≪主の祈りの学び≫1「はじめに」

宇田慧吾牧師

 亀岡の礼拝に行ったとき、4月から新しく来られている方が、主の祈りを暗唱していました。主日祈祷会でのことです。「もうおぼえたんですね」と声をかけると「使徒信条はまだですが」とのことでした。

 ついこの前までキリストを知らずにいた人が、教会に導かれ、礼拝に通い、聖書を読んで祈っている。そしてとうとう主の祈りをおぼえた。そんな風にキリストと出会い、絆を深めていくプロセスは、見ていてとても嬉しくなります。

 主の祈りを初めて「そら」で祈った日をおぼえていますか?教会学校で教わったという方はきっと習慣でおぼえたでしょう。一方、人生の途中で教会に出会ったという方には、初めて紙を見ず、目を閉じて主の祈りを祈ったときの感動があったかもしれません。

 自分がどちらの境遇にあったにせよ、今、あらためて初々しい気持ちで主の祈りを祈ることができたら、それはとても喜ばしいことです。

 礼拝中、讃美歌や聖書や祈りを通り過ぎて行くようなことがときどき(しばしば?)あります。わたしの場合「説教で何話そうかな・・・」なんてことで頭がいっぱいなときです。お恥ずかしいことに。

 こころをあわせて礼拝を大切にまもる。あまりにも当たり前で言うまでもないことかもしれません。でも、それが教会のいのちです。

 最近教会に来はじめた方だけでなく、わたしたちみんなが「キリストと出会い、絆を深めていくプロセス」の中にいます。そのためのひとつの工夫として、主の祈りの学びをご一緒にもてたらと思います。

 主の祈りは「福音全体の要約」とも言われます。そんなキリストが教えてくださった大切なお祈りを、学び、親しむ機会となればと願います。

子どもの居場所つくり活動の近況

宇田慧吾牧師

 園部会堂の集会室を地域の子どもたちに開放し始めて1年4か月が経ちました。最近は月にのべ300~400人の小中高校生が遊びに来ています。近隣の保護者の相談で始まった不登校の中学生2名の集まりも9カ月になりました。近隣中学校のスクールソーシャルワーカーの相談で始まった高校生2名の集まりも同じく9カ月になります。最近は地域の諸団体から相談を受けるようにもなりました。南丹地域は市内に比べて、不登校や引きこもりの子どもを支援する団体の数が少なく、またそのような子どもたちが勉強ぬきの居場所として過ごせる場所はほとんど無いのが現状です。この課題に向き合う中で、地域の子どもたちや保護者、学校、関係諸団体の方たちとの出会いをいただきました。最近は出会いに恵まれ過ぎたところもあり、牧師ひとりの活動としては対応しきれなくもなってきたので、地域の方たちと団体化することを決めました。その際、関係諸団体との連携を円滑にしていくためにNPO法人格を取得することにしました。教会は活動場所を提供することで、応援するという形になります。どうかこの活動が地域の子どもたちのために用いられることをお祈りください。

一緒に祈る友

宇田慧吾牧師

新年度が始まります。年間聖句に「二人が地上で心を一つにして求めるなら、天の父はかなえてくださる」が選ばれました。互いのために祈る教会でありたいと思います。また、一緒に祈る友が増える一年であってほしいと願います。

牧師日記 3月5日

宇田慧吾牧師

 初めて教会に行った日「わたしの目にあなたは高価で貴い」の聖書の言葉を聞き、その日の夜は超が10回つくほど嬉しかった。亀岡朝祷会の証しでOさんがそのように話してくれました。彼はその後、箴言の「自分の土地を耕す人はパンに飽き足りる」の言葉に感じるところがあり、農家になることを決め、京都に移住しました。家庭のことや仕事のことで進むべき道に迷った時、聖書の言葉に励まされ、道を開かれてきた彼の人生の歩みが印象的でした。

 Oさんは今、京都市内の教会に通っているのですが、以前1年程、亀岡会堂に通っていた時期もあったそうです。亀岡朝祷会に向かう道中、車に一緒に乗っていた方が「今日証ししてくださる方は、亀岡会堂の礼拝に来て、一生懸命パソコンでメモ取りながら説教聴いてたけど、パタッと来なくなって、なにか躓きはったんやろうか」そんなご心配を話していましたが、本人の話を聞くと実際には逆のことでした。

 信仰が揺らぐ時期があり、いつもの教会ではなく亀岡会堂に通わせてもらっていた。そんな中で亀岡朝祷会に誘われた。来てみると通っていた教会のメンバーの知り合いがいて「〇〇さんがOさんは元気?と気にしてたよ」と言われ「これは戻らねば!」と思い、もとの教会に戻った。亀岡会堂と亀岡朝祷会が無ければ、今の自分はなかったと思います、と。

 教会に集まっているお互いのことは、案外知らないことも多いものですが、Oさんのように神さまとの絆を保ち深めるために教会が用いられると嬉しいですね。

説教要旨「実を結ぶ人」ルカによる福音書8章4-15節

2月17日説教要旨 【胡麻会堂・宇田牧師】
「実を結ぶ人」 ルカによる福音書8章4-15節

 3万2千年前の種が発掘された話はご存知ですか?永久凍土から見つかって、ちゃんと花が咲いたそうです。種に秘められた生命力には驚かされます。わたしたちの心に蒔かれた種も、種自身の生命力でちゃんと実を結んでいきます。「実を結ぶ人になろう!」とか「心の畑を整えよう!」というよりは、神さまの蒔いてくれた種の生命力に信頼して、安心して待つ心を持ちたいと思います。

 昨日、昨年度に洗礼を受けたO君から嬉しい連絡がありました。しばらく東京で生活するので、東京の教会に転会したいとのこと。彼は大学生の時に自分で聖書を買って読み始め、大好きなおじいちゃんが亡くなった時に、礼拝に通い始めました。礼拝でなんとなく心が慰められる気持ちがして教会に通い続けました。洗礼を受けてすぐ引っ越しになりましたが、東京でちゃんと通う教会を見つけられたようでなによりです。彼のように、この教会に訪れた人の心に神さまの種が蒔かれて、芽を出していくと嬉しいですね。

 自分の信仰の歩みを振り返ると、種が成長するまでにはずいぶん時間がかかったなと思います。心が「道端」のようで芽が出ない時、心が「石地」のようで根を張れない時、心が「茨」に覆われて成長できない時、いろんな時期がありました。でも、神さまが耕してくれて、種自身の生命力でちゃんと実りを結んでくれました。今も「ちゃんと実りを結ぶだろうか?」と不安を感じることも時々ありますが、耕してくれる神さまと種自身の生命力を信じます。わたしたちは「実を結ぶ人」です。人生の実りをどうぞお楽しみに。

説教要旨「聖霊と火」ルカによる福音書3章15-22節

1月8日説教要旨【須知会堂・宇田牧師】
「聖霊と火」ルカによる福音書3章15-22節

 Iさんのところは年末年始はいかがでしたか(^^) ・・・ご家族が集まられて忙しく、お疲れになった。それはお疲れさまでした。その気持ちぼくもよ~く分かります。ぼくも大晦日は教会の青年9名とスイス人の牧師で年越しして、元旦も同じメンバーでお節を食べたりしました。みんなで過ごす時間は楽しいですけど、お料理とかあれこれの準備とか、いつもと違う生活のリズムになって、やっぱり疲れ果てますよね(^_^;) また、身体や心が疲れている時は、人との関わりも感情の起伏を抑えるので精一杯だったりします。

 そんな中でも、よかったな~と思うこともあって、この前の日曜日なんかはいろんな方が気遣って助けてくれました。自分が弱っている時に支えてくれる人がいる、本当にありがたいことです。感情的には「ごめんもう無理」でしたけど、自分の心をのぞいてみると「感謝しなきゃな」という気持ちも、ちゃんと隅っこに座っている。心が弱っている時にも、そういう気持ちを持ち続けられるのは、神さまのおかげかなと思います。

 この一年も神さまとの心の繋がりを大切にすごしたいです。「聖霊と火」をキリストから受け取りましょう。聖霊は神さまとの心の絆です。わたしたちの心と神さまの心を結びつける力です。そして火はわたしたちを成長させてくれる力です。わたしたちの心には自分の力では克服することの難しい思い上がりやわがまま、かたくなさ、幼さもあります。そんなところも神さまがちゃんと整えて、成長させてくれます 。

年末年始の一コマ。紅白を見ながら…

説教要旨「恵みの約束を果たす日」エレミヤ書33章14-16節

12月2日説教要旨【亀岡会堂・宇田牧師】
「恵みの約束を果たす日」エレミヤ書33章14-16節

聞いてくださいよ(´・ω・`) わたしは先週、苦しい時間をすごしました。元気になりたいと思っても立ち直ることができず、神さまに心を向けても恵みを実感することができない、そういう苦しさの中をすごしました。

そういうわたしを、励ましてくれる人が何人もいました。ありがたいことです。さりげない形で励ましのメッセージを送ってくださる方、電話をくれて話を聞き寄り添ってくれる友。そんな周囲からの励ましをありがたく受け取りつつも、それでも立ち直ることのできない自分がいました。

土曜日の入門講座の時、その日は4名の青年が集まっていましたが、そこで「実はいま悩んでいるんだ」と話しました。いつもはとりとめもない話をしていることの多い入門講座ですが、その日はみんなで真剣にその課題について語り合い、最後に心を合わせてお祈りしました。なかなか元気になることができずにいたわたしも、さすがにそういう仲間の存在には励まされました。

うまく立ち直ることのできない時間、うまく元気になることのできない時間を過ごすのは、そんな自分に寄り添い、痛みを共にしてくれる友を得るためなのかもしれません。「恵みの約束を果たす日が来る」そう宣言した神さまは、ご自身が人の体と人の心を取ってこの世に生まれ、人の痛みを共にすることを選びました。それは神さまご自身が、わたしの痛みを共にする友となるためです。そんな神さまの想いを心に宿し、人の痛みを共にするキリスト者として、わたしたちは教会に集められています。

説教要旨「この一年もお世話になりました」ヨブ記38章1-18節

11月4日説教要旨【園部会堂・宇田牧師】
「この一年もお世話になりました」ヨブ記38章1-18節

◇今日は一年に一度の逝去者記念礼拝です。先に天に召された家族のことをあらためて思い起こそうという気持ちで集まられた方が多いかと思います。牧師として申し上げたいことはただ一つで、私たちが思い出す以前に、天にいる家族は私たちのことをいつも見守ってくれていますし、想ってくれています。必要な時には助けてくれています。私たちが忘れてしまっている時にもです。

◇この前、教会に遊びに来た子どもたちが「川をつくろう」って言ってるんです。なんだろ~と思っていたら、教会裏の駐車場の砂利を掘って、その溝にホースで水を流して川つくってるんです。しかも夕方になったら、つくった少年少女はいなくなって、川は残ってるんです。これ、片付けるかなどうかな~(^^;と思って待っていたら、戻って来て手にうまい棒10本持ってるんです。「牧師さん、いつもお世話になってるんで、これ、教会に来る子どもたちに食べさせてあげてください」って…( ;∀;) 感謝されたくてお世話してるわけじゃないですけど、たまにはそんな風に言ってもらえるとやはり嬉しいですよね。

◇また、わたしの妻がいま妊娠7か月目なんですけど、まだ産まれてないこの時点でも、親にはお世話になったんだなと思います。まだ産まれてなくても親の苦労にやや気づくわけで、これから産まれてきたらもっと、また歳をとっていけばいくほど、いろんな人にお世話になったことにも気づいていくんでしょうね。天に召されていった家族にもお世話になったこと、まだ気づいてないことの方が多いと思います。これから人生の中で気づいていくんでしょうね。

◇今日聖書からの大切な言葉は「知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは」。よく分かってもいないのに、自分は救われないとか、自分は不幸だとか、勝手に決めるなって神さまが言ってる言葉です。神さまの方ではみんなちゃんと幸せになれるように道を整えていて、その途中には人間から見ればいろんな出来事がありますけど、そういうことも含めてちゃんと神さまが整えてくれている道があるんだ、ということを今日の聖書は言っています。

◇家族にも、たくさんの人にも、神さまにも、この世界にも、いろんなものに私たち支えられています。天に召された家族を思い起こす今日、「この一年もお世話になりました」という感謝を心に持ちたいと思います。