教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.20

宇田慧吾牧師

 今日は、ローマの信徒への手紙9章19-33節を読みます。

09:19ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。 09:20人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。 09:21焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。 09:22神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、 09:23それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。 09:24神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。 09:25ホセアの書にも、次のように述べられています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。 09:26『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」 09:27また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。 09:28主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」 09:29それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう。」
09:30では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。 09:31しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。 09:32なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。 09:33「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。

 

 前回、人の意志や努力では動かし得ない出来事については、神の意志のもとにあることを信頼しましょうというお勧めがなされていました。

 このようなお勧めに対して、一つの問いが投げかけられます。

 「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか」

 時に、理不尽に思われる出来事を経験することがあります。

 なぜ神はそのような出来事を与えるのか、止めないのかという疑問が投げかけられています。

 私も牧師として奉仕するようになってから、様々な方の人生のお話をうかがうようになりました。

 中には、どうして神さまはこのような苦しみを与えるのだろうと感じる時もあります。

 このような「神に対する『なぜ』の問い」に今回の聖書箇所は次のことを勧めています。

 「『なぜ』の問いを手放し、信じて待つこと」

 パウロは「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か」と少々厳しい言い方をしていますが、これは聖書の「ヨブ記」を背景とした言葉です。

 ヨブ記はある日突然、財産・家族・健康を奪われてしまった人が、苦しみについての問答を経て、神の救いを確認する物語です。

 大切なポイントは、神の用意してくれている救いの道のりについて人は無知であるということです。

 物語の最後に登場する神さまは開口一番こう語りかけます。

 「知識もないまま言葉を重ね、主の計画を暗くするこの者は誰か」(ヨブ38:2)

 神さまからしたら、最良の計画を用意しているのに、『なぜ』とばかり問われるのは心外なのでしょう。

 苦しい時に『なぜ』と問うのは自然な気持ちですが、聖書は『なぜ』の問いに縛られすぎないことを勧めています。

 そして、信じて待つことを勧めています。

2020年5月24日