教会でおもしろいなあと思うことは、いろんな人と出会うことです。幼い子どもたちから高齢の方々まで年代は広く、それぞれの方々がいろんな違った働きをされていたり、いろんな考え方をもっておられたり、個性豊かな方々と出会います。教会に来ていなかったら、絶対に出会うことはなかったと思います。そんな出会いを神様が与えて下さったのです。 私自身、そんなに人付き合いがうまいわけではなく、かえって人見知りする質なのですが、教会でいろいろな人と出会ったことによって、自分の生きる世界が広がってきたと思います。以前いた教会では、パプアニューギニアから来ている人と友だちになりました。フランスから日本に働きに来ている人もいました。いろいろな悩みを抱えている人がいます。悩み苦しみをみんながそれぞれもちながら、互いのために神様に祈り、支え合うのです。 私自身も人に言えない悩みを「なぜですか」と神様に祈りの中で問いつつ、教会の仲間たちに励まされ支えられて歩んできました。教会につながる人々を結ぶ絆こそ、共にイエスを主と仰ぐ信仰なのです。
私が牧師になった理由は、聖書の御言葉に心を引かれたからです。初めて聖書の言葉にふれたのは小学生の時、ラジオから流れてきた「心の貧しい人々は幸いである」というイエスの御言葉でした。さっぱり意味がわかりませんでした。でもなぜかとても心にしみ入るような思いがしました。その頃から「もっとキリスト教について知りたい」という思いを持ち続け、高校生の時に思い切って教会を訪ねました。それからはずっと教会につながり続けています。 私自身は知性も教養もなく、つまらない男なのですが、とうとう牧師にまでなってしまいました。私のことはともかく、聖書の中には珠玉のような心に触れる言葉が汲めどもつきぬ泉のようにあふれています。とりわけイエスの言葉、そして十字架の死にまで向かっていくイエスの愛と勇気に満ちた行動。死を越えて永遠の命を現わされたイエス。そんな聖書の世界に強く心を引かれ、そのことを思い続け、理解を深めていきたいと願ってきました。これからももてる限りの力を尽くして聖書の御言葉を伝えていきたいと願っています。 そして私などはとても遠く及ばないほどに聖書に親しみ、かつ日々イエスが現わされた愛の実践をしている同信の友が教会には大勢おられます。その人たちに教会でいつも学ばせていただけること、そしてわたしのようなこんなしょうもない男が牧師として働かせていただけることは、言葉にできない大きな喜びであり、神様の豊かな恵みです。感謝です。