教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.7

宇田慧吾牧師

03:21ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。 03:22すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 03:23人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 03:24ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 03:25神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。 03:26このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。 03:27では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。 03:28なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。 03:29それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。 03:30実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。 03:31それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。

 前回は「律法によっては罪の自覚しか生じない」という考えに至ったところまで読みました。

 これまでは律法を忠実に実行している者としての自負を持ち、律法で他者を裁いてきたパウロにとってそのような気づきは大きな転換でした。

 さらにパウロは、自分の罪を自覚することで、もう一つのことにも気づきました。

 それは「神の義」と表現されています。

 シンプルに言えば「神の正しさ」ですが、その中身は場面によって多義的です。約束を守る誠実さ、公正さ、時には寛容さや慈しみも意味します。

 パウロが「神の義」と言う時には、「神と人との正しい関係」、端的に言えば「神は人を救う」ということを意味します。

 やさしく言い換えれば、人間の側からは正しい関わり方をできなくても、神の側から正しい関係を持ち続けてくれることです。

 罪ゆえに、自分の側からは神さまとの正しい関係を続けられなかったり、壊してしまったり、裏切ってしまったり、逸脱してしまうのに、その度ごとに神さまの側から関係を修復し、繋がり続けてくれるといったところでしょうか。

 そういう手厚い配慮を受けることについて、パウロは「何の差別」もないと言っています。神の側からそのような関わり方をするのは、その人が優れているとか、報酬に値するとか、そういった何らかの条件を満たしているからではなく、神の側からの「恵み」であり、「無償」で与えられるものなのだと言っています。

 ここでもう一つ重要なポイントが出てきます。

 このような関わり方をするうえで、神は痛みを引き受けているということです。「イエス・キリストによる贖い」とパウロは表現していますが、神は人と正しい関わりを保つために罪の代価を引き受けることを選びました。

 具体的には、イエス・キリストが十字架にかかったという出来事についてパウロは話しています。パウロはこの出来事を次のように受けとめました。

 「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです」。

 少し難しい言葉使いですが、要するに、人は罪ゆえに神との正しい関係を続けられずにいますが、神が全部尻拭いをして人とも正しい関係を回復してくれたということです。

 パウロの経験に即して言えば、パウロは律法を忠実に実践し、神に対して正しく生きてきたつもりでしたが、実際にはそうではありませんでした。熱心さのあまり償いようのない罪も犯してしまいました。そんなパウロのためにキリストは十字架にかかって、罪の償いを担ってくれました。パウロは神に対して正しく生きることができませんでしたが、そういうパウロに対しても神は正しい関係を保ってくれました。

 かつてパウロが目指した「正しい関係」は律法を忠実に守り実践することでしたが、神がパウロに示した「正しい関係」は赦すこと、相手のために痛むこと、関係を絶ち切らずにつながり続けることでした。

 そんな「神の義」に出会ってパウロの価値観が変化したことが二つ書かれています。

 一つは、「人の誇り」が必要なくなったこと。

 かつてはパウロのイメージする「正しさ」を自分は実践しているという自負をもって生きていましたが、そういう「人の誇り」は必要がなくなったようです。

 もう一つは「律法を確立する・全うする」ということがどういうことであるかについて考えが変化しました。

 かつては律法を忠実に実践することが「律法を確立・全うする」ことだと考えていました。けれども今は、律法によって自分の罪を知り、その罪を神が赦してくれいていることを知ることが「律法を確立・全うする」ことだと考えるようになりました。

2020年2月16日

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.6

宇田慧吾牧師

 さて今日は、ローマの信徒への手紙3章1-20節を読みます。

03:01では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。 03:02それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。 03:03それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。 03:04決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。 03:05しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。 03:06決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。 03:07またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。 03:08それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。 03:09では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。 03:10次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。 03:11悟る者もなく、神を探し求める者もいない。 03:12皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。 03:13彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。 03:14口は、呪いと苦味で満ち、 03:15足は血を流すのに速く、 03:16その道には破壊と悲惨がある。 03:17彼らは平和の道を知らない。 03:18彼らの目には神への畏れがない。」 03:19さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。 03:20なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

 前回までは、律法の役割について確認してきました。

 律法は、他者を裁くためではなく、自分の罪を自覚するためにある、というのが一番のポイントでした。

 また、律法を神からいただきながらもその実践を伴わないユダヤ人より、律法を知らなくても律法に適う生き方をしている異邦人の方が優れている。律法に従い割礼を受けているにもかかわらず律法を実践していないユダヤ人よりも、割礼を受けていなくても律法に適う生き方をしている異邦人の方が優れているということが語られてきました。

 では、律法をいただいたこと、割礼を受けたことには意味がなかったのでしょうか。それらは無駄なことだったのかというと、パウロはそうは言いません。

 律法を受け取ったことの意味は、「神の言葉をゆだねられた」ことにあるのだと言います。

 たとえ人がゆだねられた神の言葉で無益な議論を始めてしまう程に不誠実であったとしても、人を信頼して語りかけた「神の誠実」「神の真実」は変わらない。

 そのような神に出会ったこと、メッセージを託されたこと、その出来事自体に意味があるとパウロは語ります。

 先日、教会外で親しくしている方とお話していた時に、「信仰をお持ちの方が、えてして、人格的問題を持ってたりしますよね」という話がありました。

 実際、教会の中には自分の人格的な課題に真摯に悩み、向き合って生きてきている方が少なくないように思います。

 パウロはそんな風に、自分の持っている問題を素直に認め、自分の弱さや至らなさを受け入れることを勧めています。

 そういった自分を正面から受けとめることが「罪の自覚」の第一歩であり、そこに導くことこそが律法の役割だったのだとパウロは自分の経験から語っています。

 「正しい者はいない。一人もいない。」
 「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない。」
 「律法によっては罪の自覚しか生じない。」

 これまで律法の実践者としての自負を持ち、他者を正しくない者として裁いてきたパウロが、『自分の罪』を深く受けとめるようになったことは大きな転換です。

 落語家の立川談志さんは「あたしゃ正しい人間ですよ!自分が正しくないって知ってますからね!正しいってそういうことでしょ」と仰っていたそうです。

 当たり前のことではありますが、完全な人はいません。なる必要もありません。みんな自分の不完全さを抱えて生きてます。

 教会は長い時間をかけて『罪の自覚』という言葉に「暗い」「怖い」イメージをつけてきてしまったかもしれません。でも、ホントは怖くないことです。むしろ、すがすがしいことです。

 『罪の自覚』は、「そういう自分でいいんだよ」「完璧じゃなくていいんだよ」という神さまからの優しい語りかけでもあります。

2020年2月2日

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.5

宇田慧吾牧師

 娘が1歳の誕生日を迎えました。

 今日まで健康が守られたことに感謝しています。

 昨日は1歳の娘と一緒にご高齢の方を訪ねました。お医者さんから「いついつまでです」と言われ、心の備えをしてすごしてこられた方です。

 ところが、言われた期日から1年程が過ぎようとしています。

朝毎に「おや、また目が覚めた。どないしよ~」と思われたりもするそうです。

 お訪ねすると、おもしろおかしい笑い話をしてくださり、また、娘をかわいがってくれます。

 命の終わりが「いつ」かは人間には分かりませんが、人生の最後まで笑顔ですごせたら幸せなことですね。

 さて今日は、ローマの信徒への手紙2章17-29節を読みます。

02:17ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、 02:18その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。 02:19-20 また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。 02:20 02:21それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。 02:22「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。 02:23あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。 02:24「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。 02:25あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。 02:26だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。 02:27そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。 02:28外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。 02:29内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。

 前回読んだ2章1-16節と重なるテーマです。

 前回はパウロが言っている3つポイントに着目しました。

  1. 律法は、他者を裁くためではなく、自分の罪を自覚するためにある。
  2. 「ユダヤ人とギリシア人」といった立場の線引きではなく「行いが善か悪か」が重要。
  3. 一般論としての福音ではなく、「わたしの福音」という確信。

 今回もトピックは同じです。

  1. 律法を「知ってる」「教える」けど、自分は実践できていますか?
  2. 割礼を受けているか否かという外見的な印ではなく「心に施された割礼」という内面的な印が重要。
  3. 真の誉れは人からではなく、神から来る。

先日、教会員でご逝去された方がいて、その方の人生をふりかえる機会を持ちました。

 最後の数年は認知症もあり施設ですごされました。若いころから達筆な方で、本を三冊出版されました。本のまえがきに人生の中で経験された労苦が書かれています。

 ご家族が病床に伏されることを度々経験され、本業と内職をしながらお子さんたちを育てられました。人生には「歯をくいしばらなければならないことが何度も起こります」と書かれています。

 ただ、この方は試練を経験することで教会に導かれたこと、信仰によって支えられてきたことを書き残されています。特に、人生の最も苦しい時期についてこのように書いています。

 「そんな時、私を支え励まし冷静に判断させてくれたのは、聖書の神でした。人を怖れず、神を怖れました。」

 たくさんの労苦を背負いながらも、信仰に支えられて生きてきたことが伝わってきます。

 この方の葬儀は仏式で行われました。ご家族の中でクリスチャンとなったのが故人だけであったことやご遺族がお寺とのつながりが深いこと等からそのようになったようです。ご遺族が様々な事情の中で選択なさったことと尊重し、私も葬儀に列席させていただきました。

 葬儀の中では故人がクリスチャンであったことには触れられませんでしたので、列席された方たちのほとんどがそのことを知らないままお見送りをしたのだと思います。

 そういったことに寂しさも感じないわけではありませんが、故人が人生の辛い時期に神さまに出会い支えられて生きたことは事実ですし、その心の真実をむしろ印象的に感じました。

2020年2月2日

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.4

宇田慧吾牧師

 この前の水曜日に南丹市の保健福祉課主催の研修会があり参加してきました。生活困窮者への支援に関する研修だったのですが、講師はNPO法人「抱樸」の専務理事で(元)牧師の方でした。

 NPO法人「抱樸」は今、日本の福祉界では最も有名な団体の一つかと思います。創設者は北九州にある東八幡キリスト教会の牧師の奥田知志さんです。NHKの「プロフェッショナル」や「心の時代」にも出演され、だいぶ有名になられました。

 今回講師に来てくださったのは奥田牧師ではなく、抱樸スタッフの別の(元)牧師だったのですが、講演の中で聖書の話もしていました。

 簡単にまとめると、
 聖書には「時間」について複数の言い方がある。
 ①「クロノス」:「5分」とか「いつからいつまで」といった流れる時間。
 ②「カイロス」:「生まれる時・花が咲く時」といった定まった時。

 カイロスを経験したこんな事例を紹介してくれました。

 ホームレス支援で夜回りをする時に「お弁当持ってきました。アパートあるけど入りますか?・・・入らないですね。はい、お弁当どうぞ」というやり取りをするそうですが、入居を拒み続け、20年程このやり取りを続けた相手がいたそうです。

 ところが、ある日「入る!」と返事が返ってきました。関わり続けてきたスタッフ一同が歓喜に沸いたそうですが、なぜその日、その人が「入る」と答えたのか、その理由は未だに分からないそうです。

 支援はもちろん、人との関わりは、種を蒔いてもなかなか芽が出ない時もあります。けれども、神が定めてくれている「時」を信じることで、関わり続ける力が与えられるとメッセージをいただきました。

(これは宇田まとめであり、講師の先生はもっと上手にお話されてます!!(^^;)

 パウロももちろん、「時」を経験した人です。

 今回はローマの信徒への手紙2章1-16節を読みます。
 ここには「時」を経験する前と後でパウロが変化したことが書かれています。

 02:01だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。 02:02神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。 02:03このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。 02:04あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。 02:05あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。 02:06神はおのおのの行いに従ってお報いになります。 02:07すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、 02:08反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。 02:09すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、 02:10すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。 02:11神は人を分け隔てなさいません。 02:12律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。 02:13律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。 02:14たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。 02:15こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。 02:16そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

変化1
 「他者を裁く生き方」から「自分の罪を自覚する生き方」へ

 パウロは「時」を経ることで、律法の役割について考え方が変わりました。

 「時」の前には律法によって他者の罪を裁いていましたが、「時」を経てからは律法によって自分の罪を自覚するようになりました。

 それも、ただ罪を自覚するだけではなく、そういう罪ある自分を神が「慈愛と寛容と忍耐」をもって受けとめてくれていることに気づきました。

 すなわち、律法によって自分の罪と神の慈愛を知るようになりました。

 

変化2
 「人を立場(属性)によって判断する生き方」から「人の行い(人格)を見る生き方」へ

 「ユダヤ人かギリシア人か」という違いは、「時」を経る前のパウロにとって重要な事柄でした。

 パウロだけでなく、ユダヤ人にとっては、神の民である自分たちと、それ以外の異邦人という「線引き」は当然の世界観だったそうです。

 そういう「線引き」をして、自分を特別視したり、相手を格下に位置づけたりする物の見方は今の時代にも少なくないかと思います。

 逆に、線を引くことで、自分には価値がないと自己嫌悪することもあるかと思います。

 パウロはかつて「ユダヤ人かギリシア人か」という線引きで人を判断していましたが、「時」を経てからは物の見方が次のように変わりました。

 「すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、
すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。」

 人の分かれ目はユダヤ人かギリシア人かという『立場』ではなく、悪を行うか善を行うかという『行い』にある。

 当たり前のことではありますが、その人の価値は国籍や社会的立場やマイノリティ-マジョリティといった属性によって決まるものではありません。

 神が見るのはその人の『行い』です。

 

☆「わたしの福音」

 パウロは人生の途中で「時」を経験しました。
「時」を経験することでパウロの人生は大きく転換しましたが、その経験について「わたしの福音」と表現しています。

 「福音」は「ふくいん」と読みますが、聖書のキーワードです。「良い知らせ」という意味の言葉です。

 聖書の多くの箇所では「神の福音」とか「イエス・キリストの福音」と使われますが、パウロは時折「わたしの福音」という言い方をします。

 一般論としての福音ではなく、確かに自分を変化させた、自分がこの手で受け取った福音。あの「時」があったから今の自分がいる。そんなパウロの実感がこめられた表現であるように思います。

 「わたしの福音」という経験が皆さんの心にもあるでしょうか。 

2020年1月26日

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.3

宇田慧吾牧師

 先日「なんたんええ活動団体大賞」を受賞しました。

 2年程前から、教会を地域の子どもたちに開放して、居場所つくりの活動をしてきました。

 「居場所」は昔から教会の得意分野です。

 無条件で、何も要求されず、自分らしくあれる場、教会はいつの時代もそんな場であれることを願ってきました。

 活動を支えてきてくださった地域の保護者の皆さま、学校、行政、NPO法人テダス、教会の皆さま、そして子どもたちに心から感謝します。

 さて、今日は【ローマの信徒への手紙 1章18-25節】を読んでいきます。

 01:18不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。 01:19なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。 01:20世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。 01:21なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。 01:22自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、 01:23滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。 01:24そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。 01:25神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。

①「あらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます」(1:18)

 『神は何について怒るか』が語られています。

 神は、信頼してもらえないこと(不信心)と正しくないこと(不義)について怒ります。

 怒りと言っても様々な種類があると思います。今の朝ドラ「スカーレット」に描かれる昭和の父親像のような、ちゃぶ台をひっくり返す、子どもが口答えすればビンタする、そういう理不尽に見える怒りもあります。また、親や保育園の先生が子どもを叱る時に、粗相に伴う子どもっぽさを心の中では「ふふっ」と微笑ましく思いながらも大人として語調を強くし怒るということもあると思います。お坊さんの「喝」や昔の牧師の一喝には、相手のにぶった心を目覚めさせる爽やかさがあったとも言います。

 最近の社会では、怒りはネガティブな感情表現として隅に追いやられているようにも感じますが、愛に裏打ちされた怒りというものがあることも、多くの人が経験的に知っていることではないでしょうか。

 「神が怒る」という時にも、その怒りは愛に裏打ちされた怒りです。

 「あなたの人生の全てを深い配慮をもって整えているのに、どうして信頼してくれないのか!」
 「信じて待ってくれれば、いまどれほどの喜びの種が蒔かれているのか分かるのに!」
 「そんなに策を巡らし、自分の力でなんとかしようとやっきにならなくても、ちゃんと私がすばらしいエンディングを用意しているのに!」

 そんな声が天から聞こえてきそうです。

 わたし自身、自分の心をふりかえると、神さまの配慮に信頼して安らぐことなく、自分の力で何とかしようともがき苦しんでいる自分を見つけます。そういう時の心は不安でたまらなかったり、不安をごまかすように強気になってみたり、焦りを繕うために過剰な行動をしたりしています。

 そういう苦しい心の時には立ち止まって、

 天に信頼する。
 神にすべて委ねる。

 そうお祈りすることで、心が平安になります。

 

②「造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです」(1:25)

 神に信頼しない場合、神以外のものに依存するという人間の習性が指摘されています。

 神に信頼するとは、
「無条件に愛されていること」
「生きているだけで価値があり、役割を果たしていること」
「他者を愛して生きることに自分の幸せがあること」
そういったことを信じることです。

 そういったことが信じられない心の状態はしんどいと思います。

 愛されるために、努力し、自分を飾り、自分ではない誰かになろうとすることがあります。

 自分の存在に価値を感じられなかったり、自分は必要とされていないと感じたりして、過剰で愚かしいアピールに走ったり、逆に心を閉ざす時があります。

 他者を愛そうとせず、自分が愛されることばかりを求め、穴の開いたバケツのように心が虚しくなることがあります。

 私の場合は、名誉や快楽で心の虚しさを補おうとした時期がありました。やってみて分かったことは、自分の場合そういったものでは心は満たされないということでした。

 逆に、神に信頼する生き方を選択するようになり、聖書が伝える神の愛を信じて生きるようになってからは、これまで頼ってきた名誉や快楽を自然に手放すことができました。それらは自分には必要がないものになっていきました。

 自分の力では断ち切ることのできないアディクション(依存)が誰にでもあると思います。聖書はそういったものから解放されていく方法として、神や真理に信頼することを勧めています。

 心を良いもので満たすことが、心の虚しさに対抗する方法であるようです。

2020年1月19日

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.2

宇田慧吾牧師

 どうもこんにちは。

 いかがおすごしでしょうか(^^)

 昨日は教会でヴァイパーという楽器のコンサートがありました。「ヴァイパー」ご存知ですか?ご存知でない方がほとんどかと思います。なんせ20年程前にアメリカで開発された楽器で、日本のヴァイパー専門奏者は1名しかいないそうです。

こんな楽器です↓ (奏者は大城敦博さん)

大城敦博さんソロライブ」記事はこちら

 「エレキヴァイオリン」とでも言ったところでしょうか。電気を使うことで、ヴァイオリンの高さからチェロまでの低さまで奏でられるという夢の楽器です。

 さて、今日は【ローマの信徒への手紙 1章8-17節】を読んでいきます。

 01:08まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。01:09わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、01:10何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。01:11あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。01:12あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。01:13兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。01:14わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。01:15それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。

 01:16わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。01:17福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 印象的に感じたポイントを三つ挙げますね。

①「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します」(1:8)

 神への感謝からパウロは手紙を書き始めました。手紙の冒頭を相手への感謝で始めることは一般的なことだったようです。一方、相手ではなく神に対する感謝で始めるのは珍しいことだったようです。

 パウロにとってそこに教会があるという事実は嬉しいことだったでしょう。自分と同じように神に出会った人たちがそこにいるのです。

 そんなパウロの気持ちを考えると、私も教会にいるお一人お一人について神に感謝したいと思わされました。それぞれ神に出会い、導かれ、今ここにいて、お出会いできたことを嬉しく思います。

 家族についても同じことを思いました。人生を導かれて生きてきて、出会わされ、今一緒にいること。今日まで相手のことを神さまが導いてきてくれたことに感謝したいと思わされました。

 また、他者について神に感謝することは怒りの防波堤になることに気づきました。先日、ひょんなことから強い怒りを感じ、とても心が苦しくなる経験をしました。けれども、その相手について感謝することを思い浮かべるうちに、怒りより感謝が優ってきました。結果、怒りをそのままぶつけることもなく、自分の怒りの原因が相手ではなく自分の中にあることにも気づくことができました。

 怒りは時にコントロールが難しい感情ですが、感謝は怒りを操舵してくれます。

②「あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」(1:12)

 「自分で自分を励ますことはできない。励ましには他者からの語りかけが必要である」

 そんな言葉があります。

 当たり前のことでも、人に言ってもらえると、励まされることってありますよね。

 また、そういう自分の心に配慮してくれる他者の存在そのものが支えになりますよね。

 教会の場合、同じ神さまに支えられて生きている仲間の存在がお互いの励ましになります。共に礼拝に集まること、一緒に賛美歌を歌うこと、一緒に祈ること、そういう仲間の存在は私にとっていつも励ましになっています。

③「わたしは福音を恥としない」(1:16)

 パウロは恥とは縁遠い人生でした。むしろたくさんの名誉を持っていました。けれども、キリスト者となり、自分がイエス・キリストに救われた経験を話すようになってからは、笑われたり、怒りを買ったり、理解されなかったり、たくさん恥をかきました。

 一方で、パウロの言葉に救われた人たちもたくさんいました。自分がイエス・キリストに救われたことを恥とせず、率直に経験したことを語ることで、助けられた人たちがいました。

 この前、教会の書棚を整理していたら、昭和26年の教会のジュニアキャンプの作文が出てきました。参加した小中学生が書いた作文なのですが、多くの子がキャンプファイヤーのことを書いていました。

 とにかく楽しいキャンプを過ごし、最後の夜のキャンプファイヤーで一人ずつ声に出してお祈りをしたそうです。ある子は「初めてお祈りをした。お祈りをするとなんとなく心が落ち着いた」と書いていました。また、ある子は「自分はクリスチャンホームで育ったけど、お祈りをしたことがなかった。これまでお祈りをしなかったことを恥ずかしく思った」などと書いていました。

 昭和26年の子どもたち、まじめですね(^^;

 教会にいつも遊びに来てる高校生と20代の青年とたき火をしてる時にそんな作文の話をしたら、「なんか、洗脳キャンプみたいですね」とのこと….!

 「確かにね」と笑いつつ、それからあれこれ話しているうちに、最後は「生きる意味とは・・・」みたいな話になりました(笑)

 伝わるか伝わらないかより、素直な自分を話せるか。

 自分が本当に大切だと思っていることを言葉にできるか。

 そのことの方がずっと大事なのかなと思います。

 私は神さまに出会って本当に幸せです。

 そんな素直な気持ちを、無理なく、自然に、表現しながら生きていきたいと思っています。

2020年1月12日

教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.1

宇田慧吾牧師

 「信者にはならないけど、聖書を学びたいという人のための講座をしてくれたらいいのに」

 昨年、このようなご意見をいただきました。ですので、しばらくそのような連載をします。

 ご意見をくださった方は福祉のお仕事をされる中で、その根底にあるキリスト教の精神を学びたいと感じられたそうです。

 また、この方はかつて教会に通い、洗礼を受けてもいます。けれども、教会特有の文化にどうしてもなじむことができなかったそうです。私自身もそのような教会特有の文化に居心地の悪さを感じた経験があります。ですから、この方のように「キリスト教に関心がある。学びたい。でも、教会のメンバーになりたいわけではない」という気持ちはよく分かります。

 この連載は「教会に通ってはいないけど、聖書を学びたい。キリスト教を知りたい」という方のためのものです。また、「かつて教会に通っていたけれども、今は離れてしまった」という方のためのものです。

 そういった方たちがいくらかでもインスピレーションを受けて、キリスト教のメッセージを仕事や生活に生かしていただけるような連載を書いていければと思います。

 具体的には、聖書の中の「ローマの信徒への手紙」という文章を読んでいきます。これは使徒パウロがローマ教会へ宛てて書いた手紙です。キリスト教のメッセージを自分のものとしていくためには、この手紙を深く理解することが重要だと言われています。キリスト教史の主だった人物たちの多くがこの手紙を愛読してきました。

 前置きが長くなってしまいましたが、早速、ローマの信徒への手紙を読んでみましょう。日本語の聖書にはいくつかの翻訳がありますが、ここでは新共同訳聖書の本文を載せておきます。カトリック教会や多くのプロテスタント教会で用いられているスタンダードな翻訳の一つです。

【ローマの信徒への手紙 1章1-7節】
 01:01キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、―― 01:02この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、 01:03御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、 01:04聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。 01:05わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。 01:06この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。―― 01:07神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

 気になる言葉はありましたか?
 私は「召されて」という言葉が印象的でした。少しだけ解説と私が感じたことを書きますね。

 パウロは今の自分の立場について、自分で選んだものではなく、選ばれ召された立場だと考えていました。「召す」は「呼ぶ・招く」の尊敬語です。もちろんここでは、神に呼ばれた・招かれたということです。

 パウロはもともとはサウロという名前でした。旧約聖書に出てくるイスラエルの最初の王様が「サウル」という名前です。サウロは高学歴な人であったようです。ガマリエルという有名な先生に師事していたことは自慢になる経歴でした。また、ファリサイ派という律法の実践に熱心なグループに所属していました。おまけにローマの市民権を持っていました。総じて、相当なキャリアや立場を持っていた人物と言えます。

 けれども、神に召された後は、そういった自分の人生の中で築き上げてきた一切が「塵あくた」「損失」と感じるようになったそうです。召された時にサウロからパウロに改名していますが、パウロは「小さい」という意味です。神に召されたことはパウロにとって文字通り人生のターニングポイントでした。パウロの価値観や生きる目的、意味は神に召される経験をすることで大きく変わりました。

 「召される」という経験を皆さんはお持ちですか?その出会いによって大きく人生を変えられた。その出会いによって今の自分があるというターニングポイントがありますか?

 私は牧師ですからもちろん神さまに召された経験があり、教会で働いています。でも、キリスト教と直接には関係ないことでも召される経験をしてきたように思います。

 小学生の時、私はどうしようもない問題児でしたが、ある先生との出会いによって救われる思いがしました。その後、学校の先生になりたいと思った時期もありました。学校の先生にはなりませんでしたが、今でも子どもと関わる活動では、あの先生が自分にしてくれたことがベースになっています。そんな今の自分をつくってくれた出会いは、自分で選んだ経験ではなく、向こうから来た経験だなと思います。

 思い浮かべると、そんな与えられた出会いが人生の中にいくつもあります。その一つ一つが自分をつくり、引き受けていくべき役割を定めてくれているように思います。

 人生にはうまくいく時もそうでない時もありますが、どんなときも自分の召された役割に忠実であれたらそれでハナマルかなと思います。

2020年1月5日