たちを任命しました。「任命する」の原語はシンプルには「置く」という意味です。私たちは「互いに愛し合いなさい」というおきてを実践する者として、今自分がいる教会に、家庭に、職場に置かれました。ちゃんと実を結ぶように神さまがこの場所、この私を選んでくれたことを私は信じます。

2019年5月19日 胡麻会堂

《礼拝の聖書箇所から》ヨハネによる福音書6章34-40節

宇田慧吾牧師

 昨日、家庭集会で断食についての話題がありました。聖書には時々、断食の話が出てくるのですが、断食ってなんのためにするんだろうね、と。その日のバイブルディスカッションを準備してくれた方がレジュメに書いてくれていた解説には「断食をすることには、私たちを神に近づける目的もあります」と書かれていました。もう少し引きつけて言うと、全てが満ち足りている時には神さまを忘れがちになりやすいから、飢えを経験することで、いただいている恵みを思い出すといったところでしょうか。
 現代の日本における最大の試みは豊かさだと言った人もいます。格差や貧困問題がある一方で、今の日本が過剰に物に溢れていることも事実かと思います。そのような物質的な豊かさが私たちの心をいつも満たしてくれるわけではないということは、当然のことでありながら、つい忘れがちになることでもあるように思います。ごはんを食べなければ飢えるのと同じように、心の糧を得なければ心は虚しくなります。もし人との温かい交流や感謝の心、思いやり、素朴な喜び、そういった心の糧がなければ、その日ごはんを食べなかったのと同じように心は飢えてしまいます。

 キリストは「わたしが命のパンである」と言いました。キリストは私たちに必要なその心の糧です。私たちはそれぞれ心を元気にする方法を持っています。好きな物を食べるとか、趣味に興じるとか、とにかく寝るとか。そのような余暇活動はもちろん心をリフレッシュさせる良いものです。でも、心を満たす糧かというと、また違うように思います。人の心を満たす糧は、余暇に比べれば、地味でささやかなものかもしれません。けれども、生きるためには食べなければいけないのと同じように、また時には心のリフレッシュが必要なのと同じように、生きるためには心を満たす糧が必要です。その心の糧とは何なのかをキリストは私たちに気づかせたり、思い出させたりしてくれます。

 今日はヨハネ福音書を読んでいますが、ヨハネ福音書には何度も繰り返し出てくる言葉があります。「わたしが来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」。今日の聖書箇所にも出てきていました。キリストが私たちに教えてくれる第一の心の糧は「神の御心に生きること」です。神の御心はシンプルです。神さまに愛されていることを喜ぶこと。神さまが私を愛してくれたように、人を愛すること。神さまが私を赦してくれているように、人を赦すこと。感謝を持って生きること。などなど。
 キリストは「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言いました。人生の途中には、心の飢えを経験することや心が渇く時もありますが、キリストの側にいれば大丈夫です。

 最後に、昨日の家庭集会で聞いた福音をおすそわけします。集まりの最初に、最近あった嬉しかったことを一人ずつ報告するのですが、特に一人の方の話が印象的でした。その方は先月手術を受けました。術後も体の痛みがあって、そういう中でなかなか祈ることができなかったそうです。こういう時こそ祈りをもちたいと思いつつ、祈りを持つことができない苦しさをすごされました。けれども、昨日こんな本の言葉に励まされたそうです。
 「絶望的な状況にいるとき、神様からのメッセージは「強く、また雄々しくあれ」(ヨシュア1:6)というものではありません。神様はあなたの中で力も勇気もつきてしまったことをご存知なのですから。代わりに神様は優しくこう言われます。『静まって、わたしこそ神であることを知れ』」。
 祈ることができない時、心が虚しくなる時、心が渇く時、こういう時が与えられるのは神さまを知るためです。神さまは私たちの心が満ちているのか、飢えているのかをいつも知ってくれていて、必要な時に心の糧をくださいます。

キーワード:「心の糧」
      「神の御心に生きる」

2018年5月12日 園部会堂