教会に通わずに聖書を学びたい方のために No.1

宇田慧吾牧師

 「信者にはならないけど、聖書を学びたいという人のための講座をしてくれたらいいのに」

 昨年、このようなご意見をいただきました。ですので、しばらくそのような連載をします。

 ご意見をくださった方は福祉のお仕事をされる中で、その根底にあるキリスト教の精神を学びたいと感じられたそうです。

 また、この方はかつて教会に通い、洗礼を受けてもいます。けれども、教会特有の文化にどうしてもなじむことができなかったそうです。私自身もそのような教会特有の文化に居心地の悪さを感じた経験があります。ですから、この方のように「キリスト教に関心がある。学びたい。でも、教会のメンバーになりたいわけではない」という気持ちはよく分かります。

 この連載は「教会に通ってはいないけど、聖書を学びたい。キリスト教を知りたい」という方のためのものです。また、「かつて教会に通っていたけれども、今は離れてしまった」という方のためのものです。

 そういった方たちがいくらかでもインスピレーションを受けて、キリスト教のメッセージを仕事や生活に生かしていただけるような連載を書いていければと思います。

 具体的には、聖書の中の「ローマの信徒への手紙」という文章を読んでいきます。これは使徒パウロがローマ教会へ宛てて書いた手紙です。キリスト教のメッセージを自分のものとしていくためには、この手紙を深く理解することが重要だと言われています。キリスト教史の主だった人物たちの多くがこの手紙を愛読してきました。

 前置きが長くなってしまいましたが、早速、ローマの信徒への手紙を読んでみましょう。日本語の聖書にはいくつかの翻訳がありますが、ここでは新共同訳聖書の本文を載せておきます。カトリック教会や多くのプロテスタント教会で用いられているスタンダードな翻訳の一つです。

【ローマの信徒への手紙 1章1-7節】
 01:01キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、―― 01:02この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、 01:03御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、 01:04聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。 01:05わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。 01:06この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。―― 01:07神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

 気になる言葉はありましたか?
 私は「召されて」という言葉が印象的でした。少しだけ解説と私が感じたことを書きますね。

 パウロは今の自分の立場について、自分で選んだものではなく、選ばれ召された立場だと考えていました。「召す」は「呼ぶ・招く」の尊敬語です。もちろんここでは、神に呼ばれた・招かれたということです。

 パウロはもともとはサウロという名前でした。旧約聖書に出てくるイスラエルの最初の王様が「サウル」という名前です。サウロは高学歴な人であったようです。ガマリエルという有名な先生に師事していたことは自慢になる経歴でした。また、ファリサイ派という律法の実践に熱心なグループに所属していました。おまけにローマの市民権を持っていました。総じて、相当なキャリアや立場を持っていた人物と言えます。

 けれども、神に召された後は、そういった自分の人生の中で築き上げてきた一切が「塵あくた」「損失」と感じるようになったそうです。召された時にサウロからパウロに改名していますが、パウロは「小さい」という意味です。神に召されたことはパウロにとって文字通り人生のターニングポイントでした。パウロの価値観や生きる目的、意味は神に召される経験をすることで大きく変わりました。

 「召される」という経験を皆さんはお持ちですか?その出会いによって大きく人生を変えられた。その出会いによって今の自分があるというターニングポイントがありますか?

 私は牧師ですからもちろん神さまに召された経験があり、教会で働いています。でも、キリスト教と直接には関係ないことでも召される経験をしてきたように思います。

 小学生の時、私はどうしようもない問題児でしたが、ある先生との出会いによって救われる思いがしました。その後、学校の先生になりたいと思った時期もありました。学校の先生にはなりませんでしたが、今でも子どもと関わる活動では、あの先生が自分にしてくれたことがベースになっています。そんな今の自分をつくってくれた出会いは、自分で選んだ経験ではなく、向こうから来た経験だなと思います。

 思い浮かべると、そんな与えられた出会いが人生の中にいくつもあります。その一つ一つが自分をつくり、引き受けていくべき役割を定めてくれているように思います。

 人生にはうまくいく時もそうでない時もありますが、どんなときも自分の召された役割に忠実であれたらそれでハナマルかなと思います。

2020年1月5日