≪主の祈りの学び≫8「我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく我らの罪をもゆるしたまえ 」

宇田慧吾牧師

 主の祈りの中でいちばん質問が集中する祈りだといわれます。質問する方が言うことは「わたしは人をゆるすことができません。だとしたら、わたしの罪もゆるされないのでしょうか」というものです。

 とても誠実な問いだと思います。ある有名な牧師は「そういうことは真剣に取り組んでみてから言いなさい」とお勧めしたそうですが、わたしは質問者に同情的です。それは、わたしたちがいつも「人をゆるす」ということについて、日常の中で嫌というほどに取り組まされ、向き合わされているからです。

 小さいころ、悪いことをして怒られた時、最後に「もうしない?いい子になる?」と母が言うと、「いい子になんてなれない~!!」とわたしは泣いていたそうです。なかなか核心を突く少年だなと感心します。「いい人になる」「人をゆるす」どちらも自分自身の決意や信念によって実現できることではないように思います。それらは「いい人」との出会い、自分がゆるされる経験を重ねる中で、だんだんと身に着けていくことです。

「神はわたしたちの罪をひそかにゆるされ、
            わたしたちはそれを感じていない」M.ルター

 須知合同礼拝での聖書箇所は「仲間をゆるさない家来のたとえ」でした。自分は6千億円の借金を帳消しにしてもらったのに、仲間から100万円を取り立てるために首を絞め牢に入れた人の話でした。無慈悲で愚かしい人物ですが、わたしたちの姿でもあります。

 「ひとつゆるすと、ふたつの笑顔」をモットーに、「いただいているゆるしに気づかせてください」「わたしも人をゆるします」と心をこめて祈りましょう。

〈同志社四中高宗教週間〉 「恋と福音」 イザヤ書46章3-4節

宇田慧吾牧師

 中学1年の6月、初めての彼女ができました。毎日、何時間も長電話をしましたが、何を話していたのかはおぼえていません。きっと何気ないことを話していたのでしょう。3ヶ月程で別れました。でも、その後も良い友達として関係は続き、時々そのような長電話をしていました。しばらくしてその子のお父さんが病気で亡くなりました。急なことでした。その時、電話しようと思う気持ちと、電話して何を話せばいいんだろうという気持ちがありました。結局、電話せずにその時は過ぎ、そのまま彼女とは疎遠になりました。今、思い返すと、「この人を励ましたい。元気づけたい」と思いながらも、どんな言葉をかければよいのか分からない。そんな気持ちを初めて経験した時だったように思います。

 その後は、似たような経験の繰り返しでした。中学3年の時、新潟県中越地震があり、仲間と一緒にボランティアに行きました。雪かきをしていると、「ありがとう」と声をかけてくれる人がいて、自分は人のために働いて「ありがとう」と言われた時に幸せを感じるのだと気づきました。一方、当時は震災支援が整っていない時代で、全国から送られてきた支援物資の多くは要らない物ばかりでした。そのような物を捨てるわけにもいかないので、それらを倉庫で整理するのもボランティアの仕事でした。送っている人たちは善意で送っているけれど、善意の空回りが起こっているのだと思いました。そう考えると、自分もまた、中学3年生で、車の免許があるわけでもなく、ボランティアのために用意されたような仕事をさせてもらっている。ただ、新潟の人たちを助けたいという気持ちで現地に来てしまった。そんな自分も善意の空回りを起こしている一人なのかなと思いました。その時から「人を助ける仕事がしたい。でも、自分には人を助ける力が無い」ということが自分の中の問題になりました。

 ちょうどその頃、一人の市議会議員と出会います。「八百屋が野菜のプロなら、政治家はまちづくりのプロだ」と言い、みんなが幸せに暮らせる町をつくりたいと語ります。それを聞いて、単純素朴な宇田少年は、「政治家になればみんなが幸せに暮らせる町をつくれるのか!」と思い、将来は政治家になろうと決めました。中学3年間は野球しかやっていませんでしたので、成績は各教科で下から1番を独占。政治家になるためには、どこそこ大学の政治経済学部に行けばいいだろうと勉強を始め、2年程で成績表がちょうど逆さまになりました。ところが、志望校に合格できるくらいの成績になった時、ふと思いました。「政治家って・・・どんな仕事するんだろう」。考えてみると、議会で制度をつくることももちろん人のための仕事ではありますが、自分が新潟で雪かきをしていて通りすがった人に「ありがとう」と言われて幸せを感じたこととは、ずいぶん次元が違うのではないかと思いました。そう思ったのは高校3年の夏。みんなが進路を決め受験勉強を始めたその頃、僕は進路の目標を失いました。

 それからは、学校に行ったり、学校に行かずに公園をふらふらしたり、図書館に行ったり、ぼんやりした日々を過ごしました。当時はボーイスカウトに所属していて、その隊長がBARを経営していたため、時々遊びに行っていました。そこにはいろんな大人がいて、その中でもひときわ怪しい大人がいました。ヤマダさんという人です。その人は高校を中退して大検で大学に入り、大学も中退してワーキングホリデーでオーストラリアに行き、そこからアジアを周遊してインドでインド仏教の修行者に出会い、そのまま7年間修行して帰ってきたという人です。怪しいでしょう。その人がある時言いました。「ケイゴ君、インド仏教の輪廻転生は質量保存の法則に基づくって知ってる?」「いえ、知らないです 」「46億年前に地球ができた時、大気も一緒にできたわけだけど、その後、隕石が入ってきたり、ロケットが出ていったり、多少の増減はあるけど、大気の中の物質量は基本的には変わらないんだ。つまり、今は自分の体になっているこの物質も、46億年前には海だったかもしれないし、土だったかもしれない。46億年後には空になっているかもしれないし、風になっているかもしれない」。彼のそんな話を聞いて18歳の僕は「なるほどこの世界にはそんな大きな命の流れがあるんだな」と感じ入りました。けれどもしばらく考えると、「じゃあ、そんな大きな流れの中で、『人を助ける仕事がしたい』『人のために働きたい』と自分が懸命生きることにどんな意味があるんだろう。・・・・・いや、意味無いな」。こうして高校3年生の僕は、生きる意味を失いました。

 それでも高校3年生、とにかく何か進路を決めなくちゃいけない。二つひねり出しました。一つは学校の先生。自分が小学生の頃、問題を抱えていた自分を受け入れ助けてくれた先生を思い出し、あの先生のようになって自分も悩んでいる生徒を助けることができたら、と。もう一つは牧師。子どもの頃教会に通っていた時期があって、教会の大人はみんな優しくて、人の繋がりが豊かな場所だった。自分も牧師になってそんな教会をつくれれば、と。でも、湖でカモにパンを投げながら思いました。「自分が学校の先生になったとして、かつての自分のような生徒を受け入れてあげられる心の広さがあるだろうか、いや無いな。自分が牧師になったとして、集まってきた人たちを受けとめることができる程の心の器があるだろうか、いや無いな。自分何にもできないな」。心底、途方に暮れました。

 そう思ったすぐ後、不思議な経験をしましたが、これは言葉では説明できないところです。子どもの頃に教会で聞いた「神さまはね、いつも君と一緒にいて、君を守っていてくれるんだよ」という牧師の言葉がふと心に浮かんできました。その時、救われたという実感があって、自分は人を助けることはできないけど、いま神さまが自分を救ってくれたように、あなたのことも神さまが救ってくれる、これを伝えることなら自分にもできるかもしれないと思いました。そして、牧師になろうと思いました。

 牧師になるため同志社大学神学部に進み、神学部の伝統に漏れることなくきちんと挫折して、卒業後、東京の会社で働き始めました。東京に来てしばらくした頃、彼女に再会しました。中1の6月にできたあの彼女です。今まで何してたのという話から、今何してるのというお互いの話をしました。彼女は薬剤師を目指して、薬学部にいました。お父さんだけでなく、他の親戚もその後、ご病気で亡くしたそうです。そんな経験から、彼女は病気の人を助ける薬剤師を目指したそうです。長い時間をかけて、彼女の人生に神さまが応えてくれたように感じました。

 最後に、聖書の言葉を一つ紹介します。「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザヤ書46章4節)。「わたし」は神さまです。聖書で神さまが「造った」という時には大前提があります。神さまは良いものとして、すべてのものを造りました。この世界も、すべての人も、すべての出来事も。でも、人生の時々には、「今この時」が良いものだと信じられない時があります。すなおには良いものと思えない出来事も起こります。そういう時について、この聖書の言葉は「信じろ」でも「乗り越えろ」でもなく、「わたしが担い、背負い、救い出す」と言っています。造った神さまの責任で、全部を背負い、救い出すと言っています。

 中1の6月にできた彼女、あの時から、彼女にこれといって気のきいた言葉を僕はかけられないままでしたが、ちゃんと彼女の人生の出来事にも神さまは応えてくれたように僕は感じています。皆さんも、どうぞいい恋できますように。

2019年6月6日同志社中学校

《説教要旨》「すべての民を弟子に」マタイによる福音書28章16節-20節

片岡広明牧師

 あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。         マタイ28章19―20節

 イエスは弟子たちに、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」とお命じになりました。そのための方策をふたつ示されました。ひとつは父と子と聖霊の名によって洗礼を授けること、もうひとつはあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように教えることでした。これはイエスの「大宣教命令」と呼ばれます。こののち地上に誕生した教会は今日に至るまで、この主の大宣教命令に応えることを使命として世界の各地で奉仕してきたのです。洗礼を授けることは人を主イエスの弟子とすることのしるしです。そして教会はイエスのみ教えを2000年にわたって語り続け、伝え続け、守り続けてきたのです。人をイエスの弟子とする教会の働きは、世界中に広がっていきました。この宣教のみ業がめぐりめぐって世界の果てのわが日本にまで伝えられ、わたしたちの教会もその中で誕生したのです。

 先週は教会総会を行い、昨年度一年間の教会の歩みを振り返り、主の豊かな恵みをみんなで覚えて感謝いたしました。昨年度の年間聖句として、このマタイ28章の今日の箇所をわたしたちは昨年度一年間、心に刻み続けてまいりました。主イエスから託された宣教のみ業に共に勤しむわたしたちには、いつでもイエスが共にいて下さるのです。悩みの多いこの世にあって、わたしたちは教会のためにも、またそれぞれ個人のことにおいても困難を覚えることが多々ありますが、主イエスが共にいて下さることをしっかりと心に刻み、あらゆる困難を乗り越え、主の弟子の交わりを日本に、世界に、大きく広げ、主から託された宣教の業のため、なおいっそう祈りを熱くして励んでまいりたいと思います。

2019年6月2日 亀岡会堂

≪主の祈りの学び≫7「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」

宇田慧吾牧師

 祈れない日、だれにでもそんな時があります。心が虚しく、孤独やいら立ちにふさぐ日があります。神さまに愛されていることを実感できない日があります。

 ぼくも昨日、そんな気持ちでした。半日以上、落ち着きなく、気落ちしたまますごしましたが、こんなときのためにこの祈りがあるんだなと思いました。

 キリストは今日必要な糧を天の父に求めるようにわたしたちに教えました。

 「パンをお与えください、と祈る者は、それと一緒に、神が、自分を養ってくださることを信じることができるようにしてください、と祈らねばならないのです」

 竹森満佐一牧師の言葉です。その通りだと思います。この祈りは、天の父に求めることを通して、天の父への信頼を育てる祈りです。

 天の父は今日必要な「糧」をいつもちゃんとくださっています。

 「我らの」という言葉は召命に満ちた言葉です。この「我ら」は、天の父の愛するすべての人です。キリスト教徒でなくても、日本人でなくても、わたしの愛する人でなくても、すべての人が今日必要な「糧」を得られるようにわたしたちは祈っています。

 そのように祈るわたしたちには、そのように生きることが期待されています。いま出会わされている身の回りにいる人が、わたしに割り当てられた「すべての人」です。「ひとりひとり」との関わりが、「すべての人」との関わりです。

《説教要旨》「互いに愛し合いなさい」ヨハネによる福音書15章12-17節

宇田慧吾牧師

 教会には一つのおきてが与えられました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」。このおきてを実践する人にキリストは「わたしの友」と呼びかけます。友にもいろんな種類がありますが、ここでの友は同じ苦労を共にする仲間です。「互いに愛し合う」というおきてを実践しようとする人は、時にはその難しさを、時には心に深い痛みを引き受けることを経験します。そのような痛みを引き受ける人にキリストは友と呼びかけます。

 わたしはキリストのその呼びかけを受けとめる時、自分が友と呼ばれるにふさわしいか考えてしまいます。「互いに愛し合いなさい」というおきてに生きたいと願ってはいても、うまく守れている自身が持てないからです。そんな気持ちを話していたら、今日の園部の礼拝では涙が止まらなくなってしまいました。でも、そんな自分に向けてキリストは「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と言います。このおきてに生きる者としてキリストが私たちを選んだことを私は信じます。私のことだけでなく、今ここに集められている教会の一人一人をキリストが選び、出会わせ、「互いに愛し合いなさい」というおきてを実践させようとしていることを私は信じます。

 また、キリストは「実を結び、その実が残るように」私たちを任命しました。「任命する」の原語はシンプルには「置く」という意味です。私たちは「互いに愛し合いなさい」というおきてを実践する者として、今自分がいる教会に、家庭に、職場に置かれました。ちゃんと実を結ぶように神さまがこの場所、この私を選んでくれたことを私は信じます。

2019年5月19日 胡麻会堂

≪主の祈りの学び≫6「みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ」

宇田慧吾牧師

 原文の順番で訳すと「実現されますように、あなたの御心が、天
におけるように地においても」となります。「御心」という言葉は
「神の意志、判断、願い」という意味の言葉です。

 手塚治虫の名作の一つに『リボンの騎士』がありますね。天使の
いたずらで男の子と女の子の心をもって生まれた王女サファイヤが
恋や宿命に奮闘する物語です。いたずらをした天使チンクは天の父
の命令で、サファイヤから男の心を抜き取るために地上に遣わされ
ます。天の父のおつかいを果たすために奮闘するチンクの姿は「地
にもなさせたまえ」という祈りのイメージに重なるところがありま
す。

 むかしイタリアを旅行していたときに、電車でシスターに席を譲
ったら、‛You are like an angel’「あなたは天使みたいな人ね」
と言われたことがあります。天使は空を飛べて超自然的な力で働く
存在というだけでなく、天の父の願いをこの地上に実現する人のこ
とでもあります。

 「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るとき、ぜ
ひ「わたしが天使として用いられ、神様の願いがこの地上にも実現
されますように」そんなイメージを持っていただきたいのです。

 これはわたしが勝手に言っているのではなくって、伝統的な解釈
なのです。ハイデルベルク信仰問答ではこの祈りについて「自らの
持場と職を、天にいるみ使いのごとく、喜んでまた忠実に、つとめ
る者とならせてください」と書かれています。「自らの持場と職」
は地にあるということが重要です。そして、そのわたしが立たされ
ている場所で天使として働くことが期待されています。

「あなたはきっと わたしの天使
わたしもそっと だれかの天使」

 そんな「きっと」「そっと」感がポイントです。わたしたちが気
づかないときにも、わたしたちはお互いにとって天使なのです。

《礼拝の聖書箇所から》ヨハネによる福音書6章34-40節

宇田慧吾牧師

 昨日、家庭集会で断食についての話題がありました。聖書には時々、断食の話が出てくるのですが、断食ってなんのためにするんだろうね、と。その日のバイブルディスカッションを準備してくれた方がレジュメに書いてくれていた解説には「断食をすることには、私たちを神に近づける目的もあります」と書かれていました。もう少し引きつけて言うと、全てが満ち足りている時には神さまを忘れがちになりやすいから、飢えを経験することで、いただいている恵みを思い出すといったところでしょうか。
 現代の日本における最大の試みは豊かさだと言った人もいます。格差や貧困問題がある一方で、今の日本が過剰に物に溢れていることも事実かと思います。そのような物質的な豊かさが私たちの心をいつも満たしてくれるわけではないということは、当然のことでありながら、つい忘れがちになることでもあるように思います。ごはんを食べなければ飢えるのと同じように、心の糧を得なければ心は虚しくなります。もし人との温かい交流や感謝の心、思いやり、素朴な喜び、そういった心の糧がなければ、その日ごはんを食べなかったのと同じように心は飢えてしまいます。

 キリストは「わたしが命のパンである」と言いました。キリストは私たちに必要なその心の糧です。私たちはそれぞれ心を元気にする方法を持っています。好きな物を食べるとか、趣味に興じるとか、とにかく寝るとか。そのような余暇活動はもちろん心をリフレッシュさせる良いものです。でも、心を満たす糧かというと、また違うように思います。人の心を満たす糧は、余暇に比べれば、地味でささやかなものかもしれません。けれども、生きるためには食べなければいけないのと同じように、また時には心のリフレッシュが必要なのと同じように、生きるためには心を満たす糧が必要です。その心の糧とは何なのかをキリストは私たちに気づかせたり、思い出させたりしてくれます。

 今日はヨハネ福音書を読んでいますが、ヨハネ福音書には何度も繰り返し出てくる言葉があります。「わたしが来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」。今日の聖書箇所にも出てきていました。キリストが私たちに教えてくれる第一の心の糧は「神の御心に生きること」です。神の御心はシンプルです。神さまに愛されていることを喜ぶこと。神さまが私を愛してくれたように、人を愛すること。神さまが私を赦してくれているように、人を赦すこと。感謝を持って生きること。などなど。
 キリストは「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言いました。人生の途中には、心の飢えを経験することや心が渇く時もありますが、キリストの側にいれば大丈夫です。

 最後に、昨日の家庭集会で聞いた福音をおすそわけします。集まりの最初に、最近あった嬉しかったことを一人ずつ報告するのですが、特に一人の方の話が印象的でした。その方は先月手術を受けました。術後も体の痛みがあって、そういう中でなかなか祈ることができなかったそうです。こういう時こそ祈りをもちたいと思いつつ、祈りを持つことができない苦しさをすごされました。けれども、昨日こんな本の言葉に励まされたそうです。
 「絶望的な状況にいるとき、神様からのメッセージは「強く、また雄々しくあれ」(ヨシュア1:6)というものではありません。神様はあなたの中で力も勇気もつきてしまったことをご存知なのですから。代わりに神様は優しくこう言われます。『静まって、わたしこそ神であることを知れ』」。
 祈ることができない時、心が虚しくなる時、心が渇く時、こういう時が与えられるのは神さまを知るためです。神さまは私たちの心が満ちているのか、飢えているのかをいつも知ってくれていて、必要な時に心の糧をくださいます。

キーワード:「心の糧」
      「神の御心に生きる」

2018年5月12日 園部会堂

≪主の祈りの学び≫5「み国を来たらせたまえ」

宇田慧吾牧師

 同志社の学生さんたちと週に一度、読書会をしています。いつもは5人ほど集まるのですが、先日は夏休み中だからか、わたしともう一人しか集まりませんでした。その方と話しながら内心「今日は二人かぁ…」なんてしょげていたのですが、だんだんと深い話になり、最後には「二人で話せてよかった~~!!」という気持ちになりました。

 「せっかくこういう出会いを与えられたから、何かよい実りになるように形にしていきたいですね」と言おうと思っていたら、その方が先にそう言いました。気持ちが一つになる瞬間、この人と出会えてよかったと心から感じる時、いいですよね。

 「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」ルカ17:21

 「神の国は言葉ではなく力にあるのですから」Ⅰコリ4:20

 キリストは「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない」(ルカ4:43)と言って、あちこちに足を運びました。キリストが来て、人々と出会い、福音を告げる場所は、たちまち「み国」となったことでしょう。

 キリスト者のいる場所、そこが「み国」とされていくように「み国を来たらせたまえ」と祈ります。そんな大層なことわたしにはできませんという声が聞こえてきそうですが、働きや存在感は小さくてもいいのです。むしろ小さい方がいいのです。

 「神の国は…からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、
 成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る」ルカ13:19

 「神の国は…パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に
 混ぜると、やがて全体が膨れる」ルカ13:21

 讃美歌第二編の人気ソングの一つに「ちいさなかごに」があります。小さなかごに花をいれて寂しい人に贈れば、花の香りが部屋に満ちて心を明るくするでしょうという歌ですが、サビは「愛のわざは小さくても 神の御手が働いて~♪」でした。小さなことでいいのです。「み国が来ますように」と祈りながら、小さな働きをささげましょう。

《礼拝の聖書箇所から》ルカによる福音書24章36-43節

宇田慧吾牧師

 昨日は記念会があって、そのお宅がキリスト教と接点を持つようになった時のことをふりかえりました。今回の記念会で偲んだ方の祖父にあたる方が、近所の人たちと囲碁をしていたそうです。その中にお坊さんと牧師もいて、そこで牧師と接するうちに、洗礼を受けたいと思うようになりました。その方はお坊さんの所に行って、洗礼を受けたいけどよろしいですかとお伺いをたて、お坊さんも許してくださり、洗礼を受けたそうです。小さな集落でのことでもあったので、その後もお寺との関わりも丁寧にお続けになり、その結果、そのお寺の鐘には卍と十字架が並んで刻まれているそうです。

 「平和があるように」とキリストは言いました。和を保つことの大切さは、誰もが認めることですが、実際にそれを実践するのは簡単でない時もあります。互いに善意をもって関わっている時でさえ、心がすれちがったりすることも珍しいことではないと思います。

 キリストは「平和があるように」と言った後、自分の手と足を見せました。十字架にかかって復活した後の場面ですから、その手と足には釘打たれた跡があったことでしょう。この手足の穴は、神が人と和を保つためにご自身が深く傷つくことを選んだ印です。

 人と和を保とうする時には、忍耐が求められますし、深く傷つくこともあります。それは本当にしんどいことでもあります。お恥ずかしいことに、私自身はそのような時、心の壁をつくって他者を遠ざけたり、相手を責める言葉を心に並べて、自分の心を守ることしかできないことも少なくありません。和を保つため、ご自身が傷つくことを選んだキリストの僕として、私は神さまに申し訳ないと思います。

 いつも常にというのは難しいかもしれませんが、大切な時、ご自身が傷つくことを選んだキリストの生き方に思い起こしたいと思います。

キーワード:「平和があるように」
      「手と足の傷」
      「和を保つため自分が傷つくことを選んだ」

2019年5月5日 園部会堂

《説教要旨》「平和があるように」ルカによる福音書24章36-43節

片岡広明牧師

 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 ルカ24:36

 5月5日は子どもの日、端午の節句です。子どもたちの健やかな成長を願い、鯉のぼりや鎧兜を飾ります。昔は子どもが元気に育って大人になる割合は今よりもずっと低く、幼児のうちに亡くなる子どもたちが大勢いました。世界には今でも乳幼児死亡率の高い国々がいくつもあります。子どもたちの健やかな成長はみんなの願いなのです。

 教会では子どもの日・花の日の礼拝を行い、子どもたちの成長のために祈ります。子どもたちの心と体、そして信仰が神様によって守り導かれますようにと祈ります。幼い子どもたちには、この先、いくつもの試練や困難が待ち受けていることでしょう。そうした困難を乗り越えて生きる力を神様が子どもたちに賜りますようにと祈ります。神様は小さく弱い者たちをみ心に留めて下さるのです。

 今日の聖書箇所は、イースターの日の夕べ、弟子たちが集まっているところによみがえられたイエスが現れ、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃって、ご自身の復活を証しして下さった場面を伝えています。イエスは十字架に釘付けにされたその傷跡の残る手足を弟子たちにお示しになり、亡霊を見ているものと思って恐れる弟子たちに、紛れもなくわたしなのだと証しをなさり、主の復活を信じられないでいる弱い弟子たちを心熱く励まして下さったのでした。

 弟子たちの中には、朝早く主の墓に出かけて空になった主の墓を見た女性たちがおり、エマオ途上の道でイエスに出会った二人もいました。でもその者たちの証言を信じられなかった他の弟子たちは、信じたいけれども信じられないというもどかしさを抱えていました。そんな弱い弟子たちのために、イエスは彼らの前に来て下さり、彼らのために平和を祈って下さったのです。主イエスは弱い者たちを励まし、守り導いて下さいます。彼らが心を強くして主の御心に生きる者となることを心から願っておられます。幼い子どもたちもまた、小さく弱い存在です。主がわたしたちの幼い子どもたちをも守り導いて下さるように、子どもの日・花の日にあたり、祈りを合わせたいと思います。

2019年5月5日 亀岡会堂