教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.21

宇田慧吾牧師

今日は、ローマの信徒への手紙10章1-4節を読みます。

10:01兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。 10:02わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。 10:03なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。 10:04キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。

 「よい」とはどういうことかが今回のテーマです。

 キーワードは「神の義と自分の義」です。

 まず、お話の背景として、パウロの経験をふりかえります。

 パウロはよく生きることにもともと熱心な人であったようです。有名な先生に師事したことや律法の実践に熱心であったと語っています。

 そのような熱心さの中でパウロには失敗経験がありました。それは、自分の正しさへの自負ゆえ自尊心を膨らませ、正しくないように見える他者を裁くという失敗でした。

 どんなに真剣に生きようとしていても、そのような「正しさ」は本当の「よい」生き方ではないとパウロは思うようになりました。

 逆に、本当の「よい」生き方は、自分に正しくない部分があることを受け入れ、他者を赦す生き方だと考えるようになりました。

 パウロがそのように変化したきっかけは、イエス・キリストに深く出会ったことでした。

 キリストは自分が「よい」と思う生き方をする人ではありませんでした。神が「よし」とする生き方を祈りながら求める人でした。

 キリストが示した神に「よし」とされる生き方は、自分の罪に気づき、神の赦しを知ることでした。

 「わたしにはその『罪』というものがよく分からない」

 「そんなに悪い生き方はしていない」

という方もおられるかと思います。それは自然な感じ方だと思います。

 「罪」の自覚は何かの出来事をきっかけに突発的に深まる場合もあれば、時間をかけて自分の罪深さを自覚していくという面もあります。

 私は、恥ずかしいことに洗礼を受けた頃には「罪」について無知でした。

 ただ、孤独感が深くなった時に「神さまはいつもそばにいてくれる」ということを実感し、このように自分を救ってくれた神さまのために生きていきたいと思って洗礼を受けたのでした。

 信仰を持ってから、自分の罪に向き合うようになりました。

 自分が簡単に孤独に戻り、人に頼って孤独を埋めようとすること。

 あの人のためにという無垢な気持ちと裏腹に自分の望む結果に固執すること。

 自分のプライドが壊れないように、てきとうな敵をつくって非難すること。

 ・・・

 思い起こせばいくつでも書けそうです。

 そういった自分のトンチンカンな部分には自分の内省では気づくことができませんでした。

 教会や生活の中で、成熟した人に出会うことで時間をかけて自分の罪に気づかされてきました。

 自分が経験している問題を、既にクリアしている人に出会うと、気づかされたり励まされたり見通しが立ったりします。

 信仰を持って生きるということは、イエス・キリストをその気づきの中心に置くということだと思います。

 聖書に記録されているキリストの生涯に向き合うと気づかされることが多いです。

 特に「罪」のこと、自分の罪を知り、その罪を神は赦していると知ると、不思議と励まされます。

2020年5月31日