教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.4

宇田慧吾牧師

 この前の水曜日に南丹市の保健福祉課主催の研修会があり参加してきました。生活困窮者への支援に関する研修だったのですが、講師はNPO法人「抱樸」の専務理事で(元)牧師の方でした。

 NPO法人「抱樸」は今、日本の福祉界では最も有名な団体の一つかと思います。創設者は北九州にある東八幡キリスト教会の牧師の奥田知志さんです。NHKの「プロフェッショナル」や「心の時代」にも出演され、だいぶ有名になられました。

 今回講師に来てくださったのは奥田牧師ではなく、抱樸スタッフの別の(元)牧師だったのですが、講演の中で聖書の話もしていました。

 簡単にまとめると、
 聖書には「時間」について複数の言い方がある。
 ①「クロノス」:「5分」とか「いつからいつまで」といった流れる時間。
 ②「カイロス」:「生まれる時・花が咲く時」といった定まった時。

 カイロスを経験したこんな事例を紹介してくれました。

 ホームレス支援で夜回りをする時に「お弁当持ってきました。アパートあるけど入りますか?・・・入らないですね。はい、お弁当どうぞ」というやり取りをするそうですが、入居を拒み続け、20年程このやり取りを続けた相手がいたそうです。

 ところが、ある日「入る!」と返事が返ってきました。関わり続けてきたスタッフ一同が歓喜に沸いたそうですが、なぜその日、その人が「入る」と答えたのか、その理由は未だに分からないそうです。

 支援はもちろん、人との関わりは、種を蒔いてもなかなか芽が出ない時もあります。けれども、神が定めてくれている「時」を信じることで、関わり続ける力が与えられるとメッセージをいただきました。

(これは宇田まとめであり、講師の先生はもっと上手にお話されてます!!(^^;)

 パウロももちろん、「時」を経験した人です。

 今回はローマの信徒への手紙2章1-16節を読みます。
 ここには「時」を経験する前と後でパウロが変化したことが書かれています。

 02:01だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。 02:02神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。 02:03このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。 02:04あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。 02:05あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。 02:06神はおのおのの行いに従ってお報いになります。 02:07すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、 02:08反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。 02:09すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、 02:10すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。 02:11神は人を分け隔てなさいません。 02:12律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。 02:13律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。 02:14たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。 02:15こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。 02:16そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

変化1
 「他者を裁く生き方」から「自分の罪を自覚する生き方」へ

 パウロは「時」を経ることで、律法の役割について考え方が変わりました。

 「時」の前には律法によって他者の罪を裁いていましたが、「時」を経てからは律法によって自分の罪を自覚するようになりました。

 それも、ただ罪を自覚するだけではなく、そういう罪ある自分を神が「慈愛と寛容と忍耐」をもって受けとめてくれていることに気づきました。

 すなわち、律法によって自分の罪と神の慈愛を知るようになりました。

 

変化2
 「人を立場(属性)によって判断する生き方」から「人の行い(人格)を見る生き方」へ

 「ユダヤ人かギリシア人か」という違いは、「時」を経る前のパウロにとって重要な事柄でした。

 パウロだけでなく、ユダヤ人にとっては、神の民である自分たちと、それ以外の異邦人という「線引き」は当然の世界観だったそうです。

 そういう「線引き」をして、自分を特別視したり、相手を格下に位置づけたりする物の見方は今の時代にも少なくないかと思います。

 逆に、線を引くことで、自分には価値がないと自己嫌悪することもあるかと思います。

 パウロはかつて「ユダヤ人かギリシア人か」という線引きで人を判断していましたが、「時」を経てからは物の見方が次のように変わりました。

 「すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、
すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。」

 人の分かれ目はユダヤ人かギリシア人かという『立場』ではなく、悪を行うか善を行うかという『行い』にある。

 当たり前のことではありますが、その人の価値は国籍や社会的立場やマイノリティ-マジョリティといった属性によって決まるものではありません。

 神が見るのはその人の『行い』です。

 

☆「わたしの福音」

 パウロは人生の途中で「時」を経験しました。
「時」を経験することでパウロの人生は大きく転換しましたが、その経験について「わたしの福音」と表現しています。

 「福音」は「ふくいん」と読みますが、聖書のキーワードです。「良い知らせ」という意味の言葉です。

 聖書の多くの箇所では「神の福音」とか「イエス・キリストの福音」と使われますが、パウロは時折「わたしの福音」という言い方をします。

 一般論としての福音ではなく、確かに自分を変化させた、自分がこの手で受け取った福音。あの「時」があったから今の自分がいる。そんなパウロの実感がこめられた表現であるように思います。

 「わたしの福音」という経験が皆さんの心にもあるでしょうか。 

2020年1月26日