教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.5

宇田慧吾牧師

 娘が1歳の誕生日を迎えました。

 今日まで健康が守られたことに感謝しています。

 昨日は1歳の娘と一緒にご高齢の方を訪ねました。お医者さんから「いついつまでです」と言われ、心の備えをしてすごしてこられた方です。

 ところが、言われた期日から1年程が過ぎようとしています。

朝毎に「おや、また目が覚めた。どないしよ~」と思われたりもするそうです。

 お訪ねすると、おもしろおかしい笑い話をしてくださり、また、娘をかわいがってくれます。

 命の終わりが「いつ」かは人間には分かりませんが、人生の最後まで笑顔ですごせたら幸せなことですね。

 さて今日は、ローマの信徒への手紙2章17-29節を読みます。

02:17ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、 02:18その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。 02:19-20 また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。 02:20 02:21それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。 02:22「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。 02:23あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。 02:24「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。 02:25あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。 02:26だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。 02:27そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。 02:28外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。 02:29内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。

 前回読んだ2章1-16節と重なるテーマです。

 前回はパウロが言っている3つポイントに着目しました。

  1. 律法は、他者を裁くためではなく、自分の罪を自覚するためにある。
  2. 「ユダヤ人とギリシア人」といった立場の線引きではなく「行いが善か悪か」が重要。
  3. 一般論としての福音ではなく、「わたしの福音」という確信。

 今回もトピックは同じです。

  1. 律法を「知ってる」「教える」けど、自分は実践できていますか?
  2. 割礼を受けているか否かという外見的な印ではなく「心に施された割礼」という内面的な印が重要。
  3. 真の誉れは人からではなく、神から来る。

先日、教会員でご逝去された方がいて、その方の人生をふりかえる機会を持ちました。

 最後の数年は認知症もあり施設ですごされました。若いころから達筆な方で、本を三冊出版されました。本のまえがきに人生の中で経験された労苦が書かれています。

 ご家族が病床に伏されることを度々経験され、本業と内職をしながらお子さんたちを育てられました。人生には「歯をくいしばらなければならないことが何度も起こります」と書かれています。

 ただ、この方は試練を経験することで教会に導かれたこと、信仰によって支えられてきたことを書き残されています。特に、人生の最も苦しい時期についてこのように書いています。

 「そんな時、私を支え励まし冷静に判断させてくれたのは、聖書の神でした。人を怖れず、神を怖れました。」

 たくさんの労苦を背負いながらも、信仰に支えられて生きてきたことが伝わってきます。

 この方の葬儀は仏式で行われました。ご家族の中でクリスチャンとなったのが故人だけであったことやご遺族がお寺とのつながりが深いこと等からそのようになったようです。ご遺族が様々な事情の中で選択なさったことと尊重し、私も葬儀に列席させていただきました。

 葬儀の中では故人がクリスチャンであったことには触れられませんでしたので、列席された方たちのほとんどがそのことを知らないままお見送りをしたのだと思います。

 そういったことに寂しさも感じないわけではありませんが、故人が人生の辛い時期に神さまに出会い支えられて生きたことは事実ですし、その心の真実をむしろ印象的に感じました。

2020年2月2日