教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.34

宇田慧吾牧師

1月から読み続けてきたローマの信徒への手紙も今日で最後です。

パウロは長い手紙の最後を「頌栄」すなわち神に栄光を帰することで締めくくりました。

信仰義認、神の計画、聖化、多くのことを語ってきましたが、それらすべては神に栄光を帰するため。

私は神に救われた。

感謝している。

この神の福音が多くの人に届くように。

そのために私は働きます。

どうか用いてください。

頌栄にはそんな気持ちが込められています。

他にも2つキーワードがあります。順番に見ていきましょう。

①福音はあなたを強くする

「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強くすることがおできになります」

パウロはキリストに出会って人生を変えられました。

実のところ、パウロ自身はイエス・キリストに直接出会ったことはありません。

パウロはキリストに出会った弟子たちに出会い、霊的にキリストに出会いました。

そこでキリストから受け取ったものを「福音」と表現しています。

「福音」は「良い知らせ」という意味の言葉で、元来は戦に勝った知らせを走って伝えに来る朗報のことでした。

英語では「good news」と訳されます。

キリストに出会った人たちが「キリストはこういう人だった!」と伝達をしたその内容が「福音」です。

ただ、それは伝言ゲームの情報のような伝達ではなくて、パウロが「『わたしの』福音」と言うように、受け取った人の心に深く根付いて、その人の体験になるような知らせです。

「わたしの福音」という程に心に根付いていく時、福音は人を強くします。

「強さ」にも様々な種類がありますが、ここでいう強さはキリストの生涯に表れている強さです。

それは残念ながら「無双」や「無敵」「完全」のような一般に期待される類の強さではありません。

パウロは次のように表現しました。

「苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、

 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(コリント二4:8,9)

「神の弱さは人よりも強い」(コリント一1:25)

福音が与えてくれる「強さ」は、弱さの中で人を支え続けてくれる強さです。

②秘められた計画を啓示する

「この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです」

「啓示」は人知では知り得ないことを神が明らかにすることです。

もともとは「おおいを外す」というイメージの言葉です。

目の前にあるけど、風呂敷がかけられていて見えない。

それをパッと外す。

見えるようになる。

そんなイメージの言葉です。

神さまはこの世界、私の人生にどんな計画をしているのか。

あるいは、どうしてこんな苦しい経験を与えるのか。

生きていくことにはどんな意味・価値・目的があるのか。

それらは人の探求によって究めることはできませんが、覆いが外された時に明らかにされます。

ここが重要なポイントですが、パウロの場合、キリストとの出会いが啓示になりました。

「イエス・キリストの啓示」という言い方をしますが、キリストに出会うことで覆われていたものが明らかにされます。

また、啓示は「一度きりで全部」ではありません。

啓示された後にも、段々と時間をかけて明らかにされていきます。

神学では「漸進ぜんしん的啓示」と言います。

そのような段々と明らかにされていく啓示を信頼して待てるようになると生きることが楽になります。

人生のイニシアティブ(主導権)を自分ではなく、神にお返しするとも言えます。

すべてのことには定められた時があり、

その「時」を神さまは整えてくれている。

福音はそう信じて、待つ心を人に与えてくれます。

《ローマの信徒への手紙16章25-27節》

2020年9月13日

《おまけ》

約9カ月にわたって、ローマの信徒への手紙の講解説教をしてきました。

たぶん一人ではしません。(いえ、確実にしません)

毎週日曜日に教会に集まり、一緒に礼拝し、牧師のメッセージに耳を傾けてくれる教会の皆さんがいるから、こんなにじっくりとローマの信徒への手紙に向き合うことができました。

いつも礼拝を共にし、私を支えてくれる教会の皆さんに心から感謝します。

連載のタイトルを「教会に通わずに聖書を学びたい方のために」としたことを途中、後悔したこともありました。

教会に集められた人たちとの出会い抜きに、聖書を学ぶことはできないと感じたからです。

もともとは、地域の方との出会いをきっかけにつけたタイトルでした。

その方は、昔、教会に通っていたけど、「教会特有の文化」になじめずに離れてしまった。最近も別の教会に通ってみたけど、やはりなじめない。歳を重ね、人生の終い仕度を考え始め、やはり聖書を学びたいと思うけど、教会にどうしてもなじめない。

そんな方でした。

その方が「教会に通わずに聖書を学ぶことができたらいいのに」と仰ったので、「教会に通わずに聖書を学びたい方のために」という連載を始めたのでした。

結果、その方が読んでくれたのかは分かりませんが、別の地域の方から「読んでます」という言葉をかけていただき、ありがたく思っています。

教会に集っている方の中には「なんとおかしなタイトルだ」と気を悪くされた方もおられたことと思います。どうかご容赦ください。

私自身、教会に通わずして聖書を学ぶことはほとんど不可能だと思っています。

ただ、制度的教会や目に見える教会だけを聖書は教会だと捉えてはいません。

「聖書のメッセージを受け取りたい」

「聖書のメッセージを伝えたい」

そんな思いで2人、3人が集まるところにもまたキリストは共におられます。

これまで教会の礼拝堂で直接お会いすることはなくても、この連載を読んでくださった皆様に神さまの豊かな祝福をお祈りします。

もしよければ、お近くの教会に足を運んでみてください。

教会には神さまに救われた人たち、キリストに出会った人たちが集まっています。